サティヤ サイババの御言葉

日付:1999年11月21日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
第二回シュリサティヤサイ世界青年大会閉会式の御講話より

神を内に求めよ

良心にまさる教師はおらず
時にまさる師はなし
この世はまさしく最高の教典
神は唯一の神の友なり

テルグ語の詩

青年男女の皆さん!

将来の世界の市民である皆さん!

世界の未来は、良くも悪くもあなたたちの行いにかかっています。皆さんの行いが善いものであるときにのみ、国家に安全と安泰、平和と繁栄がもたらされます。今日、世界が必要としているのは物質的な豊かさや快適さではなく、優れた人格を備えた男女です。青年男女の振る舞いが正しいものでないなら、国は確実に崩壊します。

真の人間とは、「真理」(サティヤ)と「正義」(ダルマ)と「犠牲」(ティヤーガ)を遵守する人のことです。「真理」とは道徳律(二ーティ)であり、「正義」とは正しく行動する方法(リーティ)、「犠牲」とは名声(キャーティ)です。この三つすべてがあって、人類(マーナヴァ ジャーティ)は成り立ちます。人類は「真理」から生まれました。

万物は真理から生じ ついには真理に溶け込む 真理の存在せぬ場所はなし 悟るべし この清らかで汚れのない真理を 悟るべし この清らかで汚れのない真理を

テルグ語の詩

このことに基づいて、古の聖賢や預言者は言いました。「サッティヤム ブルーヤート、プリヤム ブルーヤート、ナ ブルーヤート サッティヤマプリヤム」(真実を語れ。感じの良い話し方をせよ。不快な真実を語ってはならない)。「真実を語れ」とは、道徳的な価値のことです。道徳性がなければ人類は存続することができません。今日、不法、虚偽、不正によって世界中が紛争と混乱の渦に巻き込まれています。衰退しつつある人間的価値を復興できるのは、青年男女だけです。人が道徳を維持したときにのみ、社会に平等と友愛と自由があるのです。道徳を維持するためには、真理を遵守しなければなりません。これが「真実を語れ」と言われる理由です。これは人間としての根本的な義務です。二つ目は「感じの良い話し方をせよ」です。これはダルマ的な価値です。これに基づいて『バガヴァッド・ギータ―』は、「感じの良い健全な話し方で真実を語れ。あなたの話が、相手の衝動を駆り立てたり、感情を刺激するようであってはならない」と述べています。三つ目は「不快な真実を語ってはならない」です。これは霊的な価値です。霊性の道を進むためには、これらの原則をしっかりと守らなければなりません。

愛の化身である皆さん!

ヒマーチャラ(ヒマラヤ山脈)はインド北部の国境を形成しています。「ヒマーチャラ」の内的な意味とは何でしょう?「ヒマ」は「氷」を意味し、「純粋さ」と「平安」を象徴しています。「アチャラ」は「不動なるもの」という意味です。ですから「ヒマーチャラ」は、「純粋」、「平安」、「不動」を意味します。絶えることなく流れ続けるガンジス河やヤムナー河、サラスワティー河は、人間の体内を間断なく流れる血液の循環を象徴しています。この国の偉大な叙事詩『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、そして『バーガヴァタ』には、人間性の典型が明らかにされています。バーラタ(インドの古称)という名が示している理想を実践する者のみが、真の意味でのバーラタ人(バーラティーヤ)であると自称することができます。バーラタの「バー」は「バーヴァ」(感情)を表し、「ラ」は「ラーガ」(メロディー)を、「タ」は「ターラ」(リズム)を表しています。バーラタ人とは、この三つ、すなわち感情とメロディーとリズムを調和させて神を崇める人々のことです。また、「バ」には「光輝」という意味もあります。ですからバーラタ人とは、神の光輝を追い求める人々のことです。皆さんは自分がバーラタ人であるということに誇りをもつべきです。これに勝る資格はありません。バーラタは霊的な知識を世界に広め、世界全体の幸福を願う国です。「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(全世界が幸せでありますように!)

あなたたちは皆、国籍に関係なく一つです。電球は異なるかもしれませんが電流は同じです。同様に、国や体や感情は異なっているかもしれませんが、アートマの原理はすべての人に内在しまったく同一です。ですから、カーストや宗教や国籍に基づいた差別を一切やめ、一体性のメッセージを広めなさい。実際、神性とは一体性です。なぜそれを分かつのですか? 国はたくさんありますが地球は一つです。宝飾品はたくさんありますが金は同じです。星はたくさんありますが空は一つです。牛はたくさんいますが牛乳は同じです。体はたくさんありますがアートマ原理は同じです。万物の一体性を心に留めて奉仕をするときに、初めて人は至福を体験することができます。

あなたたちは愛の中で生まれ、愛の中で育ち、愛に溶け込みます。五大元素(パンチャ ブータス、地・水・火・風・空)は、無私の具現です。太陽は光と活気を与え、生きとし生けるものを支えます。水は有害な二酸化炭素を受け入れて、生命を維持する酸素を供給します。大地は忍耐と犠牲について教えてくれます。こうした自然力はどれも何の見返りも期待することなく人類を援助しています。自然ほど素晴らしい無私の愛を示す手本はありません。人が自然の中で生まれ、自然の中で育っていながら、自然が示す理想を吸収することなく、自分勝手で利己的な生活を送っているのは残念なことです。青年は、利己心と私利私欲を跡形もなく取り除くことを決意しなければなりません。

イエスは言いました。「すべては一つです。愛しい息子よ、誰に対しても同じでありなさい」。皆、同じ大地から生まれ、同じ空気を吸い、同じ水を飲みます。そうであれば、なぜ差異を置かなければならないのでしょう?いかなる差別をも慎み、一体性の内に生きなさい。多様性の中の統一性を認識し、それに従って行動しなさい。あなたたちは村に行って、貧しい人々に奉仕をしたり、さまざまな農村開発プログラムに着手するかもしれません。そういったことを行っているからといって、あなたたちは何も偉大な奉仕をしている訳ではありません。実際、それらはすべてあなたたちの義務なのです。あなたたちは奉仕をするために生まれてきました。ですから、他の人々への奉仕に人生を捧げなさい。地位や権力を求めてはなりません。謙虚に人に仕える者(セーヴァカ・奉仕者)でなければ、リーダー(ナーヤカ・主人)となることはできません。実のところ、真の奉仕者だけが真のリーダーなのです。

人々は霊性修行とはジャパや瞑想やヨーガのことであるといった誤った概念をもっています。彼らは瞑想の何たるかを知らずに瞑想を行っています! 神とは一体何者なのかを知らぬままに、自分は神を瞑想していると思っています。すべてのものが神の化身であるという事実に気づかぬままに、ラーマ、クリシュナ、イエス、アッラー、ゾロアスターを神々として賛美し、彼らを瞑想しています! 彼らは集中を瞑想であると勘違いしています。集中が諸感覚と結びついているのに対して、瞑想は感覚を超越しています。瞑想を特定の時間や場所に限定すべきではありません。瞑想とは生き方です。何であれ、愛の心でなされた行為は瞑想です。同胞への愛を示すことなく数時間座っただけの瞑想は、まったくもって瞑想ではありません。真の霊性修行とは、地域社会で他の人々と力を合わせて、社会全体の発展のために働くことにあります。愛は神です。愛に生きなさい。愛のないハートは、不毛の土地のようなものです。すべての行いは愛で包まれているべきです。生まれたばかりの赤ちゃんが大学の授業に出ることができないように、すぐに「愛」という最高の段階に到達することは不可能です。人は霊性修行をすることにより、少しずつ前進して行かなければなりません。自分の目を内に向けること(ニヴリッティ・感覚やエゴを抑制すること)ができるようになるまでは、こうした修行(プラヴリッティ・外的な行いを通じて衝動を昇華させること)が欠かせません。すべての活動に霊的な態度で臨みなさい。「真理」と「愛」という行動指針を遵守するに勝る霊性修行はありません。「真理」と「愛」は神の別名です。この二つがなければ霊性修行をしても意味がありません。

青年男女の皆さん!

「愛」と「犠牲」をあなたたちの命の呼吸そのものであると見なしなさい。感覚をコントロールしなさい。感覚をコントロールすることは、どんな霊性修行にも欠くことのできないものです。人間性は感覚のコントロール神性へと高められます。怒りは犬の性質です。猿には絶えず動きまわる性質があります。あなたに怒りが湧いてきたら、「私は犬ではない。私は人間だ」と自分を諭しなさい。同様に、あなたの心が動き出したら、「私は猿ではない。私は人間だ」と繰り返し自分に言い聞かせなさい。真理(サティヤ)、正義(ダルマ)、平安(シャーンティ)、愛(プレーマ)、非暴力(アヒムサー)が、真の人間的価値です。これらの価値は人間の五つの生命原理、すなわちプラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ、サマーナです。これらの価値の一つでも失えば、それは命そのものを失うことと同じです。どの価値も他の価値なくしては存在し得ません。今日、人はこれらの価値をすべて喪失し生ける屍(しかばね)となっています。これらの価値に対する信念を養い。これらの価値を守り、それにより引き出される至福を味わいなさい。

信あれば、愛あり
愛あれば、平安あり
平安あれば、真理あり
真理あれば、神あり
神あれば、至福あり

ですから信仰が始めに来て、至福は最後です。至福は信仰から生まれるのです。今日、誰もが至福を得たいと願っています。至福はそう簡単に手に入れられるものではありません。至福はブラフマンです。それは、不動、純粋、不滅、そして二元を超越しています。悪い諸性質を取り除かない限り、人はこの究極の至福に到達することはできません。ハートは神を安置する祭壇です。ハートを悪い思いや悪い感情で汚してはなりません。

あらゆる人間の活動において、それを成功へと導くのに欠かせないものは、自己の努力です。花を摘んだり、木になっている果物を採るといった小さな行為にも、目や手や足といった体のさまざまな部分の協力と努力が必要です。体は正しい行いをして、社会に手本を示すために与えられたのであり、寝たり、食べたり、飲んだり、浮かれ騒ぐために与えられたのではありません。神は人間にあらゆる力を授けましたが、人間は自らの内に秘められている力に気づくことができないでいます。

どのような活動を始めるときも、いつも他の人の幸福についても気にかけていなさい。利己的な生活を送ってはなりません。個人の利益のみでなく、全体の利益を考慮しなさい。多くの場合、ジャパや瞑想といった霊性修行は利己的な動機でなされます。それよりは、神の御名を唱えて、社会に奉仕したほうがよいのです。それは、個人と社会全体に利益をもたらすことになります。これが本当のサーダナ(霊性修行)です。誰に奉仕をするときにも、私は神に奉仕をしているのだという気持ちで奉仕しなさい。

一人の死人と、一人の病人と、一人の老いさらばえた人を見ただけで、ブッダが変容を遂げニルヴァーナ(涅槃)に達するには十分でした。なぜなら、ブッダの心は慈悲であふれていたからです。皆さんがいくら死人や病人や老人に出くわしても、心に何の変容も起こらないというのは残念なことです。不幸にも、あなたたちの心は、石のように固くなり、他人の苦しみに無関心になってしまっているのです。ニルヴァーナに達するためには、自分と他者とを同一視し、他の人の苦しみを和らげる努力をしなければなりません。

副学長がスピーチで「身をかがめ、諸感覚を改善し、心を滅しなさい。」(Bend the body, mend the senses, end the mind)と述べました。諸感覚がコントロールされているとき、心は存在することができません。高潔な思いを抱いているときに心を滅ぼすことができます。今日、世界は混乱の状態にあります。なぜなら、人の考えが堕落しているからです。

おお、人よ 考えてもみよ 神を忘れ 夜明けから日暮れまで 生計を立てるために 教養と活力のすべてを使い そしてどれほど大きな幸福を得たというのか

テルグ語の詩

あなたが何をしようとも、それは神の仕事です。例えば、息を吸って吐くという一連のプロセスは、それ自体が霊性修行です。吸気は「ソー」(それ)という音と結びついており、呼気は「ハム」(私)という音と結びついています。「ソーハム」とは、「我はそれ(神)なり」という意味です。「ソー」は神性を、「ハム」はエゴ(アハムカーラ)を象徴しています。ですから、「ソーハム」は、善良なもの(パラ)だけを取り入れ、汚れたもの(マラ)を取り出しなさいという教訓をあなたに思い起こさせているのです。息を吸って吐くという呼吸の営みは、一日に二万千六百回、繰り返し行われています。つまり、内なる声が一日に二万千六百回「あなたは神である」と告げているのです。不幸にも、人はそのメッセージを理解できないでいます。神があなたにその肉体を授けたのは、あなたにそのことを理解させるためです。神を自分の祭壇の中だけに限定してはなりません。神はあなたの命の呼吸です。

手や目や耳や鼻といったものが体の一部であるのと同じように、人間は社会の一部です。社会は自然の一部であり、自然は神の一部です。このことから、皆さんは、個人と神の間には密接な関係があるということを推測することができます。電話といった無生物同士がつながっていて、人と神の間につながりがないということがあるでしょうか? 前者の関係が実際は人工的なものであるのに対して、後者はハートとハートのつながりです。電話には二種類あります。一つは、誰もが受信できる電話(ナンバーコール)。もう一つは、特定の話したい相手だけが受信できる電話(直通電話)です。同じように、あなたの交信は、直通電話のように神と直接行われるべきであり、ナンバーコールのように誰とでも行うべきではありません。もし、あなたに神を欲する真摯な思いがあれば、神は自らあなたのところに行って話をします。自分でナンバーコールをかけていながら神に返答してもらうことは期待できません。ナンバーコールはネガティブ(否定的)な想念と通信します。ですから、ネガティブな考えを捨て去り、ポジティブ(肯定的)な思いを育みなさい。

体、心、感覚、知性はどれも本質的にネガティブです。良心だけがポジティブです。電源が入っていないマイクが役に立たないのと同じように、良心がなければ体も心も感覚も知性も役には立ちません。さまざまな電球を流れる電流が同一であるように、誰の内にも存在する良心はまったく同一です。「すべては一つです。誰に対しても等しくありなさい」。そのようにして、誰をも憎んだり、傷つけたり、とがめ立てることのないようにしなさい。他の人を傷つけることなく行動し、また、そうするときに自分自身をも苦しめることのない人は、高潔です。真の霊性修行とは、すべての仕事を神の仕事と見なすことです。ジャパや瞑想を行うことが霊性修行なのではありません。神はあまねく満ちています。まさにこのことに基づいて、『ヴェーダ』は次のように宣言しています。「その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している」。人間に目隠しをすることはできますが、神に目隠しをすることはできません。神はいつもあなたを見ています。神は永遠の目撃者です。あなたの目の中に物を見る力が存在しているのと同じように、あなたの中には神が存在しています。神の意志がなければ草の葉一枚動くことはできません。「自分がしている」という感覚から有頂天になるのは愚かなことです。ですから、自分の業績を自慢に思ってはなりません。神こそが行為者であり、また、それを楽しむ者であるという神聖な思いを育みなさい。すべてを神の意志であると見なしなさい。あなたに何が起ころうとも、それが利益であろうと損失であろうと、苦しみであろうと喜びであろうと、それは自分にとって良いことなのだという確固たる信念をもちなさい。マラリアに感染した人が医者に行けば、医者は苦いキニーネの薬を与えます。苦い薬を飲まなければ高熱は下がりません。同じように、困難や苦難は神があなたを純化するための手段であり方法であるということを固く信じていなさい。神が行うことは何であれ、その背後には理由があるのです。因果の法則を理解することなく、人は自分の苦しみの原因を神のせいにします。自分に降りかかってくる苦楽を招いたのは、自分自身であるという真理を理解しなさい。誰かがあなたを非難したとしても、悲しむことはありません。すべての人に同じアートマ(真我)が内在している限り、他の人を非難することは、自分自身を非難することになるのです。自分を、水の泡にも似た体ではなく、アートマであると見なしなさい。誰かに殴られても仕返しをしてはなりません。同じアートマの原理が両者に内在しているのです。殴った人も神、殴られた人も神なのです。全宇宙は神のひとり活劇です。ですから、誰も憎んではなりません。すべての人を愛しなさい。

青年男女の皆さん!

私の言うことはすべて、あなたたちのものであり、あなたたちの神性を目覚めさせるためのものです。私の教えと私の行動にはすべて深い内的意味があります。私たちの大学の学生は白い制服を着ています。それにはどんな内的意味があるのでしょう? 白は純粋さを象徴しています。同じように。あなたたちは黄土色のローブをまとった人を見ると出家の生活を連想します。これは、人は清らかとなり、一切の執着をもつべきでないというメッセージを伝えるためです。そのとき初めて人は神に到達することができます。

青年として、あなたたちはあまりにも多くの欲望を抱えもち、それらは精神のみならず肉体にとっても負担となっています。欲望は人生という旅の荷物です。「荷物は少ないほど楽です。楽しい旅にしましょう」。皆さんの目的地は、至高の平安の住居、すなわち解脱です。至高の平安の住居を目指していながら、なぜ「思い荷物」を背負って、自分の身を苦しめるのですか? 必要最低限の衣食住で満足しなさい――「食物は肉体を維持するためにあり、衣服は寒さから身を守るためにある」。衣服は体を守るためにのみ与えられているのです。着飾るためではありません。ほとんどの若者たちは、おしゃれという名目で、非常にたくさんの服を持っています。青年たち、とりわけ女子は、着るものの流行を追いかけるべきではありません。あなたたちの身に付ける服は、良質で落ち着きのある物であるべきです。映画文化を模倣してはなりません。模倣は動物の特性であり、創造は神の特性です。欲望を抑えることは、感覚のコントロールにつながり、さらには神性へと導きます。賢者パタンジャリは言いました。「ヨーガハ チッタ ヴリッティ ニローダハ」(心の気まぐれをコントロールすることがヨーガであり、諸感覚を野放しにすることはローガ《病気》である)。現代人は、感覚のコントロールに欠けているためにローギ(病んでいる人)となっています。人はローギではなく、ヨーギ(簡素な生活を送り、心を神に定めている人)にならなければなりません。ヨーガ(自己制御)は、ボーガ(世俗的な快楽)によってではなく、ティヤーガ(犠牲)によって達成することができます。ひとたびヨーガを達成すれば、二度とローガ(病)にさいなまれることはありません。ヨーガとは、森で隠遁者の生活を送るということではありません。足を組んで座ったり、一本足で立つといったような肉体的修練をヨーガと勘違いしている人たちもいます。真のヨーガとは、あなたの愛を神と一つにすることです。神はあなたから何も望んではいません。神は決してあなたに瞑想やヨーガをするよう強要することはありません。神はただ、あなたが愛と犠牲の原理でハートを満たすことを望んでいます。もし、信愛の心をもって真摯に神の指示に従うなら、あなたが何も頼まなくとも、神はあなたが必要とするものをすべてまかないます。シャバリーと鳥のジャターユの生涯は、この真理を如実に物語っています。

おお、心よ、何も求むるなかれ
おお、心よ、何も求むるなかれ
求めればそれは遅くなる
求めなければそれはすぐさま与えられる

求めるなかれ

神は、決して何も願うことのなかったシャバリーに
愛情を注がなかったか?
神は、ジャターユが何も願わなくとも、
最期の儀式を執り行い、解脱を授けなかったか?

ですから、あなた方は何も神に求める必要はないのです。子供が何も要求しなくとも母親が子供の世話をするように、あなたのハートが清らかであれば、神自らがあなたの面倒を見るのです。子供のようでありなさい。そうすれば、母なる神があなたの世話をします。それが全託です。すべてを母の意志に委ねなさい。母をあなたから遠ざけることのないよう、取るに足りないことを願うのはやめなさい。食べ物を要求する人は台所に連れて行かれます。けれども、何も要求することのできない子供には、母親が自ら食べ物を食べさせます。エゴがあり、世俗の生活に浸かっている人たちに限って要求してきます。しかし、子供のように自らを母なる神の意志に委ねる人は、平安に満ちた生涯を送るのです。

皆さんは、踊り手が手足を素早く動かして踊るのを見たでしょう。けれども、彼女の注意は常にリズムに向けられているのです。同様に、あなたたちが義務を果たしている間、心は常に神に向けられていなければなりません。皆さんは、ジャーンシーの王女、ラクシュミー・バーイーの話を聞いたことがあるかもしれません。彼女には小さな子供がいました。ある日、選択の余地なく戦場に行かなければならなくなったとき、彼女は子供を背中に結わえ付け、刀を手に馬にまたがって、激しく敵と戦いました。しかし、その間ずっと彼女の頭にあったのは、まず子供が無事でいるかどうかということでした。同じように、あなたたちはやむを得ず世俗の義務を果たさなければなりませんが、そうしている間も心は常に神に向けているべきです。これが「手は社会の中に、頭は森の中に」という格言が意味するところです。何か特別な霊性修行を始める必要はありません。何を行うときにも、それを神への捧げものとして行いなさい。

神聖な思いを抱くために、飲酒・非菜食・喫煙という三つの悪癖を直ちに捨てなさい。食物とお金と時間とエネルギーを無駄にしてはなりません。自分が食べられる量だけを食べなさい。食物を無駄にしてはなりません。何百万もの人々が飢えに苦しんでいるのです。あなたたちは皆、大型のサイクロンがオリッサ(ベンガル湾に面したインド東部の州)を襲撃したために、州の人々がどんなに深刻な状況にあるかを知っているでしょう! 中にはたった一口の食料を奪い合っている地域もあります。皆さんは食べ物のありがたみを知らないかもしれませんが、彼らは心底それを知っています。ですから食物を無駄にしてはなりません。食物は神です。

同じように、お金を無駄にしてはなりません。学生たちの中には、ホテルでの飲食やカード遊びや賭け事をしてたくさんのお金を無駄にしている者がいます。「お金の誤用は悪」です。自分のことは自分でしなさい。他人に頼ってはなりません。時間があるときは、自分の服は自分で洗いなさい。自分で洗えるのに、どうして洗濯屋に洗濯物を出すのですか? あなたには父親のお金を無駄にする権利はありません。

時間は神です。ゆえに神は、カーラーヤ ナマハ(時間なる神に帰命いたします)、カーラ カーラーヤ ナマハ(時間の支配者なる神に帰命いたします)、カーラ ダルバ ダマナーヤ ナマハ(時間の神のプライドを滅ぼした神に帰命いたします)、カーラーティーターヤ ナマハ(時間を超越した神に帰命いたします)、カーラ スワルーパーヤ ナマハ(時間の姿である神に帰命いたします)、などと言われ、称えられるのです。時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。世俗の快楽を追い求めて時間を無駄にしてはなりません。そうする代わりに、神の御名を唱えることで神性を味わいなさい。

エネルギーを無駄にしてはなりません。エネルギーは神です。今日、学生たちは、神聖でないものを見たり、悪い思いを抱いたり、悪いことを聞いたり、しゃべり過ぎたりして多くのエネルギーを浪費しています。私たちの体はラジオに例えられます。ラジオをずっとつけっぱなしにしていれば、電池はすぐになくなってしまいます。同じように、だらだらと話をしていれば、多くのエネルギーを失うことになります。こういった理由で、太古の賢者や預言者たちは沈黙を守ることを習慣にしていたのです。ですから、少なくとも週に一日は沈黙を守りエネルギーを節約しなさい。私はよく学生に「話を減らしてもっと働きなさい」と言っています。そうして初めて潜在しているエネルギーが発現されるのです。これこそが、賢者や予言者たちがさまざまな霊性修行に着手する唯一の目的でした。潜在しているエネルギーがひとたび発現されれば、集中力ののみならず記憶力も増してきます。本当のほんのわずかな時間さえも集中することができないために、試験が上手くいかない学生たちがいます。彼らは教科書を片手にいつもラジオのニュースやクリケットの実況中継などを聞いているのです! そのように気が散った状態で、どうして集中し、記憶することができるでしょう?

昔は、グルクラ(師と弟子が住居を共にして学ぶ庵)で学生たちに知識が伝授されていました。そこには師の教えを書き留める紙も、ペンも、鉛筆も何もなかったので、生徒たちが学問を身に付けるには、自分の記憶力と集中力のみに頼らなければなりませんでした。その学習法は師の教えを聞くことだけでしたが、学生たちは高い学識を得ることができました。現代の学生たちは、紙やペン等を使うことができるにもかかわらず、集中力と記憶力を欠いているために、学問に秀でることができません。

青年男女の皆さん!

自分自身の肉体の力、精神の力、そして霊的な力を保護しさえすれば、あなたたちは神になります。体を善行に用い、心に高潔な思いを抱き、知性を神に融合させなさい。体も心も知性もただの道具です。こうした道具にそれぞれの役割を果たさせている本源を知りなさい。現代の教育システムは、コンピューター中心になっています。どこもかしこもコンピューター流行りです。あなた方はコンピューターではなく、コンポーザー(作り手)です。結局、コンピューターがしていることは何でしょう? コンピューターが何でもしてくれると思うなら、近寄って言ってごらんなさい。「私の夫はどこですか?」と。コンピューターは教えてくれるでしょうか? いいえ。あなたがコンピューターを持っているのなら、尋ねてごらんなさい。「私の妻はどこですか?」と。答えが返ってくるでしょうか? いいえ。コンピューターは、何であれ人がそう動くようプログラミングしたことを行っています。コンピューターは自分の意志で動くことはできません。神から授かった脳こそが本当のコンピューターです。頭脳を正しく使いなさい。残念なことに、現代人は神に授けられた脳はそっちのけで過度に機械に依存しています。単純な計算さえも電卓に頼るほど状況は悪化しています。自分自身に頼るべきです。助けてもらうのは神からだけにしなさい。他からはいけません。神の仕事は他の人を助けること、ただそれだけです。神を見習いなさい。常に助け、決して傷つけてはなりません。ヴィヤーサ仙は言いました。「パローパカーラヤ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム」(他の人々に手を差し伸べることは功徳であり、他の人々に危害を加えることは罪である)。これはあらゆる聖典の精髄です。あなたたちの間に不和や口論の付け入る隙を与えてありません。一体性は最強の力です。ですから、一体となって働きなさい。「一体性のあるところに清らかさがあります。清らかさのあるところに神性があります」。もし、あなたのハートが純粋であれば、神は必ずあなたの願いを聞き入れます。例えば、ペンが必要だというのなら本気で神に祈りなさい。ペンは必ずやあなたのポケットの中に現れるでしょう。清らかなハートがあれば、できないことなど何もありません。神を理解することは不可能です。本当の自分を知ることはできずにいるとき、どうして神を知ることができるでしょう? 先日、ウマー・バーラティーは「人間は神を知るためにここにやって来る」と言いました。それは間違った考え方です。神を知るためにここに来る必要はありません。まず、自分自身を知る努力をしなさい。決して誰も私のことを理解することはできません。

人の霊的成長にとって最も重要なものは人格です。カンヴァ仙は、アシュラムの住民たちに教えを授けるためにグルクラを建てました。教え子の一人であったシャクンタラーは、カンヴァの愛情のこもった世話を受けて育ちました。ある日、思いがけなくドゥシャンタ王がカンヴァ仙のアシュラムを訪れました。そこで王はシャクンタラーに出会い、彼女と結婚しました。二人の間にバラタが生まれました。王宮で生まれ育ったドゥシャンタ王の心、この世の快楽に向けられていました。一方、カンヴァ仙のアシュラムで生まれ育ったバラタは、道徳的、霊的、倫理的な価値の宝庫でした。アシュラムでの教育は人にあらゆる崇高な価値観を植え付けます。バラタは、子供の頃から理想的な教育を受けていたために、あらゆる美徳の鑑となりました。逆に、ドゥシャンタ王は世俗的、物質的な富を所有していました。彼は強大な力をもった皇帝でした。しかし、人格が欠けているなら、持っているものはすべて何の役に立つでしょう? これらは都会の教育とアシュラムの教育の違いを明確に示しています。都会の教育には困難(シュラマ)が付いて回るのに対し、アシュラムの教育には何の困難も伴いません(アー・シュラマ)。学生たちが学問の目的を心に留めているなら、都会の大学に入ることは何も悪いことではありません。学生は、不必要な交際を深めたり、定められた道から外れるようなことがあってはなりません。あなたの人格は、あなたの周りの環境によって決まります。昔の人々はこう感じていました。

お金を失っても、何も失われるものはない。
健康を失えば、何かが失われる。
人格を失えば、すべてが失われる。

逆に、現代の青年たちは、お金を失えばすべてが失われ、人格を失っても何も失われないと感じているのです。

青年男女の皆さん!

私があまりにたくさんのことを話しているので、皆さんはきっとうんざりしていることでしょう。皆さんにとっては苦痛でしょう? (通訳「そうですか?」、聴衆「いいえ!」)。私はあなたたちにどんなに長い時間でも話をする用意ができています。けれども、私は決して不必要なことは話しません。私は決して無用な話はしません。実際、それが皆さんにとって役に立つことであれば、私はそれを話します。ですから、あなたたちは神聖な生活を送らなければなりません。皆さんは、サティヤ サイ オーガニゼーションで責任を担わなければなりません。今日、この大会に参加している人たちの中には、いくつかの困難を乗り越えてきた年長者もいるでしょう。また、さまざまな拘束に縛られているかもしれません。皆さんはオーガニゼーションの活動に参加し、しかるべき責任を担い、類いまれなリーダーとなり、それぞれの国や州でそのリーダーシップを発揮しなければなりません。皆さん方全員が責任を引き受けるべきです。あなたたちは、そうした力を伸ばさなければなりません。そうした地位に就かなければなりません。しかし、一つ重要なことがあります。政治と関わってはなりません。社会の幸福のために働き続けなさい。社会の発展のために働きなさい。あなたたちは社会の進歩のために働くべきです。懸命に努力をしなさい。それに勝るものはありません。それが最高の苦行(タパス)です。これ以上のものはありません。ですから、誠実な生活を送って責任を引き受けられるようになりなさい。

あなたたちはプラシャーンティ ニラヤムにいる間は完璧で、規律正しく過ごしますが、ここを出た瞬間に以前の悪い習慣に戻ってしまいます。そしていったん尻尾(しっぽ)を振れば、心は猿のように動き回り始めるのです。神聖な心をもちなさい。神聖な心(Divine Mind)でいなさい。強いお酒に酔った心(Deep Wine Mind)ではなく。そのような心を抱いてはなりません。私は神聖な青年男女を必要としています。彼らは私ととても親密です。彼らは私の親しい友人です。もしあなたがスワミの親しい友人になりたいのであれば、立派な振る舞いをしなさい。そうであれば、あなたはここに来る必要はありません。私があなたのもとに行きます。

私は行きます。
私は行きます。
あなたはどこにいようとも。

私はあなたと共に、
あなたの内に、
あなたの周りに、
あなたの後ろにいます。

もし、あなたが本当にそう感じているなら、
私とあなたは別々ではありません。
私とあなたは一つです。

一つであるという感覚、一体性の感覚をもちなさい。この種の神性を得ようと努めなさい。神性な性質を育てなさい。あなたたちはどこまでも成長することができます。人生のあらゆる面において、物質的にも、肉体的にも、霊的にも、皆さんは必ず進歩を遂げます。そして、皆さんはリーダーとなるでしょう。ですから、神の御名を繰り返し唱えなさい。絶えず神を思っていなさい。(バガヴァンはここで二曲のバジャン、「ピバレー ラーマ ラサム」と「ワへ グル ワへ グル」を歌われ、帰依者たちは喜びに我を忘れて後について歌いました。)

ただ一人のグル、一つの神、一つのゴール。これが、私が話していることです。誰かが何かを言ったからといって所構わず方向を変えてはなりません。自分の道を変えてはなりません。いかなる状況に置かれても、道は一つであるべきです。すべては神です。「グル ブランマー グル ヴィシュヌ グル デーヴォー マヘーシュワラ」(グルはブラフマー神、グルはヴィシュヌ神、グルはシヴァ神)。事実、ブラフマー神とヴィシュヌ神とシヴァ神こそが真のグルです。あなたたちはグルにどんな名前を付けることもできます。「グ」「ル」。それはすべて一つです。グルには姿形がありません。グルには属性がありません。姿形がなく、属性のないもの、それがグルです。それが神です。そのようなグルをもちなさい。神が神のグルです。神があなたのグルです。神があなたのゴールです。そのとき、あなたの人生は祝福されます。皆さんはここに来て、三日間を過ごしました。とても長い時間を過ごしました。とてもたくさんのお金を使いました。しかし、あなた方は自分がつぎ込んだものに見合うだけの収穫を得なければなりません。それぞれの国に帰ったら、活動に参加していない人たちにも、あなたたちの体験を分かち合い、彼らを招き入れなさい。ここで得た体験のすべてを彼らと分かち合いなさい。自分さえよければ、という態度であってなりません。これらすべてを分かち合うべきです。そうすれば、あなた自身、幸せになることでしょう。それが真の成果です。大会が行われることになり、皆さんはここにやってきました。あなたたちが行ったことは何でしょう? あなたたちは、その成果を示さなければなりません。自分たちの行いを通じて、それを立証しなければなりません。あらゆる人に手を差し伸べなさい。奉仕を始めなさい。奉仕を通じて、人はそれぞれ自分が受けるに値する成果を得ます。奉仕に勝るものはありません。

愛の化身である皆さん!

奉仕、奉仕、奉仕です。すべては奉仕に基づいています。すべては奉仕から生じます。

苦行によっても
聖地を巡礼しても
聖典を学んでも
唱名を行っても
輪廻の大海を渡ることはできず
奉仕によってのみ
人は自らを救うことができる

サンスクリットの詩

奉仕、奉仕、奉仕です。他の人に奉仕をした結果を期待してはなりません。無私の心でいなさい。何の見返りも期待してはなりません。それが、真のニシカーマ ヨーガです。私はたくさんの村に行き、この村では奉仕をした。その報いが欲しい。などといった悪い考えを抱いているなら、あなた方は何の恩恵も得ることはないでしょう。あなたが奉仕を続けていれば、神は確実に与え続けます。それは神にとっての大きな喜びです。ただ行い続けなさい。そうすれば、神が与えます。非常に多くの国々からたくさんの青年たちがここにやってきました。不自由な目に遭い、それに耐えなければなりませんでした。食べたい物も食べられなかったかも知れません。あなたたちが求めるべきものは食べ物ではなく、よい頭です。そして、神です。食べる物のことだけを考えていてはなりません。もちろん、私たちは生きるために食べます。生きていくために食べなさい。人生を全うするために生きなさい。

愛の化身である皆さん!

皆さんは理想的な人生を送るべきです。皆さんが至福に満ちた人生を、理想的な人生を送ることを望み、私は皆さんを祝福して、この講話を終えることにします。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:英文小冊子「Sri Sathya Sai Second World Youth Conference Valedictory Sandesh Divine Discourses by Bhagwan Sri Sathya Sai Baba 21.22.1999 Prashanthi Nilayam」および講話カセットテープ「Divine Discourse by Bhagwan Sri Sathya Sai Baba on 21 Nov 1999」 と本ビデオに基づいたテルグ語からの英訳の和訳と英語通訳の和訳
出典:「サイの宝 神の使命におけるサイユースの役割」pp.26-60