サティヤ サイババの御言葉

日付:1998年5月6日
場所:ブリンダーヴァン、サイ ラメーシュ ホール
イーシュワランマデーの御講話より

母の愛の大きさ

誰も、
富を持って母の胎内から生まれてくることはない
この世を去るとき、何一つ持って行くこともない
百万長者とて、普通の食物しか摂(と)ることはできず、
金(きん)を食べて生きていくことなどできない
人は蓄えた富に驕(おご)り高ぶっているかもしれないが、
結局、あの世に一緒について来てくれるものは何もない
蓄えた富は、泥棒の手に落ちるか、
国に没収されるのが落ち
唯一永遠なるものは魂だけであることを悟りなさい
これより他に何をあなた方に伝えることができようか

太古より、バーラタ(インド)では母を神として敬うことが実践されてきました。ヴェーダは冒頭より、

母を神として崇(あが)めよ
父を神として崇めよ
導師(グル)を神として崇めよ

と宣言してきました。母と父と導師が神であるならば、この三者が神である目的は何なのでしょうか? 日常生活における三者は、世俗的な目的のための神です。人間の体にとっては、母と父と導師は神と見なされますが、人生の探求においては、神だけが唯一の神です。神に、母よ、父よ、親戚よ、友よ、富よ、英知よ、万物の至高の神よ、と呼びかける別のサンスクリット語の格言があります。これは、霊的な生活にとっては神がすべてであるということを意味しています。

母と父は家庭の住人です。導師はアシュラムに住んでいます。一方、神はハートに内在しています。

ハートの中に住むことができるのは神だけです。母や父や導師が神であるのは真実ですが、ハートの中に住む権利は彼らにはありません。母や父や導師は、尊敬され、崇められ、幸せにされなければなりません。しかし、礼拝するに値するのは、神だけです。

神は、母よりもあなたに近く、父よりもなお近い
そのような神を捨てるのは不埒(ふらち)千万(せんばん)な罪業
これはサイの宣言する真理なり

母の祝福の重要性

戦場に赴(おもむ)いて勝利を得よう、あるいは、森に入って苦行を積もう、という気になったとき、息子がまず母のもとに行って母の祝福を求めることは、昔からの習慣の一つでした。六歳の子どもであったドルヴァは、母の祝福を得て森へ苦行に入り、神のヴィジョンを実現しました。アルジュナは、戦場に赴くに先立って、母の祝福を得るために母の御前(みまえ)に平伏(ひれふ)しました。アルジュナの母は言いました。

「そなたに勝利がありますように」

ドゥルヨーダナ(アルジュナらの敵であるカウラヴァ兄弟の長兄)も同様に母のところに行き、母の御前に平伏して、戦いに勝利できるよう祝福を求めました。ドゥルヨーダナの母は言いました。

「ダルマのあるところに勝利があるでしょう」

これがドゥルヨーダナの母が我が子に与えた祝福だったのです。次にドゥルヨーダナは師のもとへ行き、師の祝福を請いました。師は言いました。

「クリシュナのおわすところにダルマあり。ダルマあるところに勝利あらん」

それゆえ、この母と師の言葉によれば、勝利はダルマと神が存在して初めて確約されるのです。

母の祝福と神の恩寵(おんちょう)の両方が必要

当時、母が公言したことは予言となりました。母親が息子を祝福したときには、いつも神がその場にいて、

「そうならんことを」

と宣していました。母の祝福に加えて、神の恩寵も必要なのです。

それゆえ、息子は皆、母を喜ばせるために、あらん限りの努力をすべきです。母をいつも上機嫌にさせておくことができなければ、何一つこの世で達成することはできません。息子は母に喜んでもらえるような能力を具(そな)えているべきです。それと同時に、神の恩寵を勝ち取ることができるよう、懸命に努めるべきです。神の恩寵を得ずして、母の祝福だけ得ても、それは役に立たないでしょう。

クルクシェートラの戦争が終結した後、クリシュナはカウラヴァ兄弟の母ガーンダーリーに会いに行きました。カウラヴァ兄弟の父ドリタラーシュトラも深い悲しみに沈んでいました。ガーンダーリーは大変な怒りと苦悩のうちにクリシュナに話しかけました。

「クリシュナ様、パーンダヴァ兄弟とカウラヴァ兄弟は従兄弟(いとこ)同士です。あなたがカウラヴァ兄弟を憎み、パーンダヴァ兄弟を贔屓(ひいき)なさる理由は何なのですか? あなたはずっとパーンダヴァ兄弟を守ってこられましたが、百人いた私の息子は唯(ただ)の一人も死から救ってくださいませんでした。なぜこんな差別をなさるのですか?」

クリシュナはガーンダーリーに微笑みかけると、こう答えました。

「義憤と怒りのあまり、あなたは言葉を見境なく使っている。過ちはあなたの側にあるだけだ。息子が百人いても、あなたはそのうちの一人でも見たことがあるのかね? 母親に見られたこともない子どもが、どうして神の恩寵を得ることを期待できようか?」

母親に喜びを与えようと努力すればするほど、母国は喜ぶでしょう。母親と母国は相伴っているのです。

クンティー(パーンダヴァ五人兄弟のうちの三人の母)は、パーンダヴァ兄弟が戦いに出ようとしていたとき、勝利は常にダルマを支持する側にもたらされると公言し、特別な祝福の言葉を述べました。クンティーは、豪胆に戦いに赴いた偉大な戦士たちは母からのラクシャー カヴァチ(腕に着けるお守りの護符)で祝福されていたけれども、パーンダヴァ兄弟の場合には、祈りの文言「シュリ ラーマ ラクシャー」(ラーマ神に守護を願う祈り)が戦場でお守りとして役立つでしょう、と述べました。この話は、子どもの成功と安寧にとって、母親の祝福がいかに重要であるかを示しています。

両親を敬うことの大切さと、両親の祝福を受けることの必要性を世に示すため、スワミも年に二回は必ずこの体の両親のお墓(サマーディ)にお参りしています。実を言えば、スワミには子としての親への愛といったようなものはないのですが、世に手本を示すために、スワミはこれを忠実に実践しているのです。

母イーシュワランマ現る

この体の母が亡くなってから三十年になりますが、彼女は今も肉体の姿でスワミの周りを歩き回っています。スワミの部屋では三人の青年が寝起きしていますが、その青年たちもイーシュワランマが現れたのを目撃しています。今日、私がこのことを話すのは、理想的な母の人生は永久(とわ)に意味深いものであるからです。

プラシャーンティ ニラヤムでは、スワミはバジャン後、朝食をとり、プールナチャンドラ講堂にあるスワミの住居に向かいます。ある日の早朝、母イーシュワランマが、いつもの姿でドアの前に立っていました。私はイーシュワランマに尋ねました。

「なぜ来たのですか?」

イーシュワランマは答えました。

「スワミ、私はあなたにお願いがあってここへ来ました。あなたは遍在であり、全知でしょうが、一つ控えなければいけないことがあります!」

「それは何ですか?」

とスワミは尋ねました。イーシュワランマは言いました。

「帰依者や学生はあなたにハンカチを差し出しますが、私のお願いを心に留めて、皆のハンカチを受け取らないでください。今の時代はよくありません。ハンカチに毒が染み込んでいるかもしれません。いつもあなたは鼻や口を拭うのにハンカチを使います。だから、あなたが善い帰依者だと確信している、信頼の置ける人からハンカチを受け取るのはよいけれど、誰彼かまわず受け取ってはなりません」

スワミに対するイーシュワランマの忠告

母の愛は、母自身が死んだ後も、ずっと長く生き続けます。その夜、イーシュワランマは二度現れました。私の部屋で眠っていた青年たちもイーシュワランマがいたことに気がつきました。青年たちはイーシュワランマに会ったことがなかったので、あのお婆(ばあ)さんは誰なのだろうと不思議に思いました。エレベーターの鍵は青年たちの手元にあり、部屋につながる階段もありません。

「あのお婆さんは、どうやってここに来られたんだろう?」

青年たちがそう言ったとき、スワミは目が覚めました。私はイーシュワランマに近づいて、なぜまたやって来たのかを尋ねました。イーシュワランマは答えました。

「私は、たびたびあなたを見ないと生きていけないのです。あなたを見ると幸せを感じるのです」

そう言った後、イーシュワランマは私にいくつか忠告をしました。

「スワミ、皆、自分のことを帰依者だと言っているけれど、誰が本物の帰依者で、誰が偽物の帰依者か、わかりません。完全に帰依している人は、あなたに言われたことは何でもする覚悟でいるでしょう。でも、私欲のためにやって来る人たちもいるのです。そういう人は、あなたのところへ来て望みが叶(かな)うと、あなたを忘れてしまいます。このことは、よく注意していなくてはなりませんよ」

スワミは答えました。

「それ相応の注意を払いましょう。あなたに忠告されるまでもありませんよ」

これを聞くと、イーシュワランマは笑って部屋を立ち去りました。

私は、母の愛の大きさを直接証明するものとして、このエピソードを皆さんに伝えているのです。イーシュワランマは、肉体は捨てたかもしれませんが、常にスワミと一緒にいます。イーシュワランマは言いました。

「私はあなたのために数多くの供犠を行い、様々な供養礼拝(プージャー)をしました。だから私はその霊験をよくわかっているのです。私は四十年間あなたと共にいました。私の人生は成就しました」

コンダマ ラージュの信愛

コンダマ ラージュはこの体の祖父でした。彼も私の母とよく似ていました。コンダマ ラージュには二人の息子がいました。この体の父親はペッダ ヴェーンカッパ ラージュ(ヴェーンカッパはヴェーンカマの呼称)でした。彼にはチンナ ヴェーンカッパ ラージュという弟がいました。コンダマ ラージュの亡き弟の二人の息子、スッバ ラージュとヴェーンカタラーマ ラージュも、コンダマ ラージュと一緒に住んでいました。四世帯が同居していれば大家族ですから、それぞれに財産を分配してほしいという希望が出てきました。当時、この体は八歳でした。コンダマ ラージュは息子たちを呼びました。息子たちは言いました。

「今のような状態で一人で暮らすのは無理です。私たちのところに順番に来て暮らしてください」

コンダマ ラージュは答えました。

「わしはお前たちの誰とも暮らしたくない。お前たちは自分の財産の分け前を取りなさい。わしにはサティヤを残してくれ。それで十分だ。サティヤがわしと共にいれば、すべてはわしと共にある」

その時から、スワミはずっとコンダマ ラージュと暮らしていました。コンダマ ラージュは偉大な帰依者であり、一一六歳まで生きました。深い信愛ゆえに、コンダマ ラージュは私に関する真理を悟っていたのです。スワミは九歳になっていました。そのとき、二人の近くには誰もいませんでした。コンダマ ラージュは戸を閉めました。私は食事の支度をしていました。スワミは上手に料理する方法を知っていました。近所の人たちは、スワミが作ったものを食べようと、よく家にやって来たものでした。私が台所にいると、コンダマ ラージュが入って来て、

「サティヤ、サティヤ」

と言いながら私の両手を握りました。コンダマ ラージュは言いました。

「これは手ではない。わしはこれをおまえの足だと思っておるのじゃ。わしはおまえに一つ願い事がある。今生(こんじょう)の最期の瞬間が来たら、わしがこの世を去る前に、どうかわしの口に水を注いでほしい」

スワミはそれを約束しました。

その後、コンダマ ラージュは十九年間生きました。新しいマンディール(プラシャーンティ ニラヤムに現存する礼拝堂)ができると、コンダマ ラージュは朝夕マンディールにやって来ました。朝は早い時間に来るのがコンダマ ラージュの習慣でした。スワミはかつて、マンディールの外の砂地で眠っていました。祖父が来ることを予想して、スワミはいつも、頭からすっぽり全身を覆い隠していました。自分が起きていることを祖父に気づかれたくなかったのです。スワミは眠っていると思い込んでいた祖父は、スワミの足に触れ、それから立ち去っていくのでした。コンダマ ラージュは、一一六歳の老人が年若い少年の足に触れているのを人が見たら、誤解するかもしれないと、気恥ずかしく思っていたのです。コンダマ ラージュが行ってしまうと、スワミはすぐに起き上がりました。

かつて、牛飼いの女(ゴーピー)たちは、このような歌を歌ったものでした。

ああ クリシュナ、
寝た振りをしている人を
起こせる人などいるでしょうか?
わざと目を閉じている人の目を
開けられる人などいるでしょうか?

それと同じように、私も目を閉じて寝た振りをしていたのです。これは私がよく行っていたリーラー(神の戯れ)の一つでした。

スワミはコンダマ ラージュと交(か)わした約束を守る

コンダマ ラージュと交わした約束を果たす時が、急速に近づいていました。当時、私は自分で車を運転していました。私は、モーリス二〇〇(小型のイギリス車)で町へ行こうとしていました。コンダマ ラージュは、スワミの母イーシュワランマを呼んで言いました。

「こちらへ来なさい。スワミがおいでになる。スワミがわしのために来てくださる。わしの最期が来たのじゃ。それゆえ、どうかコップに水を入れて持ってきておくれ」

それからコンダマ ラージュは、それにトゥラスィーの葉(聖バジル)を何枚か入れるようにとイーシュワランマに言いました。そして、スワミに寝台に座るよう頼みました。コンダマ ラージュは言いました。

「スワミ、たとえ天が落ちて来ようとも、あなたは約束をお守りになります。たとえ海が干上がろうとも、あなたが約束を破ることはありません。三十年前に交わしてくださった約束を果たすため、あなたは今、おいでくださいました」

スワミは笑い出しました。コンダマ ラージュは言いました。

「そんな笑いで誤魔化そうとなさらないでください。このコップを手に取って、少し水をお飲みになってから、残りを私の口に注いでください」

それから、コンダマ ラージュはある物語を語りました。

「ダシャラタ王は、男児を授かるための供儀(プットラカメーシティ ヤグニャ)を執り行い、四人の息子を授かりました。主ナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)ご自身が、ダシャラタ王の息子(長男)としてお生まれになりました。アーディ シェーシャ(ヴィシュヌ神がもたれる大蛇)が、ラクシュマナ(次男)として生まれました。法螺貝(ほらがい)と槌(つち)鉾(ほこ)(ヴィシュヌ神の持ち物)が、バラタとシャトルグナ(三男と四男)として現れました。息子が四人いたにもかかわらず、臨終の際にダシャラタ王の死に水を取った者は誰一人いませんでした。スワミ、あなたは、アーバスタムバ スートラ(聖者アーバスタムバの経典を守る家)である、バラドワージャ ゴートラ(聖者バラドワージャの家系)の、我がラトナーカラ一族にお生まれになりました。このすべては神の印です。これは、我が一族に神がお生まれになったことを意味します。今せめて、このわしの祈りを叶(かな)えてください。どうか断らないでください」

スワミは答えました。

「私はまさにその目的のために来たのです」

私がコンダマ ラージュの口に水を注ぎはじめると、

「まず、あなたが少しお飲みになり、それから、その残りを私の口に注いでください」

と言って抗議しました。スワミは少し水を飲み、それから残りをコンダマ ラージュの口に注ぎました。すると、コンダマ ラージュは義理の娘のほうを向いて言いました。

「イーシュワランマよ、おまえの息子の名声と力は全世界に広まるだろう。世界中が変わりつつある。外国から大勢の人がやって来る。用心していなさい。これは私の息子だ、これは私の子どもだ、などという幻想に余地を与えてはならん。おまえの息子はすべての人のもの。スワミは万人のもの。スワミは一つの家族だけに関わっているのではないのじゃ」

コンダマ ラージュはスワミの足に両手を置き、それから息を引き取りました。

コンダマ ラージュはどのようにスワミに警告していたか

コンダマ ラージュさえ、折に触れて私のところへやって来ます。彼は言いました。

「わしはもう、生まれ変わることもありません。あなたとの結びつきを持ったおかげで、わしの人生は贖(あがな)われました。あなたの恩寵によって、わしは不滅となりました」

コンダマ ラージュは、時々私のところに来ては、マンディールで起こっていることに警告を発していました。

「誰もあなたに触れることはできませんし、あなたには、四方八方どこからも危険が降りかかることはあり得ません。わしがこのようなことを言うのは、わしはかつてあなたと肉体上の家族関係であったからです。これはむしろ、あなたへの祈りなのです」

今でもずっと、コンダマ ラージュとイーシュワランマは、私のところに来たり、私に話をしたりしています。

神の喜劇

プラシャーンティ ニラヤムで、ある帰依者が深刻な心臓発作を起こしました。スワミはその帰依者を守るため、肉体を離れました。スワミは午前二時に肉体から抜け出して、翌日の午後三時まで肉体に戻りませんでした。スワミの部屋で寝起きしていた青年たちと、階下で寝起きしていた青年たちは、泣きはじめました。それと同時に、チランジーヴィ ラーオ(スワミの側近の長老)がアルレジャ医師(サティヤ サイ総合病院の医院長)を呼びに行きました。アルレジャ医師はスワミに深い信愛を抱いており、四十年間プラシャーンティ ニラヤムに住んでいます。アルレジャ医師が飛んできて、スワミの脈を測りました。脈はなく、体の動きは停止していました。アルレジャ医師は泣き出しました。スワミの体に生命の兆候がないことがわかったのです。すると、チランジーヴィ ラーオが、時おりスワミが肉体を抜け出すのは珍しいことではなく、自分は前にもそれを見たことがあると述べました。

ラーオは、六人の青年に、このことは誰にも話してはいけないと言いました。六人の青年は善い子たちでした。スワミの学校でMBA(経営学修士号)を取得し、デリーでトレーニングを受けていました。六人はスワミから離れたくありませんでした。チランジーヴィ ラーオが説明しても、六人は悲しみを抑えることができませんでした。ちょうどそのとき、私は笑顔で起き上がり、どうかしたのかと尋ねました。

「君たちが演じている、この劇はいったい何かね?」

と私は尋ねました。青年たちは答えました。

「スワミ、いったい誰がこの劇を演じているのですか? あなたですか、それとも僕たちですか?」

シュリーニヴァースという青年がいます。彼は工学とMBAを取得して、スワミと共に暮らしています。シュリーニヴァースは言いました。

「僕たちの劇ではありません。スワミ、あなたの劇です」

それから、スワミは言いました。

「外で大勢の人が待っています。私はダルシャンに行かなくてはなりません」

早朝から午後三時まで、スワミは水の一滴も飲んでいませんでした。青年たちが、少なくともバターミルク(乳清)を一杯飲むか、お粥(かゆ)を食べてほしいと私に頼んできました。スワミは言いました。

「私はそういうものを食べ慣れていない」

スワミは沐浴(もくよく)してから外に出ました。

このようなことは時々起こっていました。私と一緒に住んでいた青年たちは皆、そのことを知っています。

我が子が霊性の道を歩むようになると、それを心配する母親たちもいます。子どもが霊性の道を歩むのは、その子が多くの過去世で積んだ果報である、ということがわかっている母親はめったにいません。母親は、心配するのではなく、そのような進歩を喜ぶべきです。

多くの親は、子どもが教育を終えたら、結婚させ、良い仕事に就かせ、出世させたいと望みます。親は子どもへの愛ゆえに、子どもには偉くなってほしいと願います。スワミの愛は、そのような愛ではありません。スワミは子どもたちに善良になってほしいと思います。偉さと善良さの違いは何でしょう? 善良な人は、人間の中にさえ神を見ます。偉い人は、神の中にさえ人間を見ます。ラーヴァナは偉大な苦行をなした偉い人物でした。ラーヴァナは実に強力でした。しかし、人間の姿をまとったラーマを見て、ラーヴァナはラーマをただの人間と見なしました。一方、ラーマは違っていました。ラーマはあらゆるものの中に神を見ました。これが善良さの印です。偉い人として知られるよりも、善良であるという評判を得るほうがよいのです。偉い人の中に見えるのは利己心だけです。しかし、善良な人の中には完全な無私無欲が見えます。それゆえ、あなた方は皆、善人になるよう懸命に努めるべきです。両親を敬いなさい。両親に喜びを与えなさい。両親にあなたの感謝の気持ちを示しなさい。

スワミに対する学生たちの気遣い

スワミと一緒にいるほうを好む学生たちもいます。コダイカーナルで、サティヤジット(スワミのお世話をしている学生)が、自分の両親が来ているにもかかわらず、公衆の面前で次のように言ったのを学生たちは知っています。

「私はこれから、私が抱いている疑問を打ち明けたいと思います。皆さまどうかお許しください。様々な役人がスワミのもとにやって来ます。そして、自分の願いを叶えてくださいと頼み、帰っていきます。実業家たちも大勢スワミのもとにやって来ます。そして同じように、自分の困難をスワミに話し、安堵(あんど)を手に入れると帰っていきます。病気の人も、スワミのもとにやって来て、癒されると去っていきます。私たち学生もスワミのもとに来ました。学生の多くはスワミから無料の教育を与えられ、学校を卒業していきます。いったい誰がスワミの面倒を見るのですか? 誰もスワミの健康や幸福について考えているように思えません。スワミは何度も転倒なさっています。以前、スワミが滑って転倒なさったときには、スワミの上に柱が倒れてきました。スワミは気になさいませんでしたが、その夜、学生たちはとても心配しました。誰かが常にスワミのおそばについている必要があります。誰か一人か二人がおそばにいれば、スワミは少しだけ食事を召し上がります。一人で昼食をとると、スワミはほとんど何も召し上がりません」

スワミは学生たちのために食習慣を変える

私は何であれ学生たちが食べるものを食べます。別個には食べたくありません。スワミはプッタパルティからブリンダーヴァンに行き、学生たちをコダイカーナルへ連れて行きました。かつてスワミは、ラギー(四国稗(しこくびえ))と落花生のチャトニ(添え物)しか食べませんでした。コダイカーナルでは皆で一緒に食事をしました。スワミも学生たちに混じって食事をとりました。もしスワミがラギーを食べれば、青年たちは嫌がったでしょう。青年たちにラギーを食べてほしいと思っても、彼らはラギーに慣れていません。そのため、スワミは学生が食べている米の食事に口をつけました。スワミが好きなのはラギーだけです。ラギーを食べるのをやめたので、スワミはコダイカーナルに滞在していた二十日間で、六キロも体重が減りました。プッタパルティでは、時々サティヤジットが私の体重を測る習慣がありました。サティヤジットは、体重計に乗ってくださいとスワミに頼んできました。プッタパルティにいたときのスワミの体重は一〇八ポンド(四十八・六キロ)でした。コダイカーナルで体重を測ってみると、六キロも減っていました。スワミの体重は一〇〇ポンド(四十五キロ)にも満たなかったのです。サティヤジットは、大変心配ですと言いました。私はサティヤジットに、このことは人前では言わないようにと話しました。サティヤジットは言いました。

「私はスワミに一生を捧げています」

スワミはサティヤジットに、前述の話は人前では口にしないようにと言いました。しかし、サティヤジットは勇気と大胆さをもってそのことを話しました。そのとき、その場には世界評議会(ワールド カウンシル)の会長であるインドゥラル シャーらがいました。彼らは皆、サティヤジットの話をありがたがりました。それは誰も気遣っていなかった点でした。インドゥラル シャーは述べました。

「私は、セントラル トラストの一員でありながら、その点について考慮していませんでした。これは私たちにとって嘆かわしい過失です。今後は、このことを心に留めて、しかるべく行動しましょう」

母としての神

帰依者がそれぞれ自分なりの理想と大志を抱いているのは明らかです。しかし、自分の母への尊敬の念が染み込んでいる者は、常に善い感情を抱いています。ある日サティヤジットは、母親が足の骨を折って手術を受けたことを心配していました。私の考えでは、すべての人は善良です。しかし、この青年、サティヤジットに関しては、特別なものがあります。サティヤジットは、スワミの許可を得て、母親の足を毎日マッサージしました。サティヤジットは母親の痛みを取り除くためにそうしたかったのです。

ブリンダーヴァンで、私がベッドに横たわっていると、サティヤジットがやって来て、私の足をマッサージし始めました。私は言いました。

「私の足は痛くありませんよ」

サティヤジットは言いました。

「スワミ、あなたは痛みがあってもそれを口になさいません。そして、痛みにかまわず歩き回られるのです」

そこでスワミは言いました。

「そうすることに慣れているのです」

サティヤジットは言いました。

「私はスワミの御足をマッサージすることで、私の母に奉仕しているのです」

サティヤジットはプッタパルティへと発ち、寮に滞在していました。目を閉じると、サティヤジットは自分がスワミの足をマッサージしている体験をしました。サティヤジットは言いました。

「あのような体験をした私に、この世への未練などあり得るでしょうか?」

スワミはサティヤジットに言いました。

「そんな言い方をしてはなりません。黙って自分の義務を果たしなさい」

サティヤジットは理学修士号を取得しました。その後、MBAの修士課程に入りました。私はサティヤジットに言いました。

「君はすでに大学院の学位を取得している。なのに、なぜMBAに入りたいのかね?」

サティヤジットは答えました。

「スワミ、あと二年あなたと暮らすことができるからです。それが理由です」

このように、学生はそれぞれ自分の望みを持っています。この種の感情が染み込んだ学生たちは大勢います。母性愛を好む者は、神を母として崇めます。青年の多くは、世間に出ると、過去世での自らの行為の結果として世俗的な事柄に巻き込まれます。学生諸君は次のように感じるべきです。

「神を発見した以上、他には何も必要ない。神が、母、父、そして、他のすべての人の面倒を見てくださるだろう」

学生諸君は、このような揺るぎない確信を育てるべきです。この信念がなければ、どんな幸福もあり得ません。

ネッルール市から来たレッディー(地元の名士)が、「プラフラーダ」という映画を持ってきて、プッタパルティで学生たちに見せたことがありました。俳優陣は少年たちでした。映画は、プラフラーダが毒を呷(あお)りながらナーラーヤナ神の御名を唱えている場面を映し出しました。プラフラーダの父親(羅刹(らせつ)王(おう)ヒランニャカシプ)は、二人の悪鬼(ラークシャサ)チャンダとアマルカに、プラフラーダを山の頂から投げ落とすよう命じました。転落している最中にプラフラーダがナーラーヤナ神の御名を唱えたので、ナーラーヤナ神はプラフラーダを自らの両手で受けとめました。父親は、蛇にプラフラーダを咬(か)ませてやろうと思いました。プラフラーダがナーラーヤナ神の御名を唱えていたために、蛇はプラフラーダを咬みはしませんでした。父親は象にプラフラーダを踏み潰させようともしました。プラフラーダがナーラーヤナ神の御名を唱えていたために、象さえもナーラーヤナ神となり、何の被害も及ぼしませんでした。これらすべてが映画で上映されました。しかし、サティヤジットは言いました。

「私はこれらすべてを直接体験しました。映画を見る必要はありません。私が欲しいのはサイ ナーラーヤナだけです」

幼年期からそのような体験をするのは、その人が過去世でなした功徳のおかげです。

先日、私はサティヤジットにバジャンに参加するようにと言いました。サティヤジットは、アショーカの木の下に座ってバジャンに参加したいと言いました。スワミは誰にも自分の意志を押しつけることはしません。スワミはサティヤジットに言いました。

「君の好きなようにしたらいい」

サティヤジットがどれほど厳格にスワミの理想を固守しているか

このように、多くの学生たちに高潔な感情が染み込んでいます。大学にいる間は最高の帰依者のように見える学生もいますが、大学から離れた途端に堕落します。彼らの話すことや行動は悪いものです。それゆえ、私はコダイカーナルでも話したように、よく学生たちにこう言っています。

「善い言葉を語るよう努めなさい。善い目(サムヤグ ドリシティ)を養いなさい。善い目は、善い思いをもたらします。善い思いは、善いことに耳を傾けさせます。善いことに耳を傾ければ、善い行為をするよう駆り立てられます。善い行為は、解脱をもたらします」

サティヤジットはスワミの理想を忠実に固守します。誰も見ようとはしません。私はサティヤジットに尋ねました。

「善い感情を抱いている人を見ることや、他の人々を見ることに、何か間違いでもあるのかね?」

サティヤジットは答えました。

「善い感情も、他の人々を見ることも、私にとっては無益です。私はスワミに関する自分の内なる思いだけが欲しいのです」

スワミは言いました。

「好きにしなさい」

このような学生たちもいるのです。今年コダイカーナルへ来た青年たちは、皆とりわけ善い青年たちでした。彼らがどれほど幸運であるかは、とても言葉では言い表せません。私は彼ら全員の面倒を見て、一切の必要を満たしました。このような青年たちがもっといれば、世界はおおいに向上するでしょう。個人が向上して、初めて社会は向上できるのです。社会が向上すれば、国は向上します。進歩向上は個人から始めなくてはなりません。個人と共同体と世界が一つになって、神を構成しているのです。

あなたの愛を母に捧げて、人生を楽しみなさい

高潔な母は高潔な息子を産みます。母親は高潔な息子がいることも幸運に思うべきです。コンダマ ラージュは、かつて義理の娘にこう言いました。

「イーシュワランマ、おまえは自分の大きな幸運をさっぱりわかっておらん。おまえは普通の女ではない。神ご自身がおまえと共におわすのだ。何と幸運な女であることか!」

イーシュワランマはコンダマ ラージュの義理の娘でした。義理の娘を敬愛する義理の父親の例など、これまでにあったでしょうか? コンダマ ラージュはよくこう言ったものでした。

「イーシュワランマよ、おまえの名前の正しさは立証された。イーシュワラ(主、シヴァ神)の母(アンマ)が、イーシュワランマなのだ」

人々は、このようにしてイーシュワランマを誉(ほ)め讃(たた)えました。コンダマ ラージュは真理を認識できた類いまれな人の一人でした。真理を認識できない人は、決してそのことを理解できないでしょう。彼らは日中でさえ太陽を見ることができない盲人のようなものです。

霊性の道を歩む者と、自分の母への愛を持つ者は、この世のどんなことでも達成できます。多くの大人たちは、母親は自分の幼少期にいくらか良いことをしてくれたかもしれないなどと言って、母親の役割を過小評価しています。彼らは自分の仕事や地位を誇りに思っています。しかし、いったい誰のおかげでその地位を得られたのかを忘れているのです。

アーディ シャンカラは、七歳の少年だったときに、父親の留守に父に代わって女神への礼拝を行い、パールヴァティー母神の祝福を手にしました。女神の祝福を手に入れた後、シャンカラは、すべてのヴェーダと聖典を短期間で修得するという、素晴らしい栄誉を得ました。

父親と母親は家庭に住む者ですが、神はハートに住まう者(フルダヤヴァースィ)なのですから、あなたのハートを神に捧げなくてはなりません。神をハートに抱きつつ、両親を敬いなさい。あなたの母の愛の甘さを味わいながら、あなたの愛を母に捧げて、人生を楽しみなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.31 C23