サティヤ サイババの御言葉

日付:1997年11月19日
場所:サイ クルワント ホール
女性の日の御講話より

女性の役割

形あるものすべてが、平安
名前あるものすべてが、善
形あるものすべてが、サット チット アーナンダ〔存在・意識・至福〕
形あるものすべてが、不二一元
そして、それはサッティヤム シヴァム スンダラム〔真実/真理・善・美〕そのもの

愛の化身たちよ!

全世界は真実に満ちています。全宇宙はダルマに従って動いています。全世界は、サット チット アーナンダ〔存在・意識・至福〕そのものです。あらゆるものは神の表れです。

バーラタ〔インド正式名称/神を愛する者の意〕に伝わるヴェーダの母親は、ガーヤトリーです。ガーヤトリーはヴェーダの母であり、全世界はガーヤトリーの姿です。ガーヤトリーは万物に浸透している母性原理です。あらゆる人間の姿は母の姿です。ところが、世の人々は、自分たち一人ひとりに内在しているのは母親にほかならないということを忘れて、あの人は男、あの人は女などと考えて人を区別しています。男性と女性の間にはまったく何の違いもありません。母なる神の聖なる意識が私たち一人ひとりに内在しているのです。生きて働いている意識(動的意識)がなければ、個々の人間というものは存在しません。この動的意識こそガーヤトリーの姿です。この動的意識はエネルギーと力に満ちています。今、人間はこの深遠な真理を忘れてしまい、自分自身を外面的な姿形と同一視し、そのために悲しみや苦しみを体験しています。

ガーヤトリーの母性の本質は、サティヤヴァティー、アンガヴァティー、アンニャヴァティー、ニダーナヴァティーという四つの姿〔ヴァティーは“〜を持っているもの”の意〕をとります。この四種の母性の本質を通じて、人類に深遠な真理が伝えられています。

サティヤヴァティーとは何でしょう? サティヤヴァティーは、牛乳にあまねく含まれているバターのごとく、全宇宙に浸透している遍在の真理です。あらゆるところに遍在している真理は、母なる神です。牛乳にはあまねくバターが含まれています。牛乳の一滴一滴の中にバターの成分が含まれていることを理解するには、さまざまな努力を傾けなければなりません。この世にバターの成分を含んでいない牛乳はありません。宇宙に存在する動的意識の全体が牛乳です。この宇宙全体には神というバターが存在しています。太古の聖賢たちは、この動的意識をかき混ぜて「神」というバターを取り出し、さまざまな聖典の中でそれを人々に伝えました。私たちは、どんなものでも無駄なものはないということを知るべきです。この世に存在するものはすべて神の姿であり、すべての人間は神の姿です。ヴェーダはこのことを、「神の手足は世界中にある」という言葉で表現しています。

二番目は、アンガヴァティーです。アンガヴァティーとは何でしょう? 五元素こそがアンガヴァティーの姿です。あらゆる人間の中に五元素が存在しています。すべての人は五元素でできています。五元素の姿をとった神がすべての人に内在しています。「あなた」と「私」を異なったものと感じるようであってはなりません。「彼は乞食で、私は金持ちだ」などと考えてはなりません。外面には違いがあるかもしれませんが、内在の神は万人に共通です。このように、五元素はすべての人を構成しています。それがアンガヴァティーと呼ばれるものです。アンガヴァティーは、五元素の一つひとつとして表れました。ですから、五元素の集合体がアンガヴァティーであるということができます。

次は、アンニャヴァティーです。あらゆる姿形は一種の象徴です。ラーマは弓を持っています。イーシュワラ〔シヴァ神〕は水を持ち、クリシュナは笛を持っています。サラスワティーはヴィーナ〔弦楽器の一種〕を持っています。このように、あらゆる神が何らかのシンボルを持っており、それがアンニャヴァティーです。ですから、孔雀の羽を持っていれば、その神はクリシュナであることを意味します。ダマル〔両面太鼓〕と三叉の槍を持っていれば、それはイーシュワラです。シャンカ〔ほら貝〕とチャクラ〔車輪状の武器〕とガダ〔棍棒〕とパドマ〔蓮の花〕を持っている神は、ヴィシュヌ神です。このように、それぞれの神が固有の象徴を持っており、その象徴によってどの神かがわかるのです。しかし、神性はすべてにおいて同じです。

最後は、ニダーナヴァティーです。ニダーナヴァティーは、九つの信愛の道によって表されます。人は九つの方法によって神に到達することができます。それは、聴くこと、歌うこと、神の御名を唱えるおと、奉仕すること、神の御足に仕えること、崇拝、祈り、神との友情、神に全託することです。

ヴェーダは無限です。けれども、ヴェーダは人間に対して一つの姿だけを見せました。各人の内なる音声は、神の姿の一つです。そして、それは、シャブダ ブランマーマイー〔音として具現した神〕という言葉で説明されています。このように、音声は人間自身の内部から発せられたものです。

「女性」という意味の「ストリー」という言葉にはさまざまな意味があります。「ストリー」には、「S」「T」「R」という音が含まれています。「S」「T」「R」という音の組み合わさったものが「ストリー」です。まず「S」の音です。「S」の音は何を意味しているでしょう? それはサットワ グナ〔浄性〕を意味しています。サーローキャ〔どんなときでも神を想っていること〕、サーミーピャ〔神の近くにいること〕、サールーピャ〔神と自分を同一視すること〕、サーユージャ〔完全に神と一つになること〕という四つを獲得することが、サカーラすなわち「S」の音の意味です。ですから、女性にとっての基盤は真実です。真実を語るのは女性です。バーラタの国だけでなく、世界中どこの国でも、女性は真実を愛します。ただし、状況の変化のために、幾分かの変化はあるかもしれません。このように、女性を現す言葉の最初の音は、「サカーラ」すなわち「S」の音です。それはサットワ〔浄性〕という性質です。ですから、女性はさまざまな多様性を持ちますが、その基盤として、サットワ(浄性)という性質を持っているのです。浄性の特質として、女性には真実・ダルマ・英知・愛・慈悲などの性質が備わっています。

二番目は「タカーラ」すなわち「T」の音です。「T」の音は、タモーグナ〔鈍性〕を意味しています。この「T」の音ゆえに、女性はタモーグナ〔鈍性〕に満ちているといえるかもしれません。このタモーグナ〔鈍性〕は、悪いもののことをいっているのではありません。それは、謙虚さや、慎み深さや、名誉などの性質です。謙虚さと慎み深さは、女性に備わっている性質です。名誉を守るのは女性の働きです。「主婦を見ればその家庭がわかる」という諺があります。女性は家の名誉を守ります。女性は国家の名誉をも守ります。私たちが祖国を母国と呼ぶのはそのためです。私たちは決して父国とは言いません。人々は、タモーグナ〔鈍性〕を何か軽蔑すべきものであると考えていますが、それは正しくありません。タモーグナ〔鈍性〕は、謙虚さや、慎み深さに満ちた性質でもあります。

「R」の音、すなわちラカーラは、ラジョーグナ〔激性〕を表します。このラジョーグナ〔激性〕は、怒りや憎しみに満ちたもののことではありません。これは犠牲の精神に満ちたものです。女性はいつでも犠牲を捧げる準備ができています。犠牲の精神は女性の一部です。女性は、必要とあれば命すら投げ出す覚悟があります。女性は、夫の名誉や一家の名誉を、自分たちの人生で最も大切なものであると考えます。このように「ラカーラ」、すなわち「R」の音は、さまざまな犠牲を意味します。

ですから、女性は以上の「S」「T」「R」の音の組み合わさった性質を備えており、非常に純粋な存在です。女性は友好的で、親切な性質や行動に満ちています。女性は神聖な美徳に満ちています。

男性たちは女性のこのような特質を認識することができないでいます。男性たちは女性をアバラ、すなわち強くない存在だと考えています。しかしそれは誤りです。女性ほどの強さを持っている男性はいません。女性には七種類の強さが備わっています。男性には三種類の強さしか備わっていません。男性たちはこの真理を認識することができずに、女性は弱いものであると見なしています。女性は力と勇気に満ち、何ごとにも立ち向かう力を持っています。男性は皆、女性の神聖な性質を認識しなければいけません。

かつて、燃え盛る火を鎮めようとしたのは、
インドの偉大な女性、チャンドラマティーではなかったか?
火の中に入って無傷で出てくることができたのは、
インドにおける最も偉大な女性の一人、シーター妃ではなかったか?
素晴らしい美徳を示したあのダマヤンティーも、
インドの誇るべき女性の一人ではなかったか?
インドは素晴らしい豊穣の地であり、そこには、この上なく貞節な女性が育つ
この国は、全世界にとって、教師の役割を果たしているのではなかろうか?

インドの女性の諸性質は、全世界にとって教師の役割を果たすものです。その諸性質をもって教えられたものは、子供たちの心に真っ直ぐ入っていきます。男の教師が教えたことは子供たちの心を打ちません。その理由は何でしょう? それは、女性が子供に教えるときには、愛と理解と友愛をもって、心を込めて教えるからです。

ですから、女性の本質を理解することによって、私たちにさまざまな変化がもたらされます。正義に関するあらゆる教義があっても、ヴェーダの時代と現代とは大きく異なっています。女性が学習しなければなりません。そして、学んだことを実践に移す必要があります。ところが、今、実践はまったく軽んじられています。女性は男性よりも実践を重んじる傾向にあります。

もし男も女も揃って勤めに出てしまったら、
子供の世話をする母親はどこにいるのか?

もし女性が本を片手に男たちのように出ていってしまったら、台所で料理をする女性はどこにいるでしょう? もし女性が、よその家の子供を教えることを仕事にしたら、自分の子供を教育する母親はどこにいるでしょう? 現代では、こうした変化が世の中に見られます。仕事を持っている女性は幸福ではありません。経済的な困難は克服したとしても、家庭の困難はどうなるでしょう? たとえそのような方法で女性が幸福を追求したとしても、決して幸せは得られません。仕事を持っている女性は大勢います。女性は家庭の仕事が第一で、それができた上で外の仕事をすべきです。家庭内での仕事が女性の主な務めです。

結婚後の女性には、「ダルマパトニー」〔正しい妻/ダルマを守る主婦〕、「グリハラクシュミー」(家の女神)、「イッラール」〔家の女主人〕、「アルダーンギ」(男性の半身)等々の呼称があります。ところが、現代の女性は、これらの呼称にふさわしい働きをしようと努めることをせずに、「パドマシュリー」や「パドマビブーシャン」〔インドの国民栄誉章〕といったような称号を欲しがります。そのような称号を追い求めてはなりません。女性はまず第一に「ダルマパトニー」という名にふさわしい人にならなければいけません。あなたが「グリハラクシュミー」(家の女神)であるというのは、あなたは家庭に幸福と歓びをもたらす人であるということを意味します。夫の困難と苦しみの半分を我が身に引き受けて、それに耐える女性、それが家庭のダルマを操る人であり、「ダルマパトニー」(正しい妻)と呼ばれる人です。人は古代から伝えられるこのようなダルマに基づいたあり方を忘れてしまいました。そして、現代においては、完全にそれに反した道を進んでいます。

しかし、今の時代にも善人は大勢います。純粋な心を持っている人はいます。そのような人々は、家庭の外でも一所懸命に仕事をしますが、同時に家庭も幸せに保っています。こうした女性の生活は模範的なものです。このように、家の外でどのような活動をしていようとも、女性にとって最も重要なのは、家庭の幸福と平安を築くことです。母親のいない家庭は穴があいたようです。ですから、女性は家庭の基盤のような存在なのです。女性は、理想的なやり方で、自分の子供の面倒を見、夫の世話をしなければなりません。その後でなら、どんなことでもすることができます。これが昔からの伝統的なあり方です。ところが、現代では何もかもがそうした伝統に逆行しています。一方、人々の中には女性は台所の外に出てはならないと考えている向きもありますが、決してそうようなことはありません。

女性は家庭全体を愛する存在です。女性がきちんとしているとき、初めて理想的な子供が育ちます。男性は女性に一粒の涙もこぼさせてはなりません。もし家の中で女性が一粒でも涙をこぼすようであれば、その家のあらゆる富が消え失せてしまいます。ですから、女性が涙を流さないように気を配るのが男の責任です。しかし、現代の男性はこの真理を認識することができないでいます。彼らは、男性は重要な存在であると考えています。彼らは「プルシャ」という言葉の意味を知りません。彼らはプルシャとはズボンやシャツを着る方法の一つであると考えています。それはまったく違います。「プルシャ」とは、肉体に内在しているアートマ意識のことです。私たちに内在している動的意識こそがプルシャなのです。

現代人は、仕事が男を作ると言っています。仕事を持っている女性はどれほどいるでしょう? 仕事を持っていない男性はどれほどいるでしょう? 男性に関係しているものは仕事だけではありません。ですから、家庭の幸福を築く責任は男女双方にあるのです。男性にも女性にも、家庭の名誉を守り、家庭の幸せを築く責任があります。男性も女性も、男女は平等であると感じなければいけません。ここには多くの電球があって光を投じています。それは陰極と陽極が組み合わさって光が生じているからです。男性と女性が力を合わせて、初めてそこに神性が表れます。ですから、今日、女性も自由を勝ち得なければなりません。それはなぜでしょう? 家庭に真実と正義を築き、幸福と調和をもたらすために、女性は自由を手に入れなければならないのです。ですから、すべての女性が、自らに備わっている理想的なものを顕現する必要があります。

女性は学問をすることができますし、学位を取得することも、仕事に就くこともできます。さらに、女性は国を守る仕事をすることも、政治に参加することもできます。しかし、女性が最初に重視すべきものは家庭です。外での仕事にはその後で着手すべきです。家庭こそが人生の基盤です。もし女性が家庭を離れて外で仕事をするならば、名声も名誉も得られないでしょう。このように、女性は家庭の世話をし、子供の面倒を見て、理想のために戦う戦士になれるよう子供を訓練するという重要な役割を持っています。

今日の世界がこれほどの惨状に陥っているのは、理想的な男性と理想的な女性がいなくなったからにほかなりません。私たちが保護すべきものとは何でしょう? 私たちは、善良な男性と善良な女性を保護しなければなりません。ですから、皆さんは、本当に徳のある子供たちを生み育てなければなりません。人々は自分たちの徳を高めなければなりません。それは何のためでしょう? 自分たちのためではありません。国のためです。何万人もの学生が大学で勉強し、外国に出ていきます。これは正当な理由のあることではなく、正しいことではありません。皆さんは、ただ単にお金を稼がせるために子供たちを学校にやっているのですか? 断じてそのようなことであってはなりません。

偉い人になる必要はありません。善人になるだけでよいのです。すべての親は、子供が一所懸命に勉強をすることを望みます。子供が大きくなって立派な地位に就くことを望みます。名声を得て、偉い称号を獲得することを望みます。しかし、多くの称号を得ても、それがいったい何の役に立つでしょう? 今日私たちが目指すべきことは、偉い人になることではなく、善人になることです。偉い人と、善人の違いは何でしょう? 偉い人というのは、神の中に人間を見る人のことです。善人とは、すべての人間の中に神を見る人のことです。これは素晴らしいことです。ラーヴァナとラーマは、どちらも同じ学問を修めました。ラーヴァナは36の学科を習得しました。ラーマも36の学科を習得しました。ラーマは自分が学習したことを実践しました。一方、ラーヴァナはそれを実践しませんでした。そのことがラーヴァナに悲劇をもたらしたのです。ラーマは自らの行動によって善人の見本となりましたが、ラーヴァナは、エゴと欲望のために邪悪は存在となりました。

ですから、私たちは、まず何よりも美徳を備えなければなりません。美徳の備わった人こそが、真の人間です。しかし今日、私たちはどこにも善良な性質を見ることができません。すべての人が「お金、お金」と、お金ばかり追いかけています。金銭を第一とする人の心は完全に歪んでいます。

人間を表す「マン」という言葉は、MANと綴ります。「M」はマーヤー(迷妄)のことです。私たちはマーヤーを克服しなければなりません。「A」はアートマ(真我)を表しています。私たちはアートマを見なければなりません。そして、「N」はニルヴァーナ(涅槃)です。人間はニルヴァーナに到達しなければなりません。マーヤーを超越し、アートマを見て、ニルヴァーナに到達するのが、人間です。ですから、人間にとっての正しい学問は、人間を研究することなのです。

皆さんの思いと言葉と行動は、完全に調和していなければなりません。偉い人になる必要はありません。自分の子供が偉い人になることを望んではなりません。皆さんの子供たちは、善人になるべきです。そして、評判の良い子になって、善良な行動をするように育たなければなりません。常に世の人々を助ける子供に育つべきです。ですから皆さんは、善良な人間に育つよう、子供たちを励まさなければなりません。

偉い人になっても何の役にも立ちません。世の中には、偉い人はたくさんいます。偉い人の心は不安に満ちており、わずかの平安もありません。ところが、善人は、どこにいても常に平安に満ちています。今日、世の中にはたくさんの科学者がいます。彼らはたくさんの知識を持ち、月にまで出かけていきます。しかし、それがいったい何の役に立つというのでしょう? 科学者は、月に行くことができても、心に平安はありません。宇宙空間に出ていくと、人間の体は冷え、頭脳は過熱状態になります。これは素晴らしいことといえますか? いいえ、いえません。そんなことは少しも善いことではありません。月まで昇る代わりに、心の中に入って行きなさい。月は心の象徴です。たとえ月まで行ったとしても、どこにも行ったことにはなりません。一方、心の中に入って行けば、善人になることができます。月に行けば、偉い人になることはできるでしょう。しかし、あなた方は善人にならなければいけません。

あなたは心を制御しなければなりません。全世界は心によって制御されています。ですから、それほど強力な心を制御しておかなければならないのです。これは、あなたにできる善い仕事です。ですから、善良さを身につけなければなりません。偉くなることではなく、善人になることを目指すべきです。これが万人が目指すべきことです。たとえ夢の中ででも、偉い人間になろうなどと考えてはなりません。まったく無知な人は、偉い人間になりたいと考えます。昔は、本当に立派な人は、社会で尊敬されました。ところが、現代社会ではそうではありません。今の世の中は、たとえば、大臣といったような人にしか敬意を払いません。そのくせ、心の中ではそうした人たちを尊敬していません。私たちは、心の底まで善人になる必要があります。人間は、心から相手の善良さを認めることができなければなりません。そして、人々が「ああ、この人はいい人だ」と心から感じるような人間にならなければなりません。私たちは、社会で良い評判を勝ち得なければなりません。それでこそ本当の人生です。

もし三日間だけ生きるとしたら、白鳥のように生きなさい。100年もカラスのように生きても、何の役に立つでしょう? カラスのような生き方で長生きするよりも、たとえ一瞬であっても、白鳥のように生きなさい。

こうした善良さを広げる役割を果たすのは、女性です。11月19日は女性の日とされています。11月7日は全人類の幸せを祈る日でした。世界中のさまざまな国で特別に女性の日が設けられています。これはなぜでしょう? それは、女性の理想を大切にするためです。母親が理想的であれば、子供は皆、理想的に育ちます。神聖な母性愛こそが、美徳を備えた子供を世に送り出すことができるのです。母親は、自ら徳高い行いを実践し、生きた手本を示すことによって、その役割を果たさなければいけません。母親は、自分の家庭を子供に手本を示す場としなければなりません。

体は私たちにとって大切なものですが、家庭もそれと同じように大切なものです。現代人は、家に鍵を掛けてあちこち出歩きます。これは少しもよいことではありません。「自由」とは何でしょう? 好きな所を歩き回るような「自由」を追い求めるべきではありません。人々は、そういったことが「スワタントラ」すなわち「自由」であると考えています。「スワタントラ」の「スワ」(スヴァ/自分)とは、アートマ(真我)のことです。アートマこそが私たちのタントラです。「スワ」という言葉はまた、それだけで「スウェーッチャー」(自由/自由意志)という意味を持っています。「スウェーッチャー」(自由)とは何でしょう? 「スウェーッチャー」とは、「スヴァ」(アートマ)+「イッチャ」(意志)です。つまりそれは、好きな所を歩き回ることではなく、アートマの意志に従って進むことです。

「スワールタム」という言葉があります。この言葉は「利己心」〔スワ+アルタ〕と解釈せれている向きがあります。そうではありません。「スワールタム」は、「アートマの本質」を意味しています。母親の理想はスワールタムの中にあります。それは、サーローキャ〔どんなときでも神を想っていること〕、サーミーピャ〔神の近くにいること〕、サールーピャ〔神と自分を同一視すること〕、サーユージャ〔完全に神と一つになること〕のことです。現代では女性を正しく導く人がいないので、女性たちは今のような状況にあるのです。正しい指導を受けさえすれば、女性たちは間違いなく正しい道を歩くでしょう。女性が善良であって、初めて国全体が善良な国家となります。国全体が善良なものとなるには、女性が理想的な生き方をしていなければなりません。この種の善良さというものは、女性の中にしか存在せず、男性の中にはありません。男性の中には「偉い」という性質があるかもしれません。しかし、女性の中には善良さがあります。ですから、皆さんはよく考えて、この真実を認識しなければなりません。

男は働くことができます。男は激しい労働をするかもしれません。たとえ男が家の外でどのような仕事をしていようとも、必要なのは、家庭において善人であることです。それは男としての義務です。女性を敬わなければいけません。どこであれ、女性が尊敬されている所には神が住んでいます。女性が尊敬されているとき、初めてその国は素晴らしい国になることができます。

カウサリヤー妃がラーマを産んだからこそ、ラーマがいたのです。純粋な女性は必ず純粋な子供を授かるものです。シーターがラヴァとクシャを産んだからこそ、二人は立派な男になったのです。ジージャバーイーが素晴らしい指導をしたからこそ、シヴァージー皇帝はあれ程立派な男になったのです。ですから、母親の教えは非常に重要です。幼い子供は母親と緊密な関係にあるのですから、母親は子供を正しい道へと導かなければいけません。このように、善良な母親は善良な子供を授かります。

女性は母国を尊敬します。どのような国に生まれたとしても、母国を敬うのは立派なことです。自分の肉体を与えてくれたことを母親に感謝するように、私たちは自分にとって最も素晴らしい国である母国に感謝すべきです。皆さんは母国の栄光を確立しなければなりません。自分の母親に捧げるのと同じ尊敬の心を母国にも捧げなければいけません。

今日の人々は国籍とは何かを知りません。私たちは、バーラタ(インドの正式名称/神を愛する者の意)の意味を認識する必要があります。私たちは自分の生まれた国の文化に従わなければなりません。子供は、まず初め自分の父親と母親を認識します。それと同じように、私たちは、自分がどの国で生またとしても、まず生まれた国の伝統文化を認識し、それを守らなければなりません。ところが、今日では、そのようなことは見られなくなりました。人々は自分がどの国で生まれ育ったかをまったく気にしません。人々は、食べていければそれで十分だと考えています。これが人生と呼べるでしょうか? そんな生活なら獣でさえ送れます。

人間として生まれるのは非常に稀なことです。得失に関わらず、私たちはいかなる状況のもとでも神に祈らなければいけません。それがバーラタ文化です。ですから、私たちは神を至高の存在として受け入れなければなりません。しかるのちに自分の体の世話をすべきです。体の世話をすることが立派なのではありません。食物を食べれば体には養分が行き渡ります。ゴミ箱にゴミを入れれば一杯になります。ゴミ箱が一杯になるのは、ゴミがたまるからであって、ゴミ箱が成長するのではありません。養分を与えれば体は大きくなります。けれども、体はいつの日か焼かれてしまいます。これは体です。この体は衰えます。あなたは衰える存在ではありません。あなたは滅びる存在ではありません。あなたはアートマ(真我)の化身です。

あなたの内にあって、あなたを育て、あなたの世話をしているのは、アートマにほかなりません。人間はこの真実に気が付いていません。そして、自分が体の世話をしていると考えています。いったい人間は何を養っているというのでしょう? 人は何も養うことなどできません。これは無知です。人間に、肉体を離れようとしている命をつなぎ止めることができますか? まったく不可能です。それが不可能であるなら、どうやって人が何かを養うことなどできるでしょう? 生命の誕生にとって重要なものは何でしょう? 神は生死の原理を手中に収めています。人を守ってくれるものは神にほかなりません。

私たちは神を愛さなければなりません。神が私たちの内に存在するということを完全に信じていなければなりません。神はそれ以外のどこにいるわけでもありません。神はあなたのハートの中に住んでいます。「フルダヤヴァースィ」(ハートの中に住む者)と呼ばれるとおり、神はあなたのハートの中に住んでいます。神はあなたに非常に近いのです。どうしてあなたは神を忘れることなどできるでしょう? 神を忘れることは大きな過ちです。神はあなたの一番の親友です。ギーターの中で、「神は、母であり、父であり、友であり、私の知恵である。神は私のすべてである」といわれているとおりです。神はあなたの兄弟であり、姉妹であり、一番の親友です。これは誇張しているのではありません。あなたにとっての一番の親友は神なのです。神はあなたの一番の親友です。

あなたのポケットにお金がある間だけあなたに近づいてくる友だちがいます。しかし、神はあなたのポケットの中は見ません。神はあなたのハートを見ます。「さあ、こっちにいらっしゃい」と神はあなたを呼びます。神は、どんな状況の下でも決してあなたを見捨てることのない唯一の存在です。全世界は一冊の書物です。自然は最良の教師です。ハートは教師です。ハートは実に多くのことを教えてくれます。神は私たちの友だちです。以上のことを基盤とするなら、人生すべてが非常に幸せなものになります。

神と友だちになりなさい。それはどのような種類の友情でしょう? この友情の基盤は富ではありません。勇気でもありません。愛のみが、神との友情の基盤となることができます。愛以外のものは神との友情の基盤とはなり得ません。先ほどギリシャの女性(ヘレン・ソティリオウ)が詠ったとおり、あなたと私の間の絆は愛のみです。愛があるからこそ、私たちは一体性を見出すことができるのです。愛ゆえにこそ、真の友情を手に入れることができるのです。憎しみをもって幸福を得ることは決してできません。愛があるなら、それ自体が至福です。至福は愛の中にしか見つけることができません。愛以外のものの中には決して至福を見出すことはできません。

種を土に植えて、初めて木は育ちます。金属に種を植えても木は育ちません。正義は愛に満ちたハートの土壌に芽を出します。霊的な美徳は愛に満ちたハートで育って芽を出します。「愛、愛、愛」です。あなたは愛をもって神を思わなければなりません。愛をもって神との友情を築かなければなりません。ですから、私たちは自分に備わっている自然な愛をさらに大きなものにする必要があるのです。私たちをラーマ王子のように幸福にしてくれるものは、その愛なのです。私たちを幸福にしてくれるものはハートなのです。

(スワミは「プレーマ ムディタ マナセー カホー ラーマ ラーマ ラーマ」〔愛と喜びに満ちた心でラーマの御名を唱えよ〕のバジャンで御講話を締めくくりになりました。)

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Divine Discourse