日付:1996年6月20日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
愛に関する御講話より
愛のないハートに命は宿っていない
体が呼吸をしているからといって、それを命あるものと呼べようか?
それはただの鞴(ふいご)にすぎない
愛の化身たちよ! 愛の証は、無私の犠牲(ティヤーガ)です。愛は誰からも何も求めません。愛は誰のことも悪く思いません。愛は完全に無私で純粋です。
愛の本質を理解できないまま、人はさまざまに愛を切望します。愛は、無私と犠牲の精神で大事に育てなければならないものです。世の中で愛だと思われているものには、それが母の愛であろうと、兄弟愛であろうと、友愛であろうと、自分本位の要素があります。自分本位という汚れが、一切ほんのわずかも付いていないのは、神の愛だけです。
神の愛は、最も遠く離れたところにいる生き物にまで伸びていきます。神の愛は、ばらばらになっている人をまとめます。神の愛は、人を獣性から神性へと引き上げます。神の愛は、あらゆる形態の世俗の愛を、少しずつ神の愛へと変容させます。神の愛を体験するには、自分本位と利己心を手放す準備をしなければなりません。清らかさと不動心を培わなければなりません。神を固く信じて、どんな障害も困難もいとわずに、神への愛を心に抱かなければなりません。
しかしながら、皆兄弟であるという気持ちですら、唯一性(エーカットワ)の体験と同じものではありません。友愛の気持ちの中にさえ、わずかな利己心が含まれています。皆が兄弟であるという間柄を本当に促進したいと望む人は、生きとし生けるものすべての中には一なるアートマが宿っている、という意識を持つべきです。兄弟でも、よく口論をしたり、互いに嫌悪し合っているのが見られます。友愛と言われているものは、本当のものではなく、汚れなき愛ではないかもしれません。本当の愛は、ありとあらゆる人の中に神がいるという自覚の中で、自らを表します。名前と姿は違うかもしれませんが、すべてのものの中に宿っているアートマは、同一です。
神の愛でいっぱいの人は恐れがなくなる
あなたのハートを愛でいっぱいにしなさい。もし、悪い思考を抱いていながら、表向きは愛でいっぱいであるかのように装うなら、それは自分を裏切っていることになります。神の愛を持っている人が、時と場所によって愛を示せなくなることなど決してありません。学生時代に品行方正に過ごしている学生諸君は、学校を出た後、どこで生活しても、どこで働いても、今と同じ態度を保つべきです。外の組織や状況に自分の態度を変えさせる余地を与えてはなりません。ハートにしっかりと愛が埋め込まれているべきです。神の愛でいっぱい人は、恐れがなくなり、他者に何も求めず、無意識のうちに私心なく愛を示します。
神からの贈り物を求めて祈る必要はありません。神は自ら進んでそれぞれの帰依者のためになるものを与えます。シャバリーとジャターユは、求めずしてラーマの恩寵を得ませんでしたか? 何を与えるか、いつ与えるか、どこで与えるかは、神が決めます。ですから、すべての行為を神に捧げるべきであり、それぞれの帰依者が何を受け取るにふさわしいかは神が決めるべきなのです。純粋な愛と完全な信心によって神にすべてが委ねられた時、神は帰依者の面倒を見ます。今の人たちには、このような揺るぎない信心が欠けています。信愛の道では多くの厳しい試練を乗り越えなければなりません。過去の偉大な帰依者たちは、信心と不屈の精神で試練に立ち向かいました。そして、最終的に神の恩寵を手に入れて、至福を味わいました。
ドゥルヴァの手本
たとえば、ドゥルヴァの場合を見てみましょう。ドゥルヴァは5歳の少年で、世界のことは少ししか知りませんでした。ドゥルヴァはナーラダ仙の助言どおりに行動し、厳しい苦行によって、神を直に目にすることができました。ドゥルヴァの信心がその体験を手に入れさせたのです。ところが、ヴィシュヌ神が目の前に現れて、何が欲しいかと尋ねた時、ドゥルヴァはこう言いました。
「主よ! あなたは僕がどこで苦行をしているかを知っていて、僕のところにやって来ました。だとしたら、僕が何を欲しがっているかを知らないことはないのではありませんか?」
主は言いました。
「私はおまえが何を求めて苦行をしたかを知っている。おまえが家を出た時、おまえは誓った。苦行をして、父の膝の上に座るという願いをかなえてもらおう、と。私はおまえの言動が一致しているかどうかを知りたいのだ。」
ドゥルヴァは言いました。
「僕がその小さな恵みを求めて苦行をすることにしたというのは本当です。それは価値のないガラスのようなものでした。それに対して、あなたの御姿の体験は、僕にとってダイヤモンドと同じです。ガラス玉を求めている間に見事なダイヤモンドを見つけたのですから、僕は何と幸運なのでしょう。ガラスのかけらは僕には無用です。」
主は、ドゥルヴァの元々の決意と、苦行と、今の望みが、相反しているのを見ました。主は、そのために苦行を始めたのだから、元の望みを貫くべきだ、そうして、神の祝福と共に王国に戻るべきだと、ドゥルヴァに言いました。これは、思考と言葉と行いの一致の必要を強調しています。
全宇宙に神を認識せよ
人生で何を成し遂げるにも、二つのものが欠かせません。それは、固い信心と純粋な愛です。喜びと苦しみの原因は外部の何らかの力にあると考えるべきではありません。そうではないのです。喜びと苦しみは自分自身の思考の結果です。他人を責めても意味がありません。もしあなたが神の愛を深めれば、その愛が、すべての悲しみと、執着、怒り、妬みといった、すべての悪い性癖を、追い払うでしょう。学生諸君は、霊的な教養と世俗の学問の両方を追い求めるべきです。大自然も神の現れであることに気付かなければなりません。ですから、自然が無視されるべきではありません。自然は結果であり、神がその原因です。ですから、全宇宙に神が内在していることを認識すべきです
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.29 C22