日付:1999年11月19日
場所:母の恩寵の重要性
女性の日の御講話より
ジャスミンやキンコウボクのような甘い香りの花よりもかぐわしく
チーズやバターよりも柔らかく
孔雀(くじゃく)の瞳よりも美しく
月光よりも快いもの
それは母の愛
テルグ語の詩
愛の化身たちよ! 動けるものと動けないものが存在するこの世界は、シヴァの宇宙の舞(シヴァ ターンダヴァ)にほかなりません。この至福あふれるシヴァ ターンダヴァは、畏敬の念を起こさせ、驚きに満ち、人間の理解を超えています。昼と夜、喜びと苦痛、生と死という二元性には終わりがありません。誕生と死が自然なことであるのと同じように、ダルマとアダルマ(正義と非正義)の存在も自然なことです。ダルマが隆盛になればアダルマは衰退し、アダルマが隆盛になればダルマは衰退します。男性も女性も、このダルマとアダルマの隆盛と衰退の責任を負っています。人間は、内なる神性に気づくことができず、神と自分は違うものであると錯覚しています。
シヴァ シャクティの原理
スマティーは、夫の命を救うために太陽が昇るのを止めさせることさえできました。サーヴィトリーは、死んだ夫をよみがえらせることさえできました。彼女たちはその力をどこから得たのでしょうか? それは、彼女たちの信愛と純潔の力です。信愛と熱意を持って神を礼拝するとき、神の性質であるサッティヤム・シヴァム・スンダラム(真・善・美)がその人の中に姿を顕わします。このまぶしく輝く神の力は、人の中に潜在しています。カムサが自分の妹デーヴァキーを殺そうとした時、夫のヴァスデーヴァが間に入ってデーヴァキーの命を救いました。それはヴァスデーヴァが生来持っていた神の力によって可能となりました。神の力を得るには、なんら特別な努力をする必要はありません。神の力はあなたの中にあります。神の力は、あなたが我を忘れて神を憶念したとき、初めて顕れます。
人間は、自分が持っている神の性質を忘れて、神は自分とは別のものだと思い、神を得ようとさまざまな霊性修行をします。人々は、ラーマ、クリシュナ、イエス、アッラーといった異なる御名で神を崇めます。しかし、ただ一つの根源的な力が存在するのみであり、それはシヴァ シャクティという形にほかなりません。シヴァ シャクティの原理はすべてに浸透しています。この世界は、バヴァーニー シャンカラ〔命を与える者という意味のパールヴァティー女神の別名と、至福を与える者という意味のシヴァ神の別名〕という、非常に意味深い名前を持っています。バヴァーニーはシュラッダー〔シラッダー〕(揺るぎない信愛)を、シャンカラはヴィシュワーサ〔ヴィッシヴァーサ〕(信念)を意味します。それはつまり、世界はシュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)という二つの原理に基づいているということを意味しています。バヴァーニーとシャンカラは不可分で、相互に依存しており、すべてに浸透しています。ですから、全世界はアルダナリーシュワラ〔半身がパールヴァティーで半身がシャンカラという両性具有の神〕の姿なのです。このことに基づいて、「シュリーマティー」〔シュリーマト〕と「シュリー」〔シュリ〕という語が、女性、男性のそれぞれの呼びかけに使われているのです。「シュリーマティー」はバヴァーニーを現しており、「シュリー」はシャンカラを象徴しています。あなたの崇める御名と御姿がどのようなものであろうとも、確固たる信愛と信仰心を持つことが必要です。この二つがなければ、あなたは人生において何事も成し遂げることはできません。
シラッダーヴァム ラバテー グニャーナム〔ニャーナム〕
(揺るぎない信愛を持っている者だけが英知を得る)
信念を通してのみ、人は内なる神性を認識することができます。人の内にある神性は、バヴァーニーとシャンカラの結合体です。
神はあなたがしているすべてのことの目撃者
全世界は、イッチャ シャクティ(意志の力)、クリヤー シャクティ(行動の力)、グニャーナ シャクティ(英知の力)の結合体です。イッチャ シャクティ(意志の力)は心(マインド)と関連しており、クリヤー シャクティ(行動の力)は身体、グニャーナ シャクティ(英知の力)はアートマ〔真我〕と関連しています。これが、あなたは一人の人間ではなく三人の人間であると言われる理由です。一人は、あなたが自分だと思っているあなた(身体)、もう一人は、他人があなただと思っているあなた(心体)、そしてもう一人が、本当のあなた(アートマ原理)です。あなたは本質的には神なのですが、そのことを理解することができずにいるのです。ヴェーダは宣言しています。
サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッ シルティマルローケー サルヴァマーヴルッティヤ ティシタティ
(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)
神は、あなたがしているすべてのことの目撃者です。あなたは誰かをだますことができるかもしれませんが、神はだませません。なぜなら、神は常にあなたの中にいて、あなたと共にいるからです。
バヴァーニー シャンカラの恩寵がなければ、あなたの努力はすべて無駄になるでしょう。名と姿が重要ではないのは、名と姿は変化するものだからです。身体は水の泡のようなものであり、心(マインド)は狂った猿のようなものです。これらを信頼することはできません。しかし、これらの内には、真実で永遠のものが存在しています。それは神性です。この隠れた神性を顕現させるためには信愛を養う必要があり、それによってあなたの信念は強まります。木は、根が深く伸びれば伸びるほど大きく強くなります。それと同様に、信念は、信愛が深まれば深まるほど強くなります。もしあなたに信念と信愛が欠けていたら、どんな御名も御姿も決してあなたを助けないでしょう。
どの人の内にも無限の神の力が潜んでいます。もし、あなたがそれを顕わすことができれば、スマティーがしたように太陽が昇るのを止めることも、サーヴィトリーが証明したように死者をよみがえらせることもできるのです。神の力を顕現させた時、あなたは神になります。
神はあなたが得るに値するものは何でも与える
アートマは遍在です。アートマを経験するためには、確固たる信愛と信念を持っている必要があります。今日、人々は、ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ(世界のすべての人が幸せでありますように!)と祈ります。それは、シュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)が育まれたとき、初めて可能となります。喜びや悲しみは流れゆく雲のようなものです。それらは来ては去っていきます。道徳心は、芽生えると育ちます。ですから、道徳心を養いなさい。富や地位や権力を熱望してはなりません。神は、あなたが得るに値するものは何でも与えます。神への愛を育てなさい。それは最高のサーダナ〔霊性修行〕です。
今日、人々は神に到達するためにさまざまな霊性修行をします。しかし、そのすべては精神的な満足をもたらすだけです。ナーラダ仙は、九つの信愛の道を広めました。それは、シュラヴァナム(聴くこと)、キールタナム(歌うこと)、ヴィシュヌ スマラナム(神を憶念すること)、パーダセーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(崇敬すること)、アルチャナム(礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(友情を持つこと)、アートマ ニヴェーダナム(神我への全託)という道です。これらの修行が永続する喜びを授けることはできません。宇宙は神の御姿そのものである(ヴィシュワム ヴィシュヌスワルーパム)という揺るぎない信念を持ちなさい。ヴィシュヌ〔神〕は起因であり、ヴィシュワ〔宇宙〕は結果です。この二つは切り離すことのできないものです。
ヴェーダは宣言しています。「アチャラム チャラメーヴァチャ」(神は不動でありながら明らかに動いている)と。実例を挙げましょう。夢を見ている状態で、あなたはさまざまな場所を訪れ、幸福や悲しみを経験します。しかし、実際には、あなたの身体はベッドに横たわったまま――不動の状態です。
ですから、あなたがこの世で見たり経験したりするものはすべて、夢でしかありません。アートマ〔真我〕だけが真実であり永遠です。アートマはスティラム(永遠のもの)であり、この世はチャラム(変化するもの)です。人生は、このスティラム(永遠のもの)とチャラム(変化するもの)の組み合わせです。
ジャントゥーナーム ナラジャンマ ドゥルラバム
(人間として生まれることは、すべての生き物の中で最も稀有(けう)なもの)
すべての生き物が人間として生まれ得るという幸運にあずかれるわけではありません。すべての生き物が人間としての生を得るほど幸運なわけではありません。すべての人間が神を体験するわけでもありません。神に到達するために偶像崇拝といった霊性修行をする人たちもいます。人は徐々に内面へと自分の目を向けていき、自分とアートマは一つだということを体験すべきです。
アートマの終わりなき至福を体験しなさい
あなたがどれほど神を愛しているかは、それほど重要なことではありません。重要なのは、神がどれほどあなたを愛しているかということです。神は、サット・チット・アーナンダの化身です。サットは永遠のものを意味します。チットは完全なる意識です。水と砂糖が混ざるとシロップ〔砂糖水〕になります。同様に、サットとチットが結合するとアーナンダ(至福)が生じます。世俗の喜びから経験するアーナンダ(至福)は一時的なものです。
目を内面に向けてアートマを体験したときにのみ、あなたは真実と尽きることのない至福を得ます。アートマは、姿形はありませんが、至福で満ちています。
愛の化身たちよ! アートマの終わりなき至福を体験すべきです。
生まれた時、人の首にはどんな貴重な宝石の首飾りも掛かっていない
しかし、重たい首飾りが必ず掛かっている
それは、善果であれ悪果であれ、過去の行いの果報をつないで作った首飾りなのだ
テルグ語の詩
母を神として崇敬しなさい
ヴェーダは宣言しています。
マートゥル デーヴォー バヴァ、ピトゥル デーヴォー バヴァ
母を神として崇敬しなさい、父を神として崇敬しなさい
かつて、ヴィシュワ・ヒンドゥー・パリシャド〔VHPと呼ばれる過激派のヒンドゥー教グループ〕の書記長、アショク・シンガルが私のもとにやって来て嘆願しました。「どうかラーマの生誕地を教えてください。それがわかれば、そこに寺院を建設することができます」。私は、「ラーマの真の生誕地はカウサリヤー妃の胎内です」と答えました。庶民であれ、神の化身であれ、母親の胎内がすべての人の生まれた場所です。ですから、母を神として崇敬しなさい。母の名を守り、母を敬いなさい。
今日は11月19日です。この日は、あなた方に母の重要性を思い出させるために、女性の日として祝われています。あなたは母の望みに応じて行動しなければなりません。母に背いてはなりません。クリシュナ神の大いなる帰依者であったチャイタニヤは、結婚を望んでいませんでしたが、母親のたっての願いに従ってラクシュミーという娘と結婚しました。しかし、不運にも、ラクシュミーは結婚後まもなく死んでしまいました。チャイタニヤの母、サッティデーヴィーは、息子の思いに反して結婚させたことをたいそう悲しみました。チャイタニヤは母にこう告げました。「これは良心の命じることに背いた結果です」。ですから、自分のしていることが正しいと感じるなら、母親を説得するように努めなさい。ただし、決して母親の感情を傷つけてはなりません。
あなた方は、女性は体も心も弱いものであるという間違った見解を持っているかもしれません。しかし、実際には女性は男性よりも強いのです。叙事詩『マハーバーラタ』〔ジャイミニ仙版〕に、アルジュナとの結婚を望んだ女王プラミーラー〔女性の王国の王女〕の物語があります。アルジュナは彼女との結婚を望んではいませんでした。プラミーラーは、アルジュナを捕らえるために最高司令官のマラヤーヴァティーを送りました。マラヤーヴァティーはアルジュナと激しく戦い、ついにアルジュナを捕まえてプラミーラーの前に連れていきました。プラミーラーはアルジュナに求婚しましたが、アルジュナは、たとえ命に代えても結婚はしないと断りました。プラミーラーはクリシュナ神の敬虔な信者で、アルジュナもそうでした。二人は熱烈に祈りました。宇宙劇の監督であるクリシュナ神には、自らの計画がありました。クリシュナ神はその場に現れ、プラミーラーとアルジュナをそばに呼び、二人の手をつながせて、マントラを唱え、おごそかに結婚式を執り行いました。
神はどんなことでもすることができる
神はどんなことでもすることができます。神は地を天に、天を地に変えることもできます。しかし、人間は神への信愛と信念に欠けています。人は世俗のことを信じ、霊性を信じません。バクティ(信愛)にまさるものはありません。「バクティ」の「バ」は「光沢」や「光輝」を意味し、「クティ」は「引き寄せる」という意味を持ちます。あなたは、バクティから身体と心(マインド)と霊〔アートマ、魂〕へのシャクティ(力)を得ます。バクティ(信愛)とシャクティ(力)によって、あなたは神へのラクティ(愛着)に浸り、世俗へのヴィラクティ(無執着)を培うことができます。すると、神はあなたにブクティ(食物)を与え、さらにムクティ(解脱)をも与えます。このようにして、人はバクティ(信愛)からムクティ(解脱)へと旅する必要があるのです。昨日、私が話したように、人生は「私」から「私たち」への旅です。聖地であるティルパティやヴァーラーナスィー〔ベナレス〕、ガヤーやプラヤーグへ行くために、あなたは大変苦労して長旅をするかもしれません。一方、「私」から「私たち」への旅は、あなたが自分を身体から引き離して真我への愛着を育む旅であるという意味において、非常に短い旅です。そのためには、母の恩寵が極めて重要です。
神は必要が生じればいつでもやって来る
アビマンニュがまだ母スバドラーの胎内にいた時、アルジュナは妻のスバドラーにたくさんの物語を話して聞かせていました。ある日、アルジュナは、パドマヴューハ(蓮の花の形をした軍陣)に入る際の複雑さと細かな点をスバドラーに説明していました。アルジュナがスバドラーにパドマヴューハから脱け出す方法を話す前に、宇宙劇の至高の監督である主クリシュナがその場にやって来ました。神は必要が生じればいつでもやって来て、適切に自分の役を演じます。
クリシュナはアルジュナに尋ねました。
「君は何という過ちを犯しているのだ! 君の言葉の一部始終を聞いているのは、スバドラーではなく、胎内にいる子供だ。子供にパドマヴューハについて教える必要性がどこにある?」
クリシュナは、アルジュナを連れて出ていきました。
後に、クルクシェートラの戦いで、アビマンニュがパドマヴューハの中で命を落としたのは、その軍陣から脱け出す方法を知らなかったからです。クリシュナは、なぜこのようなことをしたのでしょうか? それは、アビマンニュはヴィーナ スワルガ(英雄の天国)に到達しなければならなかったからです。実際、カウラヴァ兄弟がアビマンニュにパドマヴューハに入るように挑戦をしかけてきた時、アビマンニュは母スバドラーのもとへ赴き、母の許可と祝福を請い求めました。スバドラーは、アビマンニュが戦場に行かないよう最善の努力を尽くして説得しました。スバドラーは言いました。
「私の愛しい息子よ、パドマヴューハに入って、またそこから脱け出すのは、なまやさしいことではありません。それに、あなたの妻は身ごもっていますし、あなたの叔父上であるクリシュナと父上であるアルジュナは今ここにおりません。ですから、戦場に行くという考えはあきらめなさい」
しかし、アビマンニュは母の忠告に耳を貸しませんでした。アビマンニュは言いました。
「母上、私の生まれはクシャトリヤ(武人階級)です。クシャトリヤにとって、敵から突きつけられた挑戦に怖気づくほどの侮辱はありません。実に、母上は私を励まして、敵と闘って圧勝せよと勇気づけるべきなのです。戦(いくさ)に行く気持ちをくじかせるようなことをするのは、母上の役目としてふさわしくありません」
アビマンニュは、自分がしようとしていることは正しいということは分かっていましたが、母の愛を理解することはできませんでした。アビマンニュが命を落としたのは、母の願いに背いて戦場に行ったからです。
神の恩寵と人間の努力
母の愛よりも偉大なものはありません。母親の言葉は常に甘美です。時に厳しい言葉を使うこともあるでしょうが、それはただ、あなたを正すためであり、傷つける意図はありません。この世に邪悪な息子はいるかもしれませんが、邪悪な母は決して存在することはできません。女性の日が祝われているのは、母の愛の価値と、あなたへの母の思いをあなた方に理解させるためです。母親、父親、師、神の中で、最高位を与えられているのは母親です。現代の若者は母親を顧みません。若者は、自分はたいそう学があるけれど、母親は何も知らないと思っています。そのように考えるのは大きな間違いです。決して母を見下してはなりません。母親も、子供に自分の望みを強要してはなりません。母親は、愛と誠意を通じて子供を正しい道に置くべきです。母親は、わが子が善良になることを切望すべきであり、偉大になることを望む必要はありません。
ラーマは善良で、ラーヴァナは偉大でした。ラーマは自分が学んだことは何であれ実行し、それゆえに名声を得ました。一方、ラーヴァナは学んだことを何も実行せず、無知に浸っていました。その結果、ラーヴァナは良い評判を得ることができませんでした。良い評判を得るためには、罪への恐れと神への愛を持つ必要があります。神への愛と罪への恐れが欠如しているために、人間性が衰退しています。これが、今の世の中が不安定である原因です。
愛の化身たちよ! 神はガーナローラ〔歌を好む者〕でありガーナプリヤ〔歌を愛する者〕(歌に引き付けられる者)です。詩や祈りは、信愛を込めて歌われた歌ほどには神を引きつけません。皆さんはM・S・スッブラクシュミーの美しい歌を聞きましたね。彼女はガーナ コーキラ〔うぐいすのように甘く美しい歌声の人〕という称号を得ています。私は、まだとても若かった彼女がミーラーの役を演じたのを見たこともあります。
多くのアーティストがダンスで名声を博しています。ウダイ・シャンカール〔舞踊家。シタール奏者ラヴィ・シャンカールの兄〕は、そうした偉大なダンサーの一人でした。彼が踊っている時、足が床に着いているのを見ることがほとんどできなかったくらいです。彼の妻、義理の娘、そして弟子たちが、明日ダンスプログラムを上演するために、ここに来ています。こういった芸術は練習だけでマスターできるものではありません。神の恩寵も必要不可欠です。電流が流れるにはプラスとマイナスの両方が必要です。それと同じように、成功に至るまでには人間の努力と神の恩寵が共に必要なのです。
決して怒りとエゴに入り込む隙を与えてはならない
学生諸君! 青年男女の皆さん! 神はあなたの気持ちに一致した反応をします。ですから、ネガティブな思考を抱いてはなりません。たとえ孔雀の卵をニワトリが温めて卵がかえっても、その卵から出てくるのは孔雀だけです。ダイヤモンドは、肥溜めに落ちても価値と輝きを失うことはありません。それと同様に、善良な人は、どこにいても常に良い評価を得ます。エゴと憎悪と怒りは、人間の最悪の敵です。誰かを正しい方向に導くために、その人に多少の怒りを示すのはかまいませんが、決して誰をも憎んではなりません。怒りとエゴに付け入らせてはなりません。
私は自分が教えることのすべてを、手本で示しています。中には、スワミが自分に話しかけてくれないのは、スワミが自分を嫌いだから、あるいは自分を怒っているからだ、と感じている者がいます。それは単に彼らの想像であり、彼らに良心の呵責(かしゃく)があるからにほかなりません。私は誰をも憎みはしません。あなた方を正しい道に導くために、私は時に怒ったふりをすることがあるかもしれません。けれども、実際には、私は誰に対しても怒りや憎しみは持っていません。中には、そうすれば自分の望みをかなえてもらえるだろうと期待して、グラーマ セヴァ(村への奉仕)をする人たちがいます。私を喜ばすには、それで十分でしょうか? すべての欲望を手放して、あなたのハートを清めなさい。そうすれば、私はあなたに頼まれずとも、あなたに必要なものをすべて授けます。ネガティブな思考を手放さないで、どうしてポジティブな結果を期待できますか? あなたのハートをポジティブな思いで満たしなさい。ハートを愛で満たしなさい。その時、あなたのすべての思考と言葉と行いは、愛で満たされるでしょう。
万人はヴィシュワ マータの子供たち
愛の化身たちよ! 決してあなた母の愛を忘れずに、どんな状況の下でも母を幸せにしなさい。あなたが母を幸せにするときにのみ、私はあなたに満足します。ウマー・バーラティーが指摘したように、すべては一つであることを理解するよう努力しなさい。もしあなたが他人と自分を別のものだと考えるなら、憎しみが入りこむ余地があるでしょう。私とあなたは一つであることを認識しなさい。身体は異なっていても、あなた方は同じ愛の原理で結びついているのです。あなたの母があなたを愛するように、あなたはすべての人を愛すべきです。すべての人はヴィシュワ マータ(万物の母)の子供です。すべての人は兄弟姉妹です。何であれ差別意識を持ってはなりません。太陽はどこの世界でも一つであり同じです。太陽は貯水池にも川にも海にも映るのと同じように、同じ神性がすべての人のハートに映っているのです。
エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
(真理は一つ、しかし、学者はそれを異なる名で呼ぶ)
自分はラーマだけが好きだとか、クリシュナだけ、シヴァだけ、サイ ババだけが好きだと言うのは正しくありません。一なる神がいるだけであり、神は遍在です。他の宗教を憎んではなりません。ヒンドゥー教徒はより良いヒンドゥー教徒になるべきであり、クリスチャンはより良いクリスチャンに、イスラム教徒はより良いイスラム教徒になるべきです。愛がなければ、その人をイスラム教徒とも、ヒンドゥー教徒とも、キリスト教徒とも、シーク教徒とも呼ぶことはできません。実際、愛のない人は地上の悪魔です。愛のない人だけが、宗教に基づく違いに余地を与えるのです。あなたがハートを愛で満たしたとき、初めてすべての宗教は一つであることがわかるでしょう。
バーラタの文化は、母親に最大の重要性を与えています。人は、自分の国を母国と呼びますが、父国とは呼びません。主ラーマは宣言しました。「ジャナニ ジャンマブーミシュチャ スワルガダピ ガリーヤスィ」(母と母国は天国よりも偉大である)と。国は母であり、文化は父です。決してあなたの国と文化を忘れてはなりません。古来、バーラタの文化は、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(世界のすべての人が幸せでありますように!)という祈りと共に、平和と愛のメッセージを広めてきました。あなた方は、この神聖な文化を支えなければなりません。
どのような御名、どのような御姿の内に神を礼拝してもよいのです。しかし、神は一つ、ただ一つである、という真理を理解しなさい。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.32 Part2
訳注1 スマティーの物語 ウグラシュラヴァスというバラモンの妻スマティーは、貞節の誉れ高い貞女だった。ウグラシュラヴァスは病気で足が不自由になり、出かけるときはいつもスマティーが背負っていくようになった。ある日、ウグラシュラヴァスは売春宿に行きたいと言い、夫に忠実なスマティーは何も言わずに夫を売春宿まで連れていこうとした。それを見ていたマーンダヴィヤ仙は、ウグラシュラヴァスの非道に怒り、「明日、朝日が昇ったら首が落ちるように」と呪いをかけた。スマティーは悲しんで、「私が真に貞女であるならば、明日の朝、太陽が昇りませんように」と祈願した。すると、翌朝になっても太陽は昇らなかった。神々も人間も困ってしまい、スマティーのもとに行って、夫の命を保証するから太陽を昇らせるようにと頼み、スマティーは太陽が昇るようにした。
訳注2 サーヴィトリーの物語 ヤマ(死神)がサーヴィトリーの夫サティヤーヴァンの命を取った時、サーヴィトリーは悲しみを募らせて、夫を生き返らせてほしいとヤマに懇願した。「夫を生き返らせるか、私の命を取るかしてください。私は夫なしでは生きられません。私たちは一つなのです」。夫の命を取った後、ヤマがその場を去ろうとすると、サーヴィトリーはヤマの行く手をふさいで、ヤマを行かせなかった。そのため、ヤマはサーヴィトリーの願いに耳を傾けるしかなかった。ヤマがサーヴィトリーに「どうして欲しい?」と尋ねると、サーヴィトリーは「私に夫を返してください。なぜなら私は夫なしでは生きていけないのです」と答えた。結局、ヤマはサーヴィトリーの願いに屈した。ヤマはサーヴィトリーの貞操と決意を喜んで、サティヤーヴァンをよみがえらせ、さらにはサーヴィトリーとサティヤーヴァンに数々の恩恵を授けた。