日付:1999年10月17日
場所:プラシャーンティ・ニラヤム
ブラフマーナンダム、パラマスカダム、
ケーヴァラム グニャーナムールティム、
ドヴァンドヴァーティータム、ガガナ サドルシャム、
タットワマッスヤーディ ラクシヤム、
エーカム、ニッティヤム、ヴィマラム、アチャラム、
サルヴァディー サークシブータム、
バーヴァティータム、トリグナラヒタム、
サッドグルム
神は、ブラフマンの至福の体現者であり、この上ない歓喜を与える者、
究極なる叡智の具現であり、
二元性を超え、大空のようであり、
タットワマスィという大格言によって示され、
一つであり、永遠であり、純粋であり、不動であり、
理知のあらゆる働きの目撃者であり、
あらゆる心の状態を超越し、三つの属性を持たない、
真のグルである
愛の化身たちよ! 人はヴェーダの神秘と内的意味を理解するために高潔な性質を養うべきです。ヴェーダで使われている用語は時間と空間の壁を越えています。
「ブラフマーナンダム」(ブラフマ アーナンダ)という言葉を考えてみましょう。これは永遠の至福を意味します。こうした言葉は、物質的な快楽から得られる喜び(ローカ アーナンダ)と比較することによって理解することはできません。「ブラフマ」という語は、広大さを意味する語根「ブリハト」から派生したものです。ブラフマ アーナンダは、変わり得ないものです。それは真の無限の至福です。それはまた、一つであるという体験から生じる至福を意味する、アドワイタ アーナンダ〔不二の至福〕と呼ぶこともできます。それはまた、ニルグナ アーナンダ(姿形を超越した至福)やニラーカーラ アーナンダ(属性を超越した至福)とも表現されることもあります。
「パラマスカダム」とは、至高の幸福を意味します。これは世俗的な幸福や五感の快楽とは何の関係もありません。それは永遠の至福の体験と同じものです。
「ケーヴァラム」とは、時間と空間と状況の制限を超越したものという意味です。
「グニャーナムールティム」は、英知の人という意味です。ここでのグニャーナとは、一つであるという体験のことです。それは体と心(マインド)と知性を超越しています。「アドワイタ ダルシャナム グニャーナム」(不二一元の体験は真の英知なり)。
人間がこうした類いまれな英知を理解することなどできるでしょうか? ヴェーダには、こういった神聖な意味に満ちた言葉がたくさんあります。神という、無属性で、古来よりの、永遠で、常に新しく、清らかで、汚れていないものだけが、ヴェーダの原理の内なる意味を説明することができます。
「ドヴァンドヴァーティータム」とは、幸せと悲しみ、善と悪、功徳と罪など、あらゆる二元性を超越したもののことです。
「トリグナラヒタム」とは、三属性であるサットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕を超越したもののことです。属性は姿形と結びついています。ですから、姿形のないものには属性がありません。ヴェーダには4つの大格言(マハーヴァキャ)が含まれています。それらは、プラグニャーナム ブランマー(智慧はブラフマンなり)、アヤム アートマ ブランマー(このアートマはブラフマンなり)、タットワマスィ(汝はあれなり/汝はそれなり)、アハムブランマースミ(私はブラフマンなり)です。無属性の原理は、これら4つの宣言さえも超越しています。
「エーカム、ニッティヤム」とは、永遠で、無二のもののことです。ヴェーダは、「エーカム エーヴァ アドヴィティーヤム ブランマー」(神は唯一無二である)と宣言しています。「オーム イッティエーカ アクシャラム ブランマー」(一音節のオームはブラフマンなり)。
「ヴィマラム、アチャラム」は、清らかで、安定しているもののことです。この宇宙では、太陽、月、惑星などの天体は常に移動しています。映画館のリール〔フィルムの一巻き〕は1秒間に16コマという高速で動いているということを現代の学生たちは知っていると思いますが、心(マインド)の動きの速さは推し量れないほどです。それほどまでに揺れ動く心には、神という、安定し、変化せず、無属性であり、最高の至福と幸福を体現しているものを理解することは不可能です。だからこそ、古代の聖賢たちは、「究極の幸福の権化であるお方に敬礼いたします」と祈ったのです。体や心と結びついた幸福は、まったく幸福ではありません。内なる幸福(ニヴリッティ)こそが、真の幸福です。
神だけが永遠の至福を与えることができる
神の原理を理解することは非常に困難です。神性を経験するためには信仰心が非常に重要です。信仰心があるところには、愛があります。愛があるところには、平和があります。平和があるところには、真理があります。真理があるところには、神性があります。神性があるところには、至福があります。ですから、神性だけが永遠の至福を与えることができるのです。世俗の幸福は一時のものです。これに関連して、アーディ シャンカラ〔初代シャンカラ〕はこう述べました。
マー クル ダナ ジャナ ヤンヴァナ ガルヴァム
ハラティ ニメーシャート カーラハ サルヴァム
(若さ、お金、子孫を誇ってはならない。それらは一時のものにすぎない)
世俗の幸福は惑わしであり、五元素や五感と結びついています。それは外への道(プラヴリッティ)に通じるものです。
人間の体は5つの鞘(コーシャ)でできています。食物の鞘(アンナマヤ コーシャ)、生気の鞘(プラーナマヤ コーシャ)、心(マインド)の鞘(マノーマヤ コーシャ)、理智の鞘(ヴィグニャーナマヤ コーシャ)、歓喜の鞘(アーナンダマヤ コーシャ)です。体は食物の鞘です。体を動かしているのは生気の鞘です。生気の鞘の先には心の鞘があります。人間が調べられるのはこの3つの鞘だけです。人間には理智の鞘と歓喜の鞘を理解することは不可能です。なぜなら、人間は五感に縛られているからです。
五感には究極の真理を理解することができない
ブッディ グラーヒャム アティーンドリヤム、すなわち、五感には究極の真理を理解することができない、と言われています。どんなに知的であっても、内なる道を歩まなければ真理を理解することはできません。同一の体が、起きている状態、夢を見ている状態、深い眠りの状態という3つの状態すべてにおいて存在していますが、ある一つの状態であなたが見たものは他の状態では見ることができません。なぜなら、それらは外への道につながっているからです。真理を理解するためには、外への道を捨てて内への道をとる必要があります。
この体が7歳のとき、プッタパルティの小さな村で、コレラやペストといった恐ろしい伝染病が猛威を振るいました。恐れをなした親たちは、子供が家の外に出るのを許しませんでした。けれども、子供たちは、私を愛するがゆえに、親に告げずに私のところにやって来ました。全員が6歳から8歳の年齢層の子供たちでした。
ある日、12人近い男子が私の周りに集まってきて、不安そうな口ぶりで言いました。
「ラージュ、僕らの村でコレラやペストが流行っていることが分かったんだ。とても危険で、命にかかわるんだって。僕たちはどうなるの?」
私は言いました。
「どんなに予防したとしても、体はいつか滅びるものだ。だから、死ぬことを恐れてはいけない。神さまを黙想して、病気に打ち負かされないように気をつけるんだ」
少年たちは、どのような神の姿を思い浮かべたらいいかと私に尋ねました。彼らは皆、とても純真無垢(じゅんしんむく)でした。当時、ここは人口106人のとても小さな村でした。彼らには自分たちはどのような神の姿を崇拝すべきなのか、考えもつかなかったのです。
スワミが病気を追い払った方法
ランプを灯し、それを夕方6時にバザールに置いてバジャンをするようにと、私は少年たちに言いました。彼らはどんなバジャンを歌えばいいのか分かりませんでした。そこで、私は彼らのためにバジャンをいくつか作りました。私は彼らに言いました。
「外に神さまを捜す必要はない。神さまは僕たちの中にいるんだ。黄土色の服を着て、足に鈴輪を付けて、手に持ったターラムをたたきながら村を回って、怒りと欲望という悪い性質を取り除くんだ」
当時は、夕方5時を過ぎると誰もサティヤンマ寺院の先に行く勇気はありませんでした。なぜなら、その先は村から遠く離れていて、寺院の敷地の境界を越えた所には幽霊が出ると信じていたからです。私は、幽霊も魔物もいないと言って自信を与え、神の御名を唱えることでコレラやペストの病気を追い払うようにと助言しました。私たちは、足に鈴輪を付け、ターラムを鳴らしながら、チットラーヴァティー川の川床までバジャンを歌いながら歩いていきました。3日間という短い期間でコレラやペストを根絶してくれたのは、神の御名でした。
両親は子供たちを私のところに連れてきて、疫病から救ってくれたことに感謝の意を表しました。彼らは言いました。
「ラージュ、君が子供たちに勇気と自信を植え付けてくれたことに恩を感じている。子供たちは学校ではなく君のところに行かせる。どうか子供たちが幸せになるのに必要な教育を与えておくれ」
毎日、夕方6時になると、子供たちは私の家に集まり、夕食をとった後、授業を受けました。子供たちは、私を「授業の達人」と呼んでいました。彼らの両親は、グル ダクシナー〔師への謝礼〕として3パイサの月謝を出したがりましたが、私はきっぱりと断りました。子供たちは毎夕、数字やアルファベットを学ぶために私のところに来ていました。それらの学びを全面に出しながら、私はその中に価値教育を組み込んでいました。悪い仲間に入らない、批判や中傷にふけらない、良い習慣と良い性質を身につける、親を敬い親の言うことをきく、といったことを私はよく助言していました。以降、子供たちの行動や考え方に明らかな改善が見られました。
スワミのバジャンを作る才能
月夜の晩には夕方6時にチットラーヴァティー川へ行き、ようやく戻ってくるころには夜の11時になっていました。年長者も数人付いてきて、カバディ〔南インド発祥の国技〕などをして過ごしていましたが、子供たちはやりたがりませんでした。私が何度言っても、子供たちはそうしたゲームに加わろうとしませんでした。それよりも、バジャンや私のそばにいることに興味があったのです。子供たちは、私にバジャンをリードしてほしいと頼むこともありました。このようにして、私たちはチットラーヴァティー川でバジャンを歌って過ごしたものです。子供たちはよく、新しいバジャンや歌を作ってほしいと頼んできました。彼らは私をべた褒めしました。私は子供たちに、何か望みがあれば言ってほしいけれども、私を褒めるのはやめてもらいたいと言っていました。
ある日、コッテ・スッバンナという名の薬剤師が、カマラープラムからプッタパルティにやって来ました。彼は私の作曲の才能についていろいろなことを聞き、新しい薬の宣伝になるような歌を書いてほしいと頼みに来たのです。彼はスッバンマのところに行って私のことを尋ねました。スッバンマは言いました。
「ラージュのことはよく知っていますよ。彼は村一番の良い子です。性格も行いもお行儀も良い子です。それだけでなく、他の子たちにも良いことを教えています」
ある日、スッバンマはコッテ・スッバンナを昼食に招きました。昼食をとっている時、彼は私の作詞作曲の腕前について疑問を口にしました。私のような小さな子供が市場で新薬が売れるような歌詞を書くことができるというのは信じがたいと、彼は言いました。そこで私は、ならば誰か自分が信用できる人のところへ行ったほうがいいと言って、彼を追い返しました。
私は子供たちに大きな愛を注いでいました。ケーシャンナ、ランガンナ、スッバンナ、ラマンナは、私が毎晩河原に連れて行っていた子供たちです。彼らの純真無垢、清らかさ、そして、私への愛は、言葉ではとても表現できません。ある7歳の少年は、とても疲れているように見えるから少し休んだほうがいい、自分がひざ枕をするからしばらく横になってほしいと、私に言いました。その様子を見て、他の子供たちもひざ枕をする特権を得たがりました。そこで彼らは、全員平等にチャンスが与えられるような方法を考え出しました。それは、全員が一人ずつ順番に私の頭を膝に乗せ、1から50まで数を数え終わったら次の子供に交代するというものでした。全員が私に奉仕する機会を逃すことなく、私は全員を満足させました。
スワミは薬を宣伝する歌詞を書く
ある日、コッテ・スッバンナが再び私のところにやって来て言いました。
「ラージュ、この子たちはみんな君の指示に従う心積もりだ。みんな歌がうまくて、声もいい。どうか私の新しい薬を宣伝する歌をいくつか作って、この子たちにそれを歌って村中を回るように言ってくれないか。報酬を払う用意はできている」
私は彼に言いました。
「僕はギブ・アンド・テイクの商売は好きではありません。この子たちもそれを認めません。とにかく、その薬はどんなものかを正確に教えてください。それに応じた歌を作りますから」
彼は、その薬はバラ・バースカラという名前で、いろいろな病気を治すことができると説明しました。私はその薬の効能をテルグ語のきれいな歌にしました。
さあ、子供たち、おいで、
新しい薬、バラ・バースカラが出たよ。
胃の痛み、消化不良、栄養失調、手脚のむくみ、
いろんな病気に効くすごい薬だよ。
その薬はコッテ・スッバンナの店で手に入る。
かのシュリ・ゴーパーラチャルヤ先生が作った
すばらしい強壮剤だ。
コッテ・スッバンナはこの歌詞をとても気に入り、広告用にそれを大きな紙に書かせました。彼は運がよかったのか、私は5学年と6学年の授業をカマラープラムで受けることになりました。コッテ・スッバンナは、私のカマラープラム滞在を薬の宣伝のために最大限に活用しました。
アーンジェネーヤはスワミが寺院でプラダクシナーをすることを止めた
私は、幼いころから、子供たちにとってインスピレーションの源でした。他人を傷つけることは避け、自分の義務を誠実に遂行するようにと、私は子供たちに力説したものです。マーガ月〔西洋の暦の1月から2月〕には、朝4時に子供たちをアーンジャネーヤ(ハヌマーン)寺院に連れていきました。中には幼い子もいて、そんな早い時間には起きられませんでした。そこで私は、その子たちを近くの池まで連れていって沐浴をさせ、それからお寺に連れていっていました。子供たちがプラダクシナー(御堂の周りを時計回りに歩く礼拝)をしている間、私はお寺で座っていました。
ある日、子供たちが、私も一緒にお寺を回るべきだと言い出しました。私はとうとう彼らに負けて寺院を回りはじめました。すると、信じられないかもしれませんが、アーンジャネーヤがやって来て、こう言って私が寺院を周るのを止めたのです。
「おお、主よ! 私のほうがあなたの周りを回らなければならないのです! そんなことはなさらないでください」
一方、子供たちはアーンジャネーヤを普通の猿だと思いました。私は子供たちに、アーンジャネーヤがやって来て、私がお寺を回ることを許してくれないのだと言いました。
この事があってから、子供たちのハートに大きな変化がありました。子供たちは、アーンジャネーヤ寺院で目撃したことを村中の人に話して回りました。そのニュースはカラナム・スッバンマにも届きました。
翌日、彼女はこう言って私を家に招きました。
「ラージュ、今日はドーサをこしらえたので、食べに来なければいけませんよ」
当時、イドリーやドーサといったものは、お金持ちの食べ物だと考えられていました。私はスッバンマに、大勢の子供たちを残して自分一人で食べるのは私の性分ではないと言いました。すると、スッバンマは子供たち全員のためにドーサをこしらえてくれました。
サットウィックな料理の必要性
村人たちは、私に相当な尊敬の念を持ちました。プッタパルティの人々が生まれて初めて神のことを考えるようになったのは、サティヤ・サイ・ババのおかげです。それはしだいに他の村にも広がっていきました。私はよく村人たちに、非菜食、お酒、喫煙を控えるよう、熱心に勧めていました。そして、サットウィック・フード〔浄性の食物〕の必要性を強調しました。
エーカーダシーのお祭りには、チットラーヴァティー川の河原で牛車(ぎっしゃ)レースが行われていました。速く走らせるために牛を鞭(むち)で打つのが常でした。私は子供たちに、自分の父親に牛を鞭打つのをやめるよう要求するようにと言いました。今だけでなく、当時でさえ、私は非暴力の原理を説いていたのです。
当時、村では闘鶏が盛んでした。雄鶏(おんどり)の脚に小さなナイフをくくり付け、どちらかが死ぬまで闘わせるのです。その過程で、もう一羽の鶏もひどい怪我(けが)をしていました。私は村人たちに、人は善行を競うべきであって、そのような残酷な行為を競うべきではありませんと言いました。
いつも良いことをしている人は決して評判が悪くなることはない
ある日、この体の父親であるペッダ・ヴェーンカマ・ラージュが、村のことには口を出さないようにと、私を叱りました。彼は、年長者のほうが物事をよく知っているのだから、度を越してはいけない、と言いました。私は、もし動物が殺されたり、不当に扱われたりしたら、黙っているわけにはいかないと言いました。彼は、私を納得させることができなかったので、この体の母親に助言をさせました。食事を出している時、彼女は私に言いました。「サティヤ、お父さんの機嫌を損ねるようなことをしてはいけません。お父さんの言うことを聞かないと、村で悪い評判が立ちますよ」
私は、自分は良いことをしているのだから人の言うことは気にしないと言って反論しました。私は、いつも良いことをしている人は決して評判が悪くなることはない、と強調しました。この体の祖父であるコンダマ・ラージュも、私の主張を支持してくれました。彼は村人たちを呼び、私のやっていることは村のためになると言ってくれました。彼も、暴力や賭博を慎むようにと村人たちに助言しました。そして、まとまりがないと村は険悪になる、と戒めました。こうした教えのせいで私への憎悪を募らせた人たちもいました。
私は、学校の授業に出るために朝7時までにブッカパトナムに行く必要がありました。先生方は私をとても可愛がってくれました。どの先生も、教室に入ってくると開口一番、「ラージュは来ているか?」と尋ねました。当時の私はどのようだったか分かりますか? 私たちの家は貧しい家でした。今の子供たちのように何十着も服を持っているわけではありませんでした。シャツと膝下丈のズボンが一組あるだけでした。学校から帰るとすぐに服を脱いで洗濯し、腰にタオルを巻いて服を干しました。そうやって、一組の服で一年間やりくりしていたのです。
平安が私の本質、愛が私の本性
学校で質問されたときには、私はいつもうまく答えることができました。他の生徒の多くは、質問に答えるのが苦手でした。同級生の中には25歳近い大人もいて、ほとんどがドーティーを着ていました。私はクラスで一番年下でした。ある日、私が問題にうまく答えると、メーブーブ・カーン先生に、怠けている生徒たちを叩きなさいと言われました。彼らのほっぺたに手が届くようにするには、机の上に登らなくてはなりませんでした。私は彼らのほっぺたを優しく叩きました。すると先生は、「私は君に、顔にターメリックを塗れと言いましたか? どうやればいいか、私がやって見せよう!」
プッタパルティに戻る途中、何人かの生徒が私を押して川の砂地に転げさせ、私の両足を引きずりました。彼らは私のシャツを裂き、私を泥の中に投げ込みました。そのようないじめを受けていた間、私はずっと平静を保っていました。平安が私の本質です。愛が私の本性です。平安はスワミの姿です。至福は私の決意です。
私はハヌマーン寺院にたどり着き、服を洗って着直しました。学生諸君はその時の私の状態を容易に想像できるでしょう。シャツが破けていても、布を留める安全ピンすらありませんでした。それを買うお金もありませんでした。誰かに頼む気もありませんでした。私は誰にも何も求めません。この決意を、私はその日から今日までずっと守り続けています。私はサティヤンマ寺院に行ってサボテンのとげを抜き、それをピン代わりにしてシャツの裂け目を留めました。もし、本気で自分の決意を守り続けていれば、どんなことでも成し遂げることができます。
あるとき、スッバンマが私に言いました。「ラージュ、あなたは弱ってきています。よく食べて、丈夫になりなさい」。友人たちは、家でこしらえたものを何でも私のために持ってきてくれました。でも、私はこう言っていました。「君たちの家では肉や魚を料理して食べている。そういう家からは何も持ってこないでほしい」。このようにして、私はプッタパルティの非菜食を減らしたのです。同じようにして、私は闘鶏や牛車レースといった動物への虐待を抑え、賭博の習慣も妨げました。
私たちが真実を守れば真実が私たちを守る
あるとき、私に敵対する者たちが、私が寝ていた部屋に火を放ちました。その時、外のベランダでは6歳から9歳の子供たちが10人ほど寝ていました。悪党たちは私の部屋に外から鍵をかけ、屋根に火を放ちました。子供たちは大声で、「ラージュ! ラージュ!」と叫んでいました。私は小さな窓から笑顔を見せて言いました。
「怖がることはないよ。ダルマ エーヴァ ハトー ハンティ、ダルモー ラクシャティラクシタハ(ダルマを滅ぼせば滅ぼされ、ダルマを守れば守られる)。僕たちが真実を守れば、真実が僕たちを守ってくれる。この教訓を固く信じるんだ」
子供たちは目を閉じて、「ラージュ! ラージュ!」と、それがあたかもマントラであるかのごとくに唱えました。屋根は藁(わら)でできていたので、大火事になりました。すると突然、大雨が降りだして、火はすっかり消えてしまいました。土砂降りになったのはその小屋の上だけで、他の場所には降りませんでした。子供たちの喜びようといったらありませんでした。「ラージュ、ラージュ、すごい奇跡だ!」と子供たちは叫び続けました。「君がいなかったら僕たちは生きられないよ」。私は彼らを家の中に呼び入れて、グアバとバナナをあげました。子供たちは、この果物はどこから持ってきたのか尋ねました。私は言いました。「どうして気にするの? もらったものを食べればそれでいいんだよ」。大きな屋敷であろうと、道端の避難所であろうと、それは問題ではなく、眠れればよいのです。それと同じように、お腹がいっぱいになれば、それでよいのです。
スッバンマのスワミへの愛
スッバンマは翌日この出来事を知りました。スッバンマは偉大な魂の持ち主でした。スワミは彼女の命そのものでした。スッバンマは犯人を見つけるために綿密な調査に乗り出しました。犯人は捕まりました。スッバンマは彼らを村から追放するよう命じました。村の財産はすべてスッバンマが所有していました。スッバンマはとても裕福でした。すべての土地はスッバンマが所有していました。だから犯人たちに、自分の土地から出て行くようにと命じたのです。そこで、私は彼女の両手を握って言いました。
「どうか私のために彼らに危害を加えないで。知ってか知らずか、彼らは過ちを犯してしまいました。どうか許してあげて。どうか追い出さないで」
スッバンマが犯人たちにそのことを話すと、彼らは皆スワミのところにやって来て、スワミを肩に担ぎました。スッバンナやラマンナといった人たちでした。彼らはとてもプライドが高い人たちでした。そんな彼らが、私を肩に担いで言ったのです。
「君は前世でどこかの偉人であったに違いない。そうでなければ、これほどの気高さはありえない。君のおかげで、この村は次第に高い評判を得るようになるだろう」
スッバンマは言いました。
「彼を小さな少年だと勘違いしてはいけません。彼の力は落雷と同じです。どうしてあなた方に彼の本性を理解できるでしょう?」
その日から、スッバンマは私が外出するのを許しませんでした。私はスッバンマの家にいて、そこから学校に通いました。スッバンマは立派な女性でした。当時、彼女は60歳でした。彼女はいつも私を探していて、「ラージュはいる? ラージュはいる?」と聞いていました。スッバンマは私が無事でいるのを確かめてから眠っていました。スッバンマは村の悪人から私を守ろうとしていたのです。
毒入りの食べ物でスワミの命をねらう
ある日、一人のブラフミンの女性がやって来ました。彼女はスッバンマに、家でスナックをごちそうしたいのでラージュを来させてほしいと頼みました。スッバンマはその提案をあまり快く思いませんでした。スッバンマは不審に思い、この招待の裏には何か邪悪な意図があるのではないかと勘ぐりました。スッバンマは申し出を断り、私に言いました。
「ラージュ、私の承諾なしにはどこにも行ってはいけませんよ」
私は言いました。
「スッバンマ! どうしてあの人の願いの邪魔をするの?」
スッバンマは答えました。
「この招待の裏には何か悪い目的があるのよ」
しかし、私は反対して言いました。
「僕はあの人の願いをかなえなければ」
私はその場所に行きました。その女性はヴァダ〔豆粉の生地をドーナツ形にして揚げた南インドのスナック〕を作っていました。それは毒入りでした。私はそれを食べました。5分も経たないうちに、血液に毒が周って全身が真っ青になりました。それを知ったスッバンマが私を捜しに走ってきました。スッバンマが私を見つけたとき、私は言いました。
「心配しないで、あの人たちは、自分がしたかったことをしたのです。僕の面倒は僕が見ます」
それから私はスッバンマに、コップに水を入れて手渡してほしいと頼みました。その水を飲むと、すぐに青みは消えました。スッバンマの怒りは限界に達していました。
「このような女たちはプッタパルティの評判を落とします。この村にはそんな人たちの居場所はありません。ここには正しくて気立ての良い人だけが住むべきです」
スッバンマはスワミの仲間たちの母親を呼んで言いました。
「〔今日から〕この子たちは皆さんの子ではありません。皆、私の子です。この子たちは、いつもラージュと一緒にいるべきです。すべての時間を一生ラージュと一緒に過ごすべきです」
最近まで、彼らは生きていました。諸君は皆、ブッカパトナム・サティヤナーラーヤナを知っているかもしれません。彼もそのうちの一人で、今も私たちと一緒にここにいます。彼は六年生の時の級友でした。その子たちは皆、スワミの所にやって来ました。スワミに対する彼らの汚れなき愛情、信愛、愛着を説明するのは難しいことです。カリユガは子供たちの心をむしばんでいます。
当時、スワミが眠くなって伸びをすると、その子たちの間で、誰がスワミの膝枕をするか競争が始まったものです。彼らは言いました。
「ラージュ、君が僕の膝の上で眠ってくれたおかげで、僕の体はどこも痛くない、僕は何だか喜びでいっぱいだ」
現代の子供たちも同じような気持ちになるとよいのですが。
「私は何も求めません。私はギブ アンド ギブのみです」
今、子供たちの心は正しくない感情でいっぱいです。「ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ」(心のありようが、その人のありようとなる)。当時の子供たちは、とても清らかで純真無垢でした。スワミはその時、村人たちのためにそれらの性質を広める決意をしました。
単なるバジャンや、「ラーマ」、「ゴーヴィンダ」と唱えることは、偉大なことではありません。良い習慣を身につけなさい。模範的な性質を身につけて、良い評判を得るべきです。スワミは、学生諸君があの学生は良い性格だという評判を得たら、嬉しく思います。子供たちの振る舞いは、スタートから良いものであるべきです。だから私は、「早くスタートし、ゆっくり運転し、安全に到着しなさい」と言うのです。もし、幼い年齢から神聖な習慣を身につければ、模範的な人間に成長します。私と一緒にいた人たちは、今でも村々の輝く手本であり続けています。スワミがバンガロールから戻る途中に私を見ると、彼らは沿道一帯で「スワミ! スワミ!」と言って大喜びで挨拶をします。車で私の後を付いてくる人たちは、彼らが瓶に水をくんで運んで持ってきて、道路を洗っている様子を知っています。彼らは言います。
「スワミ、あなたは私たちのために水を運んでくれました。私たちはあなたに水をお返ししなければなりません」
私が彼らに「元気ですか」と尋ねようものなら、彼らは歓喜に満ちます。私が一銭もお金を蓄えないのは、この変容のためです。私は1パイサの財産も持っていません。私の全財産は私の学生です。私は何も求めません。私はギブ アンド ギブ、与え、与えるのみです。スワミのギビング(与えること)に限界はありません。帰依者は、何かを与えることによって、幸せにならなければいけません。スワミの唯一の関心事は帰依者たちの福利です。誰も私の福利について心配する必要はありません。私の福利は私の手の中にあります。ですから、真実と正義から離れることなく人生を送るなら、その人の人生は実りある有意義なものとなるでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.32 part2 C10