サティヤ サイババの御言葉

日付:1997年5月15日
場所:バンガロールの
ブリンダーヴァン(ホワイトフィールト)のサイラメーシュホール
仏陀プールニマー祭の御講話より

清らかさは解脱への道

愛の化身である皆さん! 英知(グニャーナ)とは、単に書物から得た知識を意味するのではありません。そしてまた、この世的な知識のことでもありません。個別の魂(ジーヴァートマ)と宇宙の大霊は一つであると認識した者だけが、真に至高の英知をもつ者(グニャーニ)なのです。真の英知とは、個人と全体(サマシティ)が一つであるということに気づいていることです。

自分の人間性を知らない者が、どうして自分の内にある神性を認識することができるでしょう? それゆえ、第一に必要とされることは、自分の人間としての特質を一人一人が認識するということです。この真理に基づき、ブッダ(仏陀)〔お釈迦さま〕は、誰もが最初に「サムヤク ドリシュティ」(清らかなヴィジョン、正見)〔サムヤクドルシティ〕を培うべきであると宣言しました。清らかなヴィジョンを抱いている時にのみ、人は身体と言葉と思考(身・口・意)から不純なものを取り除くことができるのです。この清らかさこそが、目と耳を通じて侵入して来る不純なものから人を守ることができるのです。ゆえに、誰にとっても一番に必要とされるものは、「清らかなヴィジョン」(サムヤク ドリシュティ)〔サムヤクドルシティ〕です。

二番目に必要とされる性質は、「サムヤク サンカルパム」(清らかな思い、正思)〔サムヤクサンカルパ〕です。誰もが清らかな思いを抱かなければなりません。自分のヴィジョンに清らかさを持つようにしてきた人だけが、清らかな思いを抱くことができます。

清らかなヴィジョン、清らかな思いとともに、誰にとっても三番目に必要なものは、行為の清らかさ(サムヤク カルマ、正業)〔サムヤクカルマ〕です。誰もが清い行為をすべきです。清い行為をとおして、人は自分のもっている人間としての特質を認識することができます。

人は、ただ肉体を与えられたというだけの存在ではありません。善いヴィジョンを身に付け、善い思いを抱き、善い行為を行う、という能力によって人間性を神性へと変容させる力を、人はもっているのです。

人が四番目に必要とするものは、「サムヤク スムルティ」(神聖な言葉を聞くこと、正聞)(サムヤクシルティ/サムヤクシュルティ)です。神聖でない言葉を聞くならば、神聖でない思いしか抱くことはできません。

ブッダが定めた五つ目の性質は、「サムヤク ジーヴァナム」(清らかな生活を送ること、正命)〔サムヤクジーヴァナム〕です。「生活する」とは何を意味しているのでしょう? それは、世俗を追い求めることに固執した生活を送ることではありません。真の生活とは、理想的な行いをすることによって、自分の生活を意味あるものにすることです。人の生活は、理想を実行することによって律されなければなりません。

心の中から不純物をすべて取り除くことが真のサーダナ

次に、ブッダは、誰もが「サムヤク サーダナム」(最高の善を達成すること、正精進)(サムヤクサーダナ)を目指すべきであると宣言しました。サーダナム(サーダナ)とは、人の中にある邪悪な性癖を除去し、善い神聖な性質を獲得することを意味します。真のサーダナとは、人の内にあるすべての悪を根こそぎにすることです。聖典を学び、瞑想し、苦行をすることがサーダナ(霊性修行)のすべてではありません。心(マインド)の中の不純物をすべて取り除くことが、真のサーダナなのです。

この次に来るのは、ブッダが「サムヤク サマーディ」(正定)〔サムヤクサマーディ〕あるいはニルヴァーナ(純粋なる悟り、解脱)と呼んだものです。「サマーディ」(三昧、定)の意味するものとは何ですか? それは、光と闇、苦と楽、損と得を同じように扱うことです。「サマ・アディ」つまり、心が等しい状態にあることが「サマーディ」です。光と闇、苦と楽、損と得、評判と批判を同じ心で眺めることが「サマーディ」なのです。ブッダはこの等しい心の状態を「ニルヴァーナ」と名付けました。

人間のあらゆる感覚〔感官〕は本質的に神聖である、ということを理解しているところにこそ、真の人間らしさがあるのです。まず最初に、人は舌を清く保っていなければなりません。これは「サムヤク ヴァーク」(言葉の清らかさ、正語)〔サムヤクヴァーク〕と呼ばれています。舌は、虚言、悪口、毒舌を慎むことによって、清められなければなりません。

次に来るのが、「サムヤク ダルシャナム」(正見)〔サムヤクダルシャナ/サムヤクトルシティ/サムヤクドリシュティ〕すなわち、神聖なもののみを見ることです。あなたの良心を喜ばせるもののみを見なければなりません。世俗のものを何でも見るということは、決して正しい見方ではありません。

ブッダは、善いものを見ること(正見)、善いことを思うこと(正思)、善いことを話すこと(正語)、善いことを行うこと(正業)を強調しました。何でも見るというのは、誰にとってもよいことではありません。目は、清いもの、神聖なもの、徳を養うもののみを見るために使うべきです。

仏陀のなした真理の探求

神の化身(アヴァター)たちが皆、善いもののみを見なさいと説いてきたにもかかわらず、人は今日、その教えに従うことなく、化身たちの誕生日を祝うことだけで満足しています。ブッダはヤグニャやヤーガ〔供犠〕には全く重きを置いていませんでした。なぜならブッダは、まず第一に五つの感覚器官の清らかさを確保することが重要である、と感じていたからです。ブッダは、心はなぜ乱されるのかということを探求しました。ブッダは、誰であろうと苦しんでいる人を見ることに耐えられませんでした。老いによって人が苦しめられるのを見ると深く悲しみ、死体を見ると困惑しました。これら自然の出来事はどれも、ブッダに心の平安を与えはしませんでした。ブッダは、惑星や太陽や星の動きを自然現象と見なしていました。ブッダはこれらの自然現象を超越するものを探し出すために、多くの霊性修行を行いました。修行で答えを見出すことができなかったブッダは、多くの偉大な長老たちの所に赴き、答えを求めました。しかし、ブッダに満足する解答を与える者は一人としていませんでした。最後に、ブッダはガヤーに辿り着き、自分を悩ませている問題を瞑想するため、菩提樹の元に座したのです。

「アヒムサー パラモーダルマハ」

ブッダは、ヴェーダを学習することにも、ヤグニャやヤーガ〔供犠〕を行うことにも関心がなかったために、無神論者と呼ばれていました。これは完全な誤りです。ブッダは純粋なハートをもっていました。ブッダが生まれた時、高名な占星術師は、ブッダが偉大な王か偉大な出家者のどちらかになるであろうと予言しました。ブッダの父シュッドーダナ王は、これを聞くと、この世で起こる見苦しい世俗の光景が息子の視界に全く入らないようにと、守備を整えました。子供のころから、ブッダは誰かが苦しんでいるのを見ることに耐えられませんでした。年長者が若者を冷遇し、権力者が平民を苦しめ、大きな魚が小さな魚を飲み込むのを見ると、悲しみに沈みました。ブッダは、誰であろうと他人を傷つけることは誤りであると実感しました。それゆえブッダはこう宣言しました。「非暴力は至高のダルマである」(アヒムサー パラモーダルマハ)〔アヒンサー パラモーダルマハ〕。言葉や行動、あるいは他のどんな形であろうとも、誰も他の人を傷つけてはなりません。ブッダによれば、真のダルマ(正義)とは、思いと言葉と行為において誰をも傷つけないことにあるのです。真理は神です。ブッダは、人は真理を固く守り、それを掲げるべきであると説きました。

ブッダの教えの中で最も重要なものは、サティヤ(真理/真実)とダルマ(正義)です。この二つは、ヴェーダの教訓である「真理を語り、ダルマを行いなさい」(サティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ)ということです。

ブッダが生まれたときに付けられた名は「サルヴァールタ・シッダ」でした。シュッドーダナ王は、息子を義兄弟スッパブッダ〔シュッダブッダ〕の娘ヤショーダラーと結婚させました。王は、このままでいたなら息子は世捨て人となり、俗世から離れてしまうのではないかと恐れたのです。しかしブッダは結婚生活が自分にふさわしいものであるとは思いませんでした。人は世俗の生活の様々な執着によって縛られていると、ブッダは感じていました。友人や縁者はこの束縛の原因でした。様々な人間関係はこの世の苦しみの原因です。そしてブッダは宣言しました。「すべては苦しみである(一切皆苦)」(サルヴァム ドゥカム ドゥカム)また、このようにも宣言しました。「すべては束の間のものである(諸行無常)」〔一切刹那〕(サルヴァム クシャニカム クシャニカム)「すべては滅びゆくものである(諸法無我)」(サルヴァム ナシャム ナシャム)

ブッダは、真に永続するものは何もないと感じました。親は、自分の子供を様々に束縛して従わせ、子供たちの人生を惨めなものにしています。子供が適齢期になると直ぐに、親はやっきになって結婚させようとします。親は、結婚生活から人がどんな種類の幸福を得るのかを分かってはいません。親は、自分自身の結婚生活から、肉体的に、精神的に、あるいは他の点において、どんな幸福を得たのでしょうか? どんなに知識があろうと、この問題について考える人はいません。著名な学者でさえ、感覚を超越するものを探し求める代わりに感覚の喜びを追い求めることに価値があるのかどうか、検討しようとはしません。ブッダは、両親や他の人々が協力してブッダを結婚生活に縛りつけようとするのを、大変不幸に感じていました。ある日、ブッダは夜中に宮殿を抜け出して、妻と幼い息子ラーフラを捨てました。

ニルヴァーナが唯一の真実

ブッダは「母もなければ父もない、縁者もなく友もなく、また家も財産もない。目覚めるのだ!」との信念からすべてを捨てたのです。ブッダは、世俗的関係や喜びのすべてを越えた何かを見つけ出そうと決心しました。

ブッダは自らに問いました。「人生とは何であるか? 誕生は惨めなものだ。老いは惨めなものだ。妻は悲しみの原因である。一生を終える時にも惨めさがある。ならば、油断なく警戒し、目覚めることだ」

幸福はこの世のどんなものからも見つけることはできません。すべては過ぎ行くのです。人は些細で儚い喜びを追い求めて人生を無駄にしています。「ニルヴァーナ」だけが真実です。それは、すべての生命と一体であるという感覚です。心を永遠のものに向けること、それが「ニルヴァーナ」なのです。

ニルヴァーナに達する前に、ブッダは異母兄弟のアーナンダを呼びました。ブッダの母親マーヤーデーヴィーはブッダが生まれて七日目に他界し、シュッドーダナの二番目の妻ゴータミーがブッダを育てました。ゴータミーに育てられたため、ブッダはゴータマタマ ブッダと名付けられました。28歳の時、ブッダはすべてを捨てて出家行者になりました。出家という、この段階が意味するものとは何でしょう? ブッダはこう宣言しました。「サンガン(サンガム) シャラナム ガッチャーミ」、すなわち「手は社会の中に、頭は森の中に」。ブッダは社会の安寧を促進することを考えてすべてを捨てたのです。

ブッダは「私はダルマ(法)を拠所とする」と宣言しました。ダルマとは何でしょう? 「非暴力は至高のダルマである」(アヒムサー パラモー ダルマハ)。ダルマとは、誰に対してもいかなる害をも与えないことを意味します。

仏教の衰退

この二つの説法を基礎に、ブッダは教えの伝道に努めました。ブッダの教えは、チベット、中国、セイロン、ビルマ、タイ、日本といった多くの国々に広まりました。

やがて宗派の分裂が進み、それによって仏教は衰えていきました。

ブッダが強調したことは、ただ、日常生活のあらゆる側面における清らかさでした。ヴィジョンの清らかさ(正見)、思いの清らかさ(正思)、言葉の清らかさ(正語)、行為の清らさか(正業)です。ブッダは、犠牲の精神こそが真のヤグニャ〔供犠〕であるとみなしていました。犠牲はニルヴァーナ(世俗的存在の束縛からの解放)にたどり着く手段です。ブッダは、誰であろうと自分の意思に反して世俗の生活を送るように強要する人には断固として反対しました。

ブッダが托鉢行者として施しを乞いながら歩いていると、父シュッドーダナがブッダを呼んで言いました。

「息子よ! なぜそなたは物乞いをして歩いておるのだ? 私は王であり、そなたは物乞いの生活を送っている。これはまったく正しいことではないではないか」

ブッダは王に適切な返答をしました。

「王様、あなたはブラフマンで、私もブラフマンです。あなたは父ではなく、私は息子ではありません。私たちは二人ともブラフマンなのです。現象世界では、あなたは支配者の部族に属しており、私は出家行者の部族に属しています。私の理想に従うものは皆、出家行者です。あなたの部族は執着(ラーガ)を基盤とし、私の部族は放棄(ヴィラーガ)を基盤としているのです。執着している者にとって、執着は病(ローガ)となります。出家行者にとって、無執着はニルヴァーナ(束縛からの解放)への手段となるのです」

ブッダはこのようにして自分の父、妻、息子に教えを説きました。

仏教の祈りの意味

仏教の祈りを正しく理解しなければなりません。仏教徒たちはこのように唱えます。「ブッダに帰依し奉る、ダルマ(法)に帰依し奉る、僧伽に帰依し奉る」(ブッダム シャラナム ガッチャーミ、ダルマム シャラナム ガッチャーミ、サンガム シャラナム ガチャーミ)この祈りが真に意味しているのは、「ブッディ〔理智〕(心)を正しい行い(ダルマ)へと向けなければならない。そして、正しい行いは社会への奉仕を目指すものでなければならない」ということです。これが実践されるなら、社会は清められます。

神の化身(アヴァター)や救世主たちの伝記を読むことだけでは十分ではありません。彼らの教えをでき得る限り実践すべきです。人は物質への執着から徐々に脱し、神聖な愛を育まなければなりません。

シュッドーダナは、外界のあらゆる世俗的影響から息子を守ろうと、ブッダを宮殿の中に閉じこめ、学校にさえも通わせませんでした。結局、何が起こったでしょう? ブッダは人間存在の真理を探究するためにすべてを捨てる決心をし、最高の善として非暴力(アヒムサー/アヒンサー)を宣言したのです。

今日、人に必要なものとは何でしょう? それは三つあります。月のように清らかで汚れのないハート、バターのようにソフトで甘美な言葉、愛と優しさに満ちた顔です。今日の世界にはこれらが欠けています。大気のすべてが恐れを与えています。言葉に荒々しさがあります。ハートに穏やかさがありません。ハートはバターのように清らかで柔らかくなければなりません。ところが今日、人はそれとは反対に硬いハートをもっています。ハートを慈悲で満たしなさい。言葉を甘美に、そして真実で満たしなさい。そうすればあなたは真の人間となるでしょう。

非暴力は最高の徳

ブッダは世に向けて一つの偉大な真理を説きました。ブッダは、ヴェーダや聖典の言葉が真理を構成しているのではないと宣言しました。人は、非暴力が最高の徳であることを心に留めておくべきです。思いと言葉と行為によって誰をも傷つけてはなりません。舌は真実を語るために与えられたのです。ジャヤデーヴァは舌の甘美さを示すため、ゴーヴィンダ、ダモーダラ、マーダヴァといった神の御名を舌に唱えさせました。

いくつ宗教があろうとも、ゴールまったくは同じです。(ここでスワミ〔ババ〕は、信仰はいかに多くとも神は一つであるということを表した歌を歌われました) この世で日常生活を送るには、人は数多くの使命を果たさなければなりません。しかし、それらすべてをして、真に生きていると言えるのでしょうか? 神を想うことなく過ごした人生を、仮にも人生だと呼べますか? 清らかさがなく、道徳がなく、霊性がないところにどんな人生があるというのでしょう? 道徳と誠実さのみが、人を解脱へと導くのです。今日、この二つが欠けています。人は、道徳と誠実さに人生の基盤を置くように努めなければなりません。人は、イエスが述べたように、神の使いとなるべきなのです。

愛の化身である皆さん! 私たちは今日、ブッダ プールニマー〔仏陀の満月祭〕、ブッダ ジャヤンティ〔仏陀の誕生祭〕を祝っています。プールニマー(満月)とは何を意味しているのでしょう? 満月は完全を意味しています。心が愛に満たされている時、心は充足を得ます。心が暗闇(邪悪な思い)に満ちている限り、ブッダ プールニマーを祝う意味はありせん。闇を払いなさい。ハートに愛の光がないのであれば、外に照明を置くことが何の役に立つでしょう? あなたの心(マインド)に神のランプを灯しなさい。ハートから憎しみと妬みを追い払いなさい。人は二つの邪悪な惑星の被災者です。その惑星とは、執着と憎悪です。その支配から逃れる唯一の方法は、愛を育てることです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.30 C13