サティヤ サイババの御言葉

日付:1997年9月7日
場所:プラシャーンティニラヤム

ガネーシャの原理の意味

愛の化身たちよ! 自分と神との同一性を認識している人が、真のグニャーニ(絶対者を知る者)です。バーラタ〔インド〕の祝祭はすべて、神聖であり、深い霊的な意味が備わっています。ですから、儀式として機械的に祝うべきではありません。  バーラタ人はヴィグネーシュワラ〔ガネーシャ神の別名、破壊する者の意〕を、「おお、パールヴァティー〔シヴァ神の神妃〕の息子よ! 神群の主(ガナーディーパティよ!」と称賛します。パールヴァティーとは誰ですか? パールヴァティーとガナパティ〔ガネーシャ神の別名、神群の主の意〕の関係は何ですか? 人々は普通、こうした事柄について調べません。通常、パールヴァティーはガナパティの母親であると考えられており、誰もこの二神の根底にある一体性を認識していません。

パールヴァティーとガナパティはどこにいるのでしょう? この二神は外界にいるのでしょうか、それとも人間一人ひとりの内にいるのでしょうか? その真実は、二神は共にすべてに遍満しており、エーカートマバーヴァム(霊的に一つであること)というメッセージを伝えている、というものです。

「ガナパティ」という御名の意味

ガナパティという御名の意味は何でしょう? ガナ〔神群〕はどこにいるのでしょう? ガナはどのような姿をしているのでしょう? これらを調べれば、グニャーネンドリヤ〔グニャーナ・インドリヤ、5つの知覚器官=目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚きゅうかく)、舌(味覚)、皮膚(触覚)〕とカルメーンドリヤ〔カルマ・インドリヤ、5つの行動器官=口(発声)、手(操作)、足(移動)、生殖器官、排泄器官〕がそのガナであることを見出すでしょう。この10の器官の主はマインドです。マインドより上の識別機能はブッディ(理智)です。10の器官とマインドと理智で、共にガナを形成しているのです。

ガナという言葉の「ガ」は、ブッディ(理智)を表しています。「ナ」はヴィグニャーナ(高次の知識や智慧)を意味します。ガナパティは智慧と高次の知識をつかさどる神です。「智慧と高次の知識は外界にあるのか? それとも、人間の内で見出されるべきものなのか?」という質問がなされるかもしれません。ガナパティは人間一人ひとりに内在している、というのがその答えです。外側の世界にガナパティを探す必要はありません。ガナパティは理智と智慧という形をとって人間一人ひとりの中に住んでいます。

ガナパティが「パールヴァティー タナヤ」(パールヴァティーの息子)と述べられるときの、パールヴァティーとは誰ですか? パールヴァティーはプルティヴィー(母なる大地)を象徴しています。誰も皆、母なる大地の子どもです。「パールヴァティー タナヤ」の意味は、ガナの主であるガナパティはシャクティ(神聖エネルギー)を象徴するパールヴァティーの息子である、というものです。

パールヴァティーとガナパティへの崇拝は後世に始まったものではありません。ガナパティは「リグ・ヴェーダ」の数ヶ所で褒め讃えられています。ガナパティはヴェーダ同様、古来のものです。ガナパティは、ヴェーダにおいてもウパニシャッドにおいても、数ヶ所で言及されています。「マハー・ナーラーヤノーパニシャッド」〔「マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド」の別称〕の中にはガナパティに向けた多くの祈祷文きとうがあります。「タイッティリーヤ・ウパニシャッド」にもガナパティへの祈祷文があります。ガナパティ・ガーヤトリーマントラも先に述べたウパニシャッドに加えられています。

ガナパティにはヴィナーヤカ〔障害を取り除く者、師、リーダーの意〕という名称もあります。ガナパティより上の主はいないからです。ガナパティは全能であり独立しています。ヴィナーヤカの原理の深遠な意味を認識することなく、人々は外側の姿だけを見て、俗世の言葉で礼拝を捧げています。

ヴィッディヤーは人生の統合意識

主人をもたない者であるヴィナーヤカは、どのような姿で人に内在しているのでしょう? アートマの姿です。アートマに主人はいません。マインドはインドリヤ(感覚器官)の主人です。インドラ神はインドリヤの主人です。人々は、インドラは天界を支配していると考えています。しかし、インドラはマナス(マインド)の主としてすべての人々に内在しているのです。マナス(マインド)の主であるブッディ(理智)は、まさにグニャーナ(叡智、意識)の具現です。グニャーナとはどのような種類の意識でしょう? それは絶えざる統合意識です。それは増大することも減少することもなく、不変の状態を保っています。それはヴィグニャーナ(高次の知識や智慧)と呼ばれています。残念なことに、今日では、ヴィグニャーナは科学と等しいものと見なされています。科学はヴィグニャーナではありません。科学は現象的な知識です。科学は論証に基づいたものです。

今の学生たちは、学術的な研究が成功して良い学者となるために、ガネーシャを礼拝しています。実のところ、そうした勉強で学ぶことは皆、教育や学習とは呼べますが、ヴィッディヤー(真の知識、真の叡智)と呼ぶことはできません。深い内的意味を持つヴィッディヤーという言葉に現代の学術的な教育を当てはめるのは、言葉の使い方が間違っています。ヴィッディヤーは人の細胞一つひとつを動かしている力の意識です。人は、この意識を通して、生まれてから死ぬまでの人生の出来事の意味のすべてを学びます。この意味において、ヴィッディヤーは「生きる方法」です。皆さんが行うことはどれもヴィッディヤーの一部です。ヴィッディヤーは人生の統合意識です。ヴィッディヤーは自らの総体の中にすべてを包含しています。皆さんがヴィナーヤカに祈るべきものはこの種の総体的な知識です。学位を取得することはヴィッディヤーには相当しません。最期の瞬間までいかにして幽霊〔ブータ、粗大元素(地・水・火・風・空)を指す〕と手を切るべきかを知ることが、ヴィッディヤーです。人の生涯は一つの連続した学びのプロセスであると見なすべきです。この精神で知識を追い求める者が、真の学生です。学生はヴィッディヤールティ(ヴィッディヤー + アールティ = 知識を捜し求める者)と呼ばれます。捜されるべき知識は書物の知識でも現象界の知識でもありません。捜されるべき知識はアートマ・グニャーナ〔神我の知識〕です。最高の知識は神我の知識です。「バガヴァッドギーター」は宣言しています。

アーディヤートマ ヴィッディヤー ヴィッディヤーナーム
(私は諸知識の中ではアートマに関する知識である)

〔「バガヴァッド・ギーター」10章32節の一部〕

人生の真の目的は、この知識を得ることです。ヴィナーヤカはこの知識の教師です。この教師は皆さんの内にいます。ヴィナーヤカの原理は一人ひとりの中に存在します。

ヴィナーヤカへの供物

ヒンドゥー教徒の間には、ガヤー〔ガンジス河の支流にある聖地〕に行ったら、野菜と果物の中で自分が一番好きなものを断つという慣行があります。現代において、この慣行は、断つのは自分が嫌いな野菜や食べ物にするという具合に歪曲わいきょくされています。これに関連して、ヴィナーヤカ・チャトゥルティーの祝祭の間ガナパティに新鮮な緑の草を供える慣行が、いかにして始まったかを明かす神話があります。

あるとき、パールヴァティーとパラメーシュワラ〔シヴァ神の別名、至高神の意〕が、ナンディーシュワラ〔シヴァ神の乗り物の雄牛ナンディの別名〕を審判にして、さいころ遊びをしていました。イーシュワラ〔シヴァ神の別名〕が負けても、ナンディは勝者はイーシュワラであると宣言しました。その不公平な判定に激怒したパールヴァティーは、ナンディに不治の病にかかる呪いをかけました。パールヴァティーの許しを求め、ナンディは自分がパラメーシュワラをひいきして判定したのは、パラメーシュワラは自分のあるじであり、主に尽くすのは仕える者の務めだからであると弁解しました。パールヴァティーは感情を和らげ、おまえが一番好きなものを息子のガナパティに捧げれば呪いは解けるとナンディに言いました。ナンディはしばしよく考えて、自分は雄牛なので新鮮な緑の草が一番の好物であると言いました。ナンディはその好物をガナパティに捧げたいと思ったのです。このようにして、祝祭の間ガナパティへの供え物の中に新鮮な緑の草を含める慣行が台頭したのです。

ガナパティは、人々が役に立たない物、つまらない物だと思う多くの物を、供物として受け取っています。ヴィナーヤカの御名の一つに、アルカドローナプリヤ(インド人が通常好まないトゥンミやジレッディの花を愛する者の意)というものがあります。ヴィナーヤカへの供物には、他に特種な草も含まれています。これに関する話もあります。

イーシュワラはなぜボーラー シャンカラと呼ばれるか

昔、ガジャースラ〔象のアスラの意〕というアスラ(悪鬼)がいました。ガジャースラは苦行をし、その苦行に満足したイーシュワラは、その恩恵としてガジャースラの望むものを何でも与えました。イーシュワラは容易に機嫌を取られる神です。そのため、イーシュワラはボーラー シャンカラ〔お人よしのシャンカラ〕と呼ばれています。信者に満足すると、イーシュワラは信者の求めるものを何でも与えます。イーシュワラは、頭に手のひらが置かれた者は皆ことごとく灰になってしまう、という恩恵をシヴァ神から授けられたバスマースラの場合のように、時たま困難な状況に陥ります。その恩恵を手にするや、早速バスマースラは、シヴァ神の頭に自分の手を置いて自分の力を試してみたいと思ったのです!

シヴァ神がガジャースラに与えた恩恵とは何だったのでしょう? 悪鬼ガジャースラは、誰もとうてい自分には近づいて来れないように、絶えず自分から火が発せられることを望みました。シヴァはガジャースラにその恩恵を授けました。ガジャースラは苦行を続け、シヴァは時おりガジャースラの目の前に現れました。あるとき、シヴァが何が欲しいかを尋ねると、ガジャースラは「あなたが私のお腹の中に住むことを」と言いました。シヴァはその望みをかなえ、悪鬼ガジャースラのお腹の中に入りました。シヴァ神の妻、パールヴァティーはあらゆる場所を捜しましたが、夫を見つけることはできませんでした。最後の手段として、パールヴァティーは兄のヴィシュヌ神のもとに行き、夫の行方を突き止めてほしいと訴えました。全知なる神ヴィシュヌはこう請け合いました。「心配するでない、愛しい妹よ。そなたの夫はボーラー シャンカラである。彼は自分の帰依者がどんな望みを願おうと、結果を考えずに快くそれを授ける。おそらく何か困ったことになっているのであろう。何が起こったか調べてみよう」。

いかにしてヴィナーヤカはガジャースラの頭を得たか

宇宙劇の監督であるヴィシュヌ神は、ちょっとしたドラマを上演しました。ヴィシュヌ神は、ナンディ(シヴァ神の雄牛)をダンスを踊る牛に変えてガジャースラの前に連れていき、自分は牛が踊っている最中に笛で音楽を奏でる笛吹きの役を引き受けました。ガジャースラは牛の踊りを見て恍惚としました。ガジャースラは笛吹きに何がほしいかを尋ねました。すると笛吹きは「私が願うものを与えてくださるのですか?」と言いました。「おまえは私から何を奪いたいのだ? 私は何でもおまえが望むものを快く与えよう」。笛吹きは言いました。「もし、そうであるなら、あなたのお腹に住んでいるシヴァを解放してください」。ガジャースラは、その笛吹きが他でもないヴィシュヌ神自身であることに気づきました。自分のお腹の中にシヴァ神がいるという秘密を知り得るのはヴィシュヌ神しかいなかったからです。

ガジャースラはヴィシュヌ神の足元にひれ伏し、シヴァ神をお腹から出しました。それから、一つの望みを願いました。ガジャースラは、「私はあなたからたくさんの恩恵を授けていただきました。私の最後の願いは、私の死後、すべての者が私の頭を礼拝することによって私を懐かしむことです」と言いました。シヴァ神は、その後すぐに自分の息子〔ガネーシャ神〕を連れてきて、息子にガジャースラの頭を取り付けました。それ以来、バーラタでは、いかなる吉祥な祭典においても、まずガナパティへの礼拝で始めることが広まりました。これはガジャースラに対するシヴァ神の恩恵の結果です。

象の顔をした神を礼拝することの内的意味とは何でしょうか? 象は力と巨大さの象徴です。象の足は、他のどんな動物の足よりも大きいものです。象はどんな深いジャングルでも突き進んでいけます。このように、象は他の人に道を示すというリーダーの特質を象徴しているのです。象は非常に高い知性を持っています。象はまた、忠誠心と感謝の念に満ちていることでも知られています。どんな状況でも、象は自分の主人を忘れません。象は最期の瞬間でさえ、自分の主人の声を聞くと目を開いて主人の姿を探します。主人のためには命さえ犠牲にします。これらは人が象から学ぶべき教訓です。感謝の念に欠けた知力には価値がありません。人は皆、自分を助けてくれた人に感謝すべきです。

ガネーシャ神に蒸した料理を捧げる意味

ガネーシャへの礼拝において、覚えておくべきいくつかの秘訣ひけつがあります。バーラタ人は、ガネーシャへのお供えに特別な供物を作ります。この供物を作るときには、熱いかまは使わずに蒸し器だけを使います。米の粉とジャッガリー〔ココナッツの樹液で作る椰子糖〕と胡麻ごま(ティル)を混ぜて団子にし、蒸して調理します。アーユル・ヴェーダでは、この食べ物には治癒力があるとして高く賞賛されています。中に含まれるジャッガリーはさまざまな病気に効きます。胡麻には動脈をきれいにする働きがあります。胡麻は視力を向上させるのにも役立ちます。これらすべての内的意味は、ガネーシャに捧げる食べ物には健康を促進する効力があるというものです。皆さんは、蒸して調理された食べ物は消化しやすいということを覚えておくべきです。高度専門病院では、手術の翌日の食事に蒸したイドリー(米粉で作った蒸パン)が出されます。油を含んだ食べ物は出されません。イドリーが出されるのは消化しやすいからです。

ヴィナーヤカの原理とは、要するに、健康、至福、平安、叡智、繁栄、そして、他のたくさんのものの象徴です。不幸なことに、大多数の人はこの真理を認識していません。人々は、粘土でできたあらゆる奇妙なフィギュア〔素焼きや紙粘土で作った手作りのガネーシャ像〕に、ある種の機械的な礼拝を捧げ、周囲を汚して満足しています。〔ガネーシャ・チャトゥルティーで礼拝したガネーシャ像は通常最後に川に流したり池に沈めたりする。〕神に捧げるべきものは、神を喜ばせるものです。これぞパールヴァティーがナンディーシュワラに要求したものです。パールヴァティーはナンディーシュワラに言いました。「私の息子が喜ぶもので、おまえが一番好きなものを捧げなさい」。

ヴィナーヤカ・チャトゥルティーは、そういった喜ばしいものをガネーシャに捧げることを祝うことを意図しているのです。

ねずみの象徴的意味

ヴィナーヤカにまつわるもう一つの高潔なものは、ヴィナーヤカの乗り物であるムーシカ(ねずみ)です。このねずみは何を表しているのでしょう? ねずみは無知の象徴である暗闇を表しています。ねずみは暗闇の中を動き回ります。ガナパティは無知という暗闇を制するものと見なされているのです。

ねずみはヴァーサナーの感覚(嗅覚)が発達していることでも知られています。物から出ているにおいを基に、ねずみはそれがどこにあるかを察知します。人間に関連するヴァーサナーの内的意味は、各人が前生から持ってきたヴァーサナーという継承物です。そうしたヴァーサナー(継承された傾向)は、その人の前生の行為に原因があります。ヴァーサナーは欲を示すものでもあります。根底にあるこの欲の意味を認識することなく、人はただ、ヴィナーヤカのような大きな生き物がどうやってねずみのような小さな生き物に乗ることができるのかと、不思議がっています。

ヴィナーヤカは、無知に対する叡智の勝利と、欲に対するエゴのなさを示しています。あるとき、ヴィナーヤカと弟のスッブラマンニャが、どちらが先に世界を一周できるかを競争しました。ヴィナーヤカは非常に賢く、並々ならぬ力を備えていました。何にもまして、どんな利己心もまったく持ち合わせていませんでした。これは神の至高の特質です。神の行うことには利己心のかけらもありません。神の愛の真の性質を理解することができる人は、わずかしかいません。人間は自分の愛と神の愛を比べようとします。人間は、自分の愛が、自分の好きなものや、いつも自分が楽しんでいるものへの執着に基づいていることに気づいていません。人を引きつける力や、その逆の力は、対象物それ自体の中に本来備わっているものではなく、個々人と結び付いたヴァーサナー(過去の印象に基づいた欲求)に備わっているものです。

ヴィヴェーカーナンダの発見

ヴィヴェーカーナンダは、同じ状況での人々の異なる反応を観察することで、この真理を発見しました。飲みすぎて道端で倒れていた男を見て、酔っ払った二人の泥棒は、「その男は夜一仕事終えたあとで一杯やった自分たちのような泥棒に違いない」と言いました。てんかん持ちの人は、「その男は癲癇で倒れたに違いない」と思いました。サードゥ〔行者〕は、男が意識を失っているのを見て、「ニルヴィカルパ サマーディ(瞑想での超意識状態)に入っているヨーギに違いない」と思い、崇敬の念で男の足をもみ始めました。こうしたさまざまな反応は、人間は事実に基づいてではなく、自分の感情と経験に基づいて物事を判断しているということを示しています。その結果、ヴィヴェーカーナンダは、スワミ・ラーマクリシュナ・パラマハンサの霊的卓越に関する自分の疑念は、自分の見当違いな考えの結果であって、パラマハンサの性質とは関係がないことに気づきました。

ラーマクリシュナに欠点はなく、欠陥は自分の感情にあったということに、ヴィヴェーカーナンダは気づきました。ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナから離れてしまったことを後悔し、その悲しむべき過ちを母親に打ち明けました。そして、母親にラーマクリシュナのところに戻る許可を願いました。母親は、ヴィヴェーカーナンダの思うとおりに行動することを許可しました。ヴィヴェーカーナンダは、人間の気まぐれな思いこそが、神に関する人の疑念と困惑の主な原因であることに気づきました。

神は欠点や欠陥を超越しています。それゆえ、神は完全であり、汚れなく、無相であり、無属性であると述べられているのです。ガナパティはアプラメーヤ(超越的で包括的)であると述べられています。それゆえ、ガナパティはどのようにも礼拝され得るのです。

祈りとテスト

チッティバーブは、先のスピーチの中で、皆さんが善い人生を送れるよう、あらゆる善い性質、善い思いと力を皆さんに与えてくださいとスワミに懇願しました。チッティバーブはスワミから恩恵を得ることについて話し続けましたが、自分自身はスワミに何を捧げるのかについては何も話しませんでした。神は皆さんが望むものを何でも差し出す準備ができています。しかし、皆さんには、自分の預金に応じてお金を引き出すことのできる預金者と同じように、それを受け取る資格を得なければなりません。人が神から受け取ることができるものに対しても、これと同じ規則が当てはまります。人が神から受け取ることができるものは、神に預金した額次第です。その結果として、祈りに対する小切手が正当に支払われるのです。

あなたの祈りが神に届くようにするには、「信仰」という切手と「愛」という住所を添えなければなりません。もし信仰と愛を持っていれば、距離にかかわらず、祈りは神に届きます。皆さんは、神に対する自分の愛が純粋で汚れのないものかどうかを見なければなりません。神のテストに身をさらす覚悟をしなければなりません。そうしたいくつかのテストに早く合格するほど、もっと神の近くに行くことができます。

あなたは人生の中で、あなたがどれだけこの世のはかないものに執着しているか、あなたがどれだけ神を渇望しているかをテストされます。もし、神に対するあなたの愛が、浮世のものに抱いている愛の何十分の一しかなかったとしたら、神があなたに恩寵を注いでくれることがどうやって期待できるでしょう?
(ここでスワミはジャヤデーヴァの歌をお歌いになり、その中で人が自分の地位や家族のために使っている時間の少なくとも何分の一かを、死の時に自分を救いに来てくれる神を黙想することに割くよう訓示なさいました)

もし、人が世俗のことを考えて無駄にしているたくさんの時間のうち、わずかでも神のことを想うなら、どれだけ神聖であることでしょう。人々はこの真理への信仰を培うべきです。何を信じていようとも、信じるべきは神です。それが偉大さの印です。自分を信じていない人が、どうやって神を信じられるでしょう? あなたの信仰を、束の間ではかないものからそむけ、変わることのない永遠の実在へと向けなさい。

信仰の力

信仰の力はキリストの生涯の中の一つの出来事によって明示されています。あるとき、盲目の男がイエスに近づき、「主よ! 私の視力を取り戻してください」と懇願しました。イエスは男に、「おまえは私が視力を取り戻せると信じているか?」と尋ねました。男はためらうことなく、「はい、主よ!」と答えました。するとイエスは、「それならば、目を開いて見るがよい」と言いました。男が目を開けると、目は見えるようになっていました。

これと同じように、人々はスワミに、これをください、あれをくださいと祈ります。皆さんは、私にあなたの求めるものを与える力があると信じていますか? 私の返答は皆さんの信仰次第です。

ヴィヴェーカーナンダほどの人物でさえ、スワミ・ラーマクリシュナ・パラマハンサの神聖さを疑いました。疑い深いトマスはいつも存在します。富や所有物に対するラーマクリシュナの嫌悪をテストするために、あるときヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナの枕の下に金貨を数枚置いておきました。ベッドに横になった瞬間に、ラーマクリシュナはまるで自分がいばらの床に就いているかのように感じました。ヴィヴェーカーナンダはすぐに、自分の疑いがいかに根拠のないものであったかに気がつきました。ヴィヴェーカーナンダは、偉大な魂たちの高みへと上昇するためには、自分自身の魂を高めるべきなのだと感じました。

今の人々は、空を飛ぶ飛行機のパイロットを見たいと望んでいる地上の人間のようなものです。パイロットを見る唯一の方法は自分が飛行機に乗ることです。神を体験するには、神のヴィジョンを渇望しなければなりません。それが理想的で至福に満ちた人生を送る方法です。ガナパティはこの目的のために礼拝されるべきです。なぜなら、ガナパティは感覚の主であり、感覚を征服した者だけが、人に自分の心を神のほうへと向けさせることができるからです。

もし、問題や困難のない幸福な人生を送りたければ、あらゆる障害を取り除く者であるガナパティに祈らなければなりません。寺院に行く必要はありません。ヴィグネーシュワラはブッディ(高次の叡智や理智)とヴィグニャーナ(叡智)として皆さん一人ひとりの中に住んでいます。自分に生来備わっている理知と叡智を適切に使えば、人生で成功するでしょう。

人々は、プラクリティ〔自然、原質、現象界〕とプルシャ(至高神)が結びついていることに気づいて、一つであるという良識の上に人生の基礎を置かなければなりません。人間は体と意識の結合体です。人は、霊性の第一歩として、内省に取りかからなければなりません。そうして初めて、現実を理解することができるのです。誰も自省に着手していませんが、他者を非難する準備はできています。自分の過失について自分を省みて、自分を罰する心構えのある人だけに、他者を批評する資格があります。

なぜガナパティの祝祭は10日間行われるのか

学生諸君! 皆さんには、導き手である良心と、神性を表している純粋意識が備わっていることを実感しなさい。感覚をつかさどるガナパティを、感覚を制御するための導き手とすべきです。ガナパティを10日間礼拝することには内的意味があります。その意図は、一日につきインドリヤ〔10の器官〕のうちの一つを制御できるようになるために、一日一日を捧げるというものです。

学生と帰依者たちは、感覚の制御はいたって単純であるということに気づくべきです。必要なのは、否定的な感情がわいてきたときに、それをき付ける代わりに肯定的な態度を取ることです。たとえば、ブッダは悪魔の怒りに愛を返して、悪魔を変容させました。今の多くの学生は、うつになりやすく、心が混乱しています。その理由は、自信の欠如による弱さです。神に対する完全な信仰があれば、鬱が付け入るすきはなくなるでしょう。

学生諸君! 外的な満足のためにヴィナーヤカ・チャトゥルティーといった祝祭を行う必要性もありますが、より重要なのは、永続的な効果を得られる可能性の高いヴィナーヤカへの礼拝の内的意味を知ることです。命の通っていない像への礼拝は、その像が体言している微細な霊的存在の黙想へと導くべきものです。アートマ(真我)の悟りは、このプロセスによって生じます。

皆さんの内には生きた神がいるという根本原理を理解し、それに基づいて行動しなさい。ガナパティは、理智と叡智に導かれる理想の人物を象徴しています。話を控えること、悪意や憎悪を捨て去ること、あらゆる悪い思考を抱かないこと、欲を抑えることといった、神を喜ばす行いに従事しなさい。霊性修行と学術的な勉強を結合させることによって、人生を実りあるものとしなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.30 Ch.20