サティヤ サイババの御言葉

1999年5月30日
ブッダプールニマーの御講話

感覚をコントロールしなさい

もしお金がなくなっても心配する必要はありません。
お金は再び手に入れることができるからです。
たとえ友人が去っていっても、別 な友人を作ることができます。
妻がいなくなれば、再婚することができます。
自分の土地を失っても、
別 の土地を買うことができます。
これらのものはすべて取り戻すことができます。
しかし、肉体を失ってしまえば、再び取り戻すことはできません。

(サンスクリット語の詩節)

愛の化身である皆さん!
 「たとえお金がなくなっても、何も失ったことにはなりません。健康を失えば、何かが失われたことになります。しかし人格が失われてしまえば、すべてを失ったことになります。」これがバーラタ(インド)の文化の教えです。ところが、現代の人々は、「お金が無くなればすべてが失われたことになる。健康が失われれば何かが失われたことである。しかし人格が失われても、何も失われたことにはならない」と考えています。はるかな昔から、 バーラタの人々は霊性の諸原則を守り続けてきました。これによって至福を手に入れ、それを世界中の人々と分かち合ってきました。ヒマラヤ山脈がバーラタの北の境界線を形成しています。「ヒマ」という言葉は、「純粋で神聖な」という意味であり、山は着実さの象徴です。純粋さ、神聖さ、着実さは、昔からバーラタの人々の特徴とされてきまし た。決して水の絶えることのない、ガンジス河、ヤムナー河、サラスワティー河(地下を流れている)という三本の河がこの国を流れています。この三つは、人間がそれを通 って神に到達する、 仕事・礼拝・英知という三つの道を象徴しています。『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、 『バーガヴァタ』という教典は、人類のために神聖な理想を示しています。「バーラタ」という言葉の内的な意味は何でしょう? 「バ」とは、光・輝き・神のことです。ですから、バー ラタ人とは、英知の光と輝きを放っている人々のことです。バガヴァッドギーターや、 ウパニシャッドや、ブラフマスートラのようなインドの聖典は、まばゆく光り輝いて、神に至る道を人類に示しているのです。

霊性は信仰から始まります

 仏陀は、この聖なるバーラタ(インド)の地に生まれました。仏陀は、世界に対して、「アヒムサー パルモー ダルマハ」(非暴力こそが最高の法である)と宣言しました。仏陀は何年も苦行を重ね、多くの高貴な魂たちに会い、霊的講話を聞き、様々な教典を学びました。 しかし、彼は満足できませんでした。人間は至福を求めます。でも、どうすればそれが得られるのでしょう? 信仰があるところには愛があります。愛があるところには平安があり、 平安があるところには真理があります。真理があるところには神がいます。神がいるところには至福があります。霊性の道は信仰から始まり、至福で終わります。至福は、物質的な快楽や世の中の人々によって得られるものではありません。至福は、五つの感覚が正しく使われるようになって、初めて得られるものなのです。

 今日人々は、至福を得ようとして聖典を読みますが、書物には書物としての限界があります。聖典を研究することによって無限の至福を得ることはで きません。無限の至福を得るためには、「無限の書物」を読まなければなりません。この世界そのものが「無限の書物」です。この世界には、学ぶべきことが実にたくさんあります。 皆さんの友達は誰ですか? 同学年や、同室の友人などではありません。神だけが、皆さんの真実の友であり、永遠の友なのです(拍手)。皆さんは、この神という友達の助けを得たときに、初めて「無限の書物」を研究することができるのです。私たちが、この「無限の書物」の研究に携わるときは、仏陀の五つの重要な教えを実践しなければなりません。それは、正しく見ること・正しく感じること・正しく聞くこと・正しく語ること・正しく行動することの五つです。真の人間とは、真理の道をたどる人のことです。「真理」と「正義」と「犠牲」こそが、私たちの生き方でなければなりません。仏陀は、「ブッダム シャラナム ガッチャーミ、ダルマム シャラナム ガッチャーミ、サンガム シャラナム ガッチャーミ」と言いました。それは、理性(ブッディ)は正義(ダルマ)の道に従うべきであり、正義は社会の中で育てられるべきであるという意味です。そうして初めて、 国家は繁栄するのです。このことは、SAIという言葉の内的な意味でもあります。Sは霊的な(Spiritual)変革を意味します。Aは社会的な(Association)変革を、Iは個人的 な(Individual)変革を意味します。人間の心は、これらの三つの変革が起きたときに、 初めて純粋で神聖なものとなるのです。

人間の生命原理

 すべての人の内に神が宿っています。しかし今日、人間は自らの神聖な特質を忘れてしまい、その場限りの世俗的な快楽に惑わされています。真理・正義・平安・愛・非暴力こそは、人間の生命の五大原理に他なりません。それらは、人間の五つの生気、すなわち、 プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ、サマーナという五つの生気にたとえることができます。もし人が真理を失えば、生気の一つを失うことに等しいのです。そしてもし、 真理・正義・平安・愛の四つを失えば、生気の五分の四を失うのと同じです。その結果 、 人間はあらゆる方面で、苦痛や暴力に直面します。このような状況はいったい誰の責任で しょう? 人間自身がその責めを負わなければなりません。仏陀は、非暴力こそは最高のダルマ(法・正義)であると言いました。非暴力が実践されて初めて、愛が養われます。愛が養われていれば世界に平安が訪れます。世界に平安があるとき、人間はおのずから正義の道をたどります。人間が正義の道に従えば真理が得られます。ですから、万人にとって、 この五つの生命原理を守ることこそが、最も大切な義務なのです。

 仏陀が霊的な講話をしながら、村々を歴訪していたときのことです。ある日仏陀は疲れを覚えたので、弟子の一人に、仏陀に代わって村の人々に法話を聞かせるようにと言いました。仏陀は家に入って休みました。その弟子は、法話の中で、「私たちの師である仏陀様よりも優れた霊的大師は、これまでこの世には現れたことがありませんでした。そして、 この先ずっと、仏陀様に匹敵する方は決して現れません」と言いました。聴衆は、割れるような拍手をしました。この騒ぎを聞いて、仏陀が出て来ました。弟子の一人が、なぜこのように群集が喜んで手を叩いているのかを説明しました。仏陀は微笑んで、この法話を行なった弟子を呼びました。そして、「お前は何歳になる?」と尋ねました。弟子は三十五歳ですと答えました。仏陀は再び、「お前は、これまでに幾つの王国を訪れたことがあるのかね?」と訪ねました。弟子は、二つの王国に行ったことがあるだけですと答えました。 すると仏陀は言いました。「お前は三十五歳で、二つの王国しか見たことがない。したがって現在すらも完全に理解していない。そうであれば、どうして過去や未来に関して何かを語ることができるだろうか? 仏陀のような先生は過去に生まれたこともなければ、将来も決して現れることがない、という発言は無意味である。このバーラタの地には、多くのアヴァターや聖者たちが生まれてきた。またこの地には、この先も多くのアヴァターや聖者たちが生まれるであろう。この世には、多くの聖なる魂がいる。私は、彼らすべてに敬意を捧げるのだ」このようにして仏陀は弟子を戒めました。わずかな知識しかない人間が、 学識の豊かな人間のように振舞うのは愚かなことです。

 誰もこのバーラタの国の神聖さと偉大さを評価することはできません。インド人と呼ばれること自体が、素晴らしい資格であり、光栄なのです(拍手)。バーラタの人々の大いなる幸運を、どうして私たちが表現できるでしょう? というのも、主なる神そのものが、この神聖な国に何回も生まれて、人類に神への道を示して来たからです。多くの聖人賢者や気高い犠牲に生きた人々がこの国に生まれました。バーラタの神聖さと名声は無類のものです。そのようなわけで、仏陀はこの国を母国に選んで生まれて来たのです。

まず第一に、「見る力」と舌とをコントロールしなさい

 仏陀の物語は、非常に尊く神聖です。仏陀はすべてを犠牲にして、真実を求めて旅を続けました。仏陀は、「ダルマム シャラナム ガッチャーミ」(私は正義を避け所とします) と言いました。私たちは、ダルマを実践し、普及させ、経験しなければなりません。しかし今日、ダルマは衰退しています。人々は、お金がすべてだと考えています。地球が太陽の周りを回っているのと同じく、人々はお金の周りを回っています。「お金を手に入れるために、不正なやり方をする人々がいる。彼らは、他の人々を騙すことはできるかもしれないが、誰が神を騙すことができるだろうか? 彼らは間違いなく自分たちの蒔いた過ちの種を刈り取ることになる。」(テルグ語の詩)仏陀は、これと同じことを教えました。重要なのは、お金ではなく人格です。至福は、苦行やジャパや瞑想によってではなく、感覚をコントロールすることによって初めて得られます。苦行や、聖典の研究や、聖なる河川で沐浴をすることによって解脱することはできません。高貴な魂に仕えることによってしか、 輪廻の海を渡ることはできないのです。平安と至福に至る道で、私たち自身の感覚をコントロールすること以上に易しい道はありません。

 しかし人間は今日、この易しい道を手放して、悲しみと苦しみをもたらすだけの感覚的快楽を追い求めています。鳥や獣ですら、感覚の喜びを享受しています。感覚的快楽の結果 として得られる喜びは、幸せの名に価しません。ですから人間は、何よりも第一に感覚をコントロールしようと努めなければなりません。これは、「見る力」が正しく使われているときにのみ可能なことです。いったん「見る力」がコントロールされてしまえば、それ以外の諸感覚も容易にコントロールすることができます。しかし今日、人々は「見る力」をまったくコントロールすることができていません。人々は、見るべきでないものを見ています。人間が見るものは、何であれ心に刻み込まれます。ですから、神聖なものを見るようにしなさい。人間の目には、400万本の光線があります。ところが、良くないものを見ることによって、それらの輝きは失われてしまいます。皆さんが良くないものを見るとき、目の輝きの素晴らしい力が損なわれるのです。舌には300万の味蕾があります。ところが、悪いことを話すと、それが損なわれるのです。ですから、まず第一に、見る機能と舌を制御する必要があります。そうでなければ、私たちは人間性を失い、ついには人生を台無しにしてしまうかもしれません。正しいものを見、正しいことを語ると同時に、私たちは正しい聞き方を身に付ける必要があります。もしあなたのいる所で、誰かが悪いことを話す時は、直ちにその場を離れなさい。正しいものを見ることによって、二重の恩恵があります。それは、意思力を強め、眼の光の力を増大させます。仏陀は、このような真理を理解したので、感覚をコントロールするための具体的な努力をしました。瞑想や苦行は、 一時的な幸せしかもたらしません。永遠の幸福は、感覚のコントロールによって初めて得られます。仏陀は皇太子であり、一国を支配する力を持っていましたが、すべてを捨てて、 自分の感覚をコントロールすることに打ち込みました。仏陀は、感覚をコントロールした後 に、初めて至福を体験し、涅槃を得ることができたのです。

愛の原則を理解しなさい

 人間は、神を愛することによって、無限の力を得ることができます。しかし今日、人々は愛の原則を理解するための努力をいっさいしていません。人間の愛は、無限にして永遠の甘露のごとき神の愛に比べれば、一個の原子のようなものに過ぎません。人間が、愛の原則を理解してもいないのに、すべてを知っていると考えるのは、愚かさと無知の故です。 人間は、愛の目でものを見、愛の耳で聞き、愛の感情を培わなければなりません。

 想いと言葉と行為が一致していなければ、霊性修行をしても何の恩恵も生まれません。 これらの三つが一致していることが人間性なのです。人間の研究すべきは人間です。 “MAN”という言葉はいったい何を表しているのでしょう? “M”はマーヤー(Maya 幻影)を捨てることを表しています。“A”はアートマ(Atma 真我)のビジョンを得ることであり、“N”はニルヴァーナ(Nirvana=涅槃)を得ることです。人間は、解脱を得るためには、物質的快楽を手放さなければなりません。モークシャ(解脱)とは何でしょう? モーハ(Moha=執着)を取り除くことが、モークシャ(解脱)です。肉体意識を手放すことが解脱です。ところが今日、人間は肉体への執着に浸り切っています。人間はアートマ(真我) への執着を養って初めて解脱を得ることができます。「人々が罪への恐れと神への愛を欠いているので、人間性が低下している。これが今日の社会の混迷の根本原因である」(テルグ語の詩)人々は神への愛と罪への恐れを育てなければなりません。そうして初めて、 社会に道徳が生まれるのです。

愛の化身である皆さん!
 皆さんは、いくつものお祭りをお祝いし、様々な種類の霊性修行をするかもしれませんが、もし皆さんの心の中に神聖な感情がなかったとしたら、これらはすべて無駄 になってしまいます。不浄なものを見てはなりません。皆さんの見るものを神聖な感情で満たしなさい。皆さんが崇高な性質を身に付けたときに初めて、「サルヴァム カルヴィダム ブラフマー」(ブラフマンは万物に内在している)、「ヴィシュワム ヴィシュヌマヤム」(ヴィシュヌ神は全宇宙に浸透している)、「イーシュワラ サルヴァブーターナーム」(神は万物の中に住んでいる)という神聖原理を理解し、体験することができるのです。神聖な感情や崇高な特質を養うには、感覚をコントロールする必要があります。感覚をコントロールしなければ、皆さんの人生は台無しになってしまいます。

個人、社会、宇宙、創造主

 川は二つの岸の間を流れなければなりません。そうでなければ、村々が洪水に見舞われ、 言いようのない苦しみが引き起こされます。川にたとえることのできる人生もまた同様に、 8つの文字で出来た二つの格言がその両岸となっています。その二つの格言とは、「ゆるぎない信仰を持った人だけが英知を獲得することができる」(シュラッダーヴァン ラバテー  グニャーナム)と、「疑い深い人は滅びる」(サムサヤートマ ヴィナーシヤティ)というものです。この両岸に守られたときに初めて、人生という川は恩寵の海に流れ込むことができます。もし皆さんの人生の川がその両岸の間を流れないとすれば、人生が無駄 になる ばかりでなく、他の人々に害を与えることになるでしょう。神を疑う人は、神の恩寵にあずかることができません。誠実な目的を持たない人は、人生に成功することができません。 誠実な人は、与えられた機会がいかに小さなものであれ、最大限に活かします。たとえばそのような人は、いかに小さな火種からでも、大きな火を起こすことができます。一方、 誠意に欠ける人は、たとえたくさんの火種を与えられても、火を起こすことができません。 その人は、無気力な態度によって、すべての火種を炭にしてしまうでしょう。神に関することがらに対しては、この上ない誠実さが必要です。

 皆さんは、大変な苦労をして世俗の教育を身に付けようとしています。そして、何時間も集中し続けてそれを勉強しています。そこから得られる恩恵は、いったいどのようなものでしょうか? 皆さんがこの教育を身に付けるのは、単に腹を満たすためでしかありま せん。しかしこのような教育であっても、社会の福祉のために役立てることができます。 私たちは、利己心を離れて、万人の幸せを求めなければなりません。「ローカー サマスター  スキノー バヴァントゥ」(世界中のすべての人々が幸せでありますように!)。これを私 たちの祈りとし、目標としなければなりません。それこそが本当の霊性修行です。ヴヤシティとは個人のことであり、サマシティとは社会のことです。ですから、皆さんはヴヤシティからサマシティへと進化しなければなりません。そして、サマシティからスルシティ(宇宙)へと進み、ついには、パラメーシティ(神)に融合するのです。皆さんは、個人と社会と宇宙と神の一体性を体得しなければなりません。霊的変革のみが、社会の福祉をもたらすことができるのです。SAIという名前の最初のSは奉仕(Service 仕事)を表しています。Aは崇拝(Adoration 礼拝)を、Iは啓蒙(Illumination 英 知)を表します。ですから、SAIという名前そのものが仕事と礼拝と英知の調和を象徴 しているのです。

 こんにち、人々は、人間として生まれることの神聖さと目的とを理解することができないでいます。人間として生まれてきたからには、皆さんは、至福を経験するための努力をしなければなりません。皆さんは、至福が欲しいという願いを持っていますが、そのために必要な努力をしていません。器を逆さにしていれば、雨が激しく降っていても、一滴の雨水さえ集めることができません。器の口が上に向けられている場合は、幾分かの雨水を集めることができるでしょう。ですから、もし皆さんが神に到達したいと願うのであれば、 ダルマを実践しなければなりません。それが、「ダルマム シャラナム ガッチャーミ」 という言葉の意味です。しかし、これはまた、万人の幸福につながるものでなければなり ません(「サンガム シャラナム ガッチャーミ」)。これが仏陀の教えの内的な意味なのです。

 ある日、仏陀は弟子たちと一緒に、ある村に入りました。一人の婦人が仏陀に近づいて、 家で食事をしてくださいとお願いしました。仏陀は彼女を祝福し、その招待を受けました。これを見た多くの村人たちは、村長までもが仏陀に次のように警告しました。 「おゝ、仏陀様。あなた様は知恵があり、すべてを放棄されたお方です。彼女は人柄の良くない女性です。彼女の家で食事をするのは正しいことではありません」仏陀は微笑んで、 村長に前に出て来るように言いました。仏陀は、村長の右の手を取って、手を叩くように言いました。村長は、一方の手を仏陀が握っているので手を叩くことができませんと答えました。すると仏陀は、「確かにその通 りだ。二つの手が一箇所で出会うときに、初めて手を叩くことができる。同じようにこの婦人も、この村に悪い性質を持った男たちがいない限り、一人で悪い女性になることはできない。彼女の悪い性質の根本原因はこの村の男たちである」と言いました。これを聞いた村の人々は、自分たちの愚かさに気づき、仏陀の足元にひれ伏して許しを請いました。仏陀は、教えを通 して人々に神聖さと英知を植え付けました。仏陀の教えは、深遠な内的意味を含んでおり、非常に神聖です。

真理と友達になりなさい

 仏陀の母親であったマーヤーデーヴィー(摩耶夫人)は、仏陀が生まれて、まだ八日しか経っていないときに亡くなりました。そして仏陀は、義母のゴータミー夫人によって育てられました。仏陀がゴータマと呼ばれたのは、そのためです。仏陀は生まれたときにシッダールタと命名されました。シッダールタが仏陀(ブッダ)として知られるようになったのは、ブッディ(知性) と識別力を磨いたからです。識別には二種類のものがあります。個人的識別と根本的識別 です。個人的識別は、利己心から生じますが、根本的識別はすべての人の幸せを大事にします。私たちは、個人的識別 を手放して、根本的識別のみを持つようにすべきです。仏陀は、涅槃に入る直前に、ゴータミーの息子であったアーナンダ(阿難)に、このことを教えました。仏陀が間もなく涅槃に入ろうとしているとき、アーナンダは悲しみの涙を流し始めました。すると仏陀は、次のように言ってアーナンダを慰めました。「アーナンダよ。お前はなぜ私が涅槃に入るのを悲しむのか? 私はこれまで何年も、涅槃に入るこの時を心待ちにしていたのだ。私がこの上ない至福を体験するときに、なぜお前は悲しみの涙を流すのか?」 アーナンダは真理を理解し、仏陀の教えに従いました。最終的には、アーナンダもまた涅槃に入ることができました。真の理想は、ダルマに関する実践的知識を他の人々に教えることです。 私たちは、説教をする際に英雄であるばかりでなく、実践においても英雄でなければなりません。これこそが仏陀の理想でした。すべてのアヴァターや高貴な魂たちは、最も見本的な生き方をすることによって、人々が神を体験することを助けました。仏陀は言 いました。「おゝ、人よ。お前たちは神を求めてどこにも行く必要はない。お前たち自身が神である」バガヴァッドギーターも、ウパニシャッドも、ヴェーダも、同じ原理を伝えています。ヴェーダは、「タット トワム アスィ」(汝はあれ〔絶対者〕なり)と 宣言しています。今の人々は、朝はヨーギ(ヨーガ行者)のように瞑想し、日中はボーギ (快楽を求める者)のようにたらふく食物を食べ、夜にはローギ(病人)のように眠ります。私たちはこのような生き方をしてはなりません。「人は常にヨーギであるべきです」(サタータム ヨーギナハー)。私たちは、絶えず神聖な感情に満たされていなければなりません。「人は、いかなることをも、神を喜ばせるために行なわなければなりません」(サルヴァ カルマ バガヴァッド プリーッティヤルタム)。神は空間と時間を超越しています。
「すべてはブラフマンです」(サルヴァム カルヴィダム ブラフマー)。

 この真理を理解するためには、私たちはサットグナ(浄性の性質)を養う必要があります。サットグナとは、ただ単に良い性質を指すばかりではありません。サットとは、 決して変わることのない「存在」のことです。ですから、サットグナは、神聖な感情を持っていることを意味します。同様に、サットサングとは、単に良い人々と共にいることのみならず、神と共にあることを意味しています。神は私たちのうちにあります。それがサットです。私たちはサット(真理)との間に友情を育てなければなりません。それが真のサットサングであり、真の友情です。決して世俗的な友情に頼ってはなりません。世俗的な友情は、生まれては消えていきます。神との友情のみが真実で永遠です。神こそがあなたの真の友人であり、世界は教科書で、心があなたの教師です。皆さんがこの真理を理解して、それを実践するのであれば、あなたの人生は成就するでしょう。世間のグルたちは皆、厳密な意味では、グルではありません。彼らが皆さんに人生の目標を教えることができないとすれば、どうして彼らをグルと呼べるでしょう? いったん皆さんが心の神秘を理解しさえすれば、心自体が皆さんのグルになります。

愛の化身である皆さん!
 イエス、仏陀、アッラー、ラーマ、クリシュナ。皆さんは神を様々な名前で呼ぶかもしれませんが、神は一つです。「一なる神に多くの名前があります」(エーク プラブ ケー  アネーク ナーム)。皆さんが、この真理を理解したとすれば、すべてが神であることに気づくでしょう。「個人に挨拶することは、神に挨拶することに等しいのです」(サルヴァ ジーヴァ ナマスカーラム ケーシャヴァム プラティガッチャティ)。そのような広い心を養って初めて、皆さんの人生は神聖なものとなります。広い心を養いなさい。神に関しては、いかなる疑いの付け入る隙も与えてはなりません。そのような疑いは、すべて想像に過ぎません。決してそのようなものに屈服してはなりません。神聖な感情のみに従いなさい。

主人に従いなさい
悪魔に直面しなさい
最後まで戦い抜きなさい
ゲームを終わらせなさい

それを人生の目標とすべきです。

神の化身である皆さん!
 香港、日本、タイ、その他の多くの国々から、数多くの帰依者たちが、素晴らしい帰依と献身の心を持って、今日ここに集まっています。本当に、彼らの心は非常に神聖です。 ここではあまり快適さも便利さも得られないにもかかわらず、彼らはそれをサーダナ(霊性修行)とみなして、すべてを平常心で受け止め、至福を体験しています。彼らの帰依こそは真の帰依です。霊性の道においては、いかなる束縛をも受けて立つ覚悟が必要です。 その強い決意が真の苦行(タパス)です。強い決意がなければ、私たちはタマス(怠惰)になってしまいます。
皆さんは何かを得ようと決意しています。欲しいものを手に入れるまでは、 決してあきらめてはなりません。皆さんは何かを望んでいます。あなたの願望が満たされるまでは、決してあきらめてはなりません。あなたは何かを願いました。その願いがかなうまでは、決してあきらめてはなりません。 皆さんは、われを忘れて神に祈り、神をあなたの要求に応じさせなければなりません。途中であきらめるのは、真の帰依者のすることではありません。 (テルグ語の詩)

 犠牲の精神を培い、いかなる困難にも立ち向かう覚悟を決めなさい。「幸福は幸福によって得ることはできません」(ナ スカト ラビヤテー スカム)。古代の賢者や聖者(リシ)たちは、多くの困難を通 らなければなりませんでした。彼らは、草の葉や、草の根を食べながら、森の中に住まなければなりませんでした。彼らはこのような多くの苦しみの後に、ようやく神の姿を見ることができたのです。彼らは、世界に向けて、「おゝ人よ、我々は、無知の闇の彼方に、一千個もの太陽のごとく光り輝いている神を見た」と宣言しました。彼らはまた、「神は遍在である。我々は外側にではなく、我々自身の内に神を見たのだ。 あなた方もまた、眼を内に向ければ、神を見ることができるであろう」と宣言しました。

 神に到達するには、私たちは霊性修行(サーダナ)をしなければなりません。それはどのようなサーダナでしょう? 苦行や瞑想ではありません。私たちは感覚をコントロールしなければなりません。語る言葉を少なくして、もっと仕事をしなさい。そうして初めて、 個人も、社会も、国家全体も繁栄するのです。時間を無駄にしてはなりません。時間は神です。時間を無駄 にすることは人生を無駄にすることです。ウパニシャッドは、人生は非常に神聖で、稀有なものであると宣言しています。ですから、深く神を想うことによってあなたの人生を神聖なものにしなさい。あなたのすべての行為を神に捧げなさい。そうして初めて、あなたは平安を得ることができるのです。

 

サイババ述

訳:サティヤ サイ 出版協会
出典: http://www.srisathyasai.org.in/