日付:2000年3月4日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリの御講話①より
愛の化身たちよ! 同じアートマ〔真我〕がすべての人に内在しているという真理を認識した人は、世俗を捨てた修行者であれ、家族生活を営む人であれ、あるいは、行為の道をたどる人であっても、そうでなくても、神との一体感を体験し、神の至福を味わっています。アートマの原理は、ただ単にヴェーダや聖典を学んだり、講話を聞いたりするだけでは理解できません。巨大な樹木が小さな種子から生まれるように、全字宙の起源はアートマの原理の中にあるのです。
愛の化身たちよ! まことに皆さんは、歓喜と幸福の化身なのです。歓喜と幸福は皆さん自身の中にあるというのに、それらを外の世界に探し求めるのは全くの無知と言えるのではないでしょうか? 真の霊的変容は、自分自身の本当の性質を理解することにあります。
私たちの教育機関の現副学長と前副学長たちが(先のスピーチの中で)、真我の5つの鞘(パンチャ・コーシャ)の概念を詳しく説明してほしいと私に懇願しました。純粋なアートマは5つの鞘(さや)に包まれていて、それぞれの鞘と結び付くことによって、アートマはその鞘の特性を得ます。肉体は食物の鞘(アンナマヤ・コーシャ)と呼ばれます。目が覚めている状態の粗大体〔肉体〕と結び付いているアートマは、グニャーネーンドリヤ(知覚器官/グニャーナ・インドリヤ)とカルメーンドリヤ(行動器官/カルマ・インドリヤ)を授けられていることから、「ヴィシュワ」〔全世界/すべて〕と呼ばれます。粗大体はさまざまな外的活動に関わっているので、「ヴィヤヴァハリカ」とも呼ばれます。このように、ヴェーダは粗大体(ストゥーラ・シャリーラ)を構成している肉体の鞘に、さまざまな名前を付けています。
生気の鞘(プラーナマヤ・コーシャ)、心(マナス/マインド)の鞘(マノーマヤ・コーシャ)、英知の鞘(ヴィグニャーナマヤ・コーシャ)は、肉眼では見えない微細体(スークシュマ・シャリーラ)を形成しています。心はこの微細な姿をとってすべてに浸透しています。だから、「マノームーラム イダム ジャガト」(心は全世界の基盤である)と言われているのです。
歓喜の鞘(アーナンダマヤ・コーシャ/至福の鞘)は、原因体(カーラナ・シャリーラ)です。至福を体験するためには、人は5つの鞘すべてを超えていかなければなりません。その段階は、トゥリーヤと呼ばれ、熟睡している状態(スシュプティ)を超えた段階です。それは至高の原因の相(マハーカーラナ・スワルーパ)です。これは究極の霊的原理(パラマールティカ)です。この段階で経験する至福が本当の至福です。この至福は、五感や心や知性では得られません。
この至福を体験するのを邪魔する5種類の障害物(クレーシャ〔煩悩〕)があります。それらは、無知という障害(アヴィッディヤー・クレーシャ)、未熟という障害(アビナヴァ・クレーシャ)、留まることという障害(アスティタ・クレーシャ)、執着という障害(ラーガ・クレーシャ)、憎悪という障害(ドウェーシャ・クレーシャ)です。人間は、この5つのクレーシャのせいで、アートマのビジョンを得ること、アートマの至福を経験することができずにいます。
体に執着しすぎる人は、無知という障害(アヴィッディヤー・クレーシャ)に苦しみます。それはさまざまな欲望や病気を引き起こし、人生を惨めなものにします。未熟という障害(アビナヴァ・クレーシャ)は、自分の心をコントロールできないときに生じます。人は、過度に肉体を重視し、心の気まぐれに流されて、その結果、苦しみに置かれるのです。留まることという障害(アスティタ・クレーシャ)は世俗的な快楽への興味から生じます。執着という障害(ラーガ・クレーシャ)は、富と物品への執着から発生します。憎悪という障害(ドウェーシャ・クレーシャ)は、人の期待がくじかれ、欲望が満たされないときに生じます。
肉体の執着を手放す
帰依者の中には、見返りを期待して神を礼拝する人がいます。彼らは自分の欲望が満たされれば満足し、そうでなければ神をも憎みはじめます。彼らは自分が手に持っている幸運を楽しみません。それどころか、もっともっと、と自分が得るに値しないものを欲します。その結果、彼らはストレスにさらされます。現代では、母と子、夫と妻、兄弟同士の関係さえも、憎悪(ドウェーシャ)によって損なわれています。
歓喜の鞘(アーナンダマヤ・コーシャ/至福の鞘)以外の鞘は、人間を束縛し、障害物(クレーシャ〔煩悩〕)に服従させます。パラマールティカの原理(究極の霊的原理)を理解するには、心(マナス/マインド)を取り除くか、少なくともコントロールして、徐々に体への執着を捨てなければなりません。
体は五大元素でできており、いつかは滅びるもの
しかし、内在者は生まれることも死ぬこともない
内在者には、執着も束縛もない
実を言えば、内在者とは神である
テルグ語の詩
体への執着を手放さないかぎり、内在の神を認識することはできません。肉体への執着は、霊性の道における障害です。巨大な木が小さな種の中に含まれているのと同じように、5つの障害物は最も微細な形で体に深く根付いています。体への執着は、人問の不幸と心配と惨めさと平安の欠如の主な原因です。人は、体を道具と見なして、内在の神を意識して真実の人生を送らなければなりません。
まず、人間は、食物の鞘から生気の鞘へと向かう必要があります。生気の鞘は、体を動かす役割を担っているため、振動と呼ばれています。心の鞘とは何でしょうか? 心(マナス/マインド)はすべてに浸透しています。心はどんな距離でも一瞬で移動することができます。人間には死がありますが、心にはありません。心は生から生〔今生から来生〕へとその人に付いていきます。
英知の鞘とは何でしょう? 英知の鞘は物質世界とは結び付いていません。物質界は、反応・反響・反射と関連しています。例えば、あなたが手でテーブルを叩くとします。その時、テーブルもあなたを叩きます。作用があれば、反作用もあります。これはプラーティバースィカ〔姿形のみが存在するもの〕の原理です。プラーティバースィカに関連するものは、世俗的な現世の知識にすぎません。それは英知とは呼べません。真の英知は、統合意識を理解することにあります。それは、変わることのない永遠の至福へとつながります。これは、粗大体、生気の鞘、心の鞘、微細体、原因体という5つの鞘を超えた後にのみ、経験することができます。それから、あなたはトゥリーヤの段階(至高の原因の段階)に到達するのです。原因の段階を超えたものが至高の原因の段階です。この段階に到達するには、5つの鞘の性質をきわめて明確に理解する必要があります。
宇宙の原初の基盤
全宇宙には原初の基盤が存在します。ここに銀のお皿と銀のコップがあります。これらの基盤は銀です。品物の名前や形は変わっても、銀は同じままです。同様に、名前と姿形は必ず変化しますが、原初の基盤が変わることはありません。
アートマの原理は古来永遠
それは生まれることも死ぬことも、始まりも終わりもない
テルグ語の詩
アートマの原理は、体と心と生命原理にとって、原初の基盤です。
海の水は太陽光線によって水蒸気になります。それから、水蒸気は雲になります。雲は雨という形になって地上に降り、川となって流れ下って、最終的に海に融合します(ナディナム サガロー ガティ)。海から生まれた川が最終的に海と一つになるのと同じように、神から生まれた万物は最終的に神に融合します。このことを、ヴェーダではムクティ(解脱)と呼びます。『バーガヴァタ』にも、生きとし生けるものが源に戻るのは自然の成りゆきであるとあります。個々の魂は神から生じ、必ず神に融合するのです。
アートマの原理は同一
愛の化身たちよ! 霊牲とは、周囲から隔絶した生活を送ることではありません。真の霊性とは、全人類は一つであることを理解し、執着と憎しみを捨てることにあります。アートマの原理はすべての人の中にあり、それらは皆同じものです。
アートマはどのような形をしているのでしょうか? 砂糖には形がありますが、甘さの形を説明することのできる人がいるでしょうか? 甘さは体験することができるだけで、説明することはできません。アートマの原理に関しても同じことが言えます。アートマの原理は、太古より存在し、永遠であり、属性を持たず、無形で、純粋で、汚れなく、不滅です。マイソール・パクや、グラブ・ジャムーン、バルフィなど〔インドのお菓子〕は、名前や形はさまざまかもしれませんが、含まれている砂糖は皆同じです。同様に、名前と形は異なりますが、アートマの原理は同一なのです。
アートマの原理は同一
愛の化身たちよ! 霊牲とは、周囲から隔絶した生活を送ることではありません。真の霊性とは、全人類は一つであることを理解し、執着と憎しみを捨てることにあります。アートマの原理はすべての人の中にあり、それらは皆同じものです。
アートマはどのような形をしているのでしょうか? 砂糖には形がありますが、甘さの形を説明することのできる人がいるでしょうか? 甘さは体験することができるだけで、説明することはできません。アートマの原理に関しても同じことが言えます。アートマの原理は、太古より存在し、永遠であり、属性を持たず、無形で、純粋で、汚れなく、不滅です。マイソール・パクや、グラブ・ジャムーン、バルフィなど〔インドのお菓子〕は、名前や形はさまざまかもしれませんが、含まれている砂糖は皆同じです。同様に、名前と形は異なりますが、アートマの原理は同一なのです。
心の清らかさを得るべし
今日、人々はさまざまな霊性修行をしています。例えば、シュラヴァナム(聞くこと)、キールタナム(歌うこと)、ヴィシュヌスマラナム(唱えること)、パーダセーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(崇敬すること)、アルチャナム(礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(友情を育むこと)、アートマニヴェーダナム(真我への全託)などです。しかし、これらは、外的で一時的な満足しか与えてくれません。どの霊性修行に一番効果があるかといった議論をするのは無駄なことです。眠ってしまえば、無料の宿坊であろうが、宮殿であろうが、どこで眠るかはほとんど問題ではありません。それと同様に、どんな修行をするにせよ、心の清らかさを得ることができればよいのです。ひとたび心がきれいになれば、人生でどんなことでも成し遂げることができます。
心を浄化するには、愛の原理を育てなければなりません。愛の光は決して消すことができません。ひとたび愛の原理を育てれば、あなたはヴィシュワ〔目が覚めている状態〕とタイジャサ〔夢を見ている状態〕とプラグニャー〔常に神と一つになっている状態〕という三つの状態を越えて、究極の至福に到達することができます。個々の魂は、目が覚めている状態では、グニャーネーンドリヤ(知覚器官/グニャーナ・インドリヤ)とカルメーンドリヤ(行動器官/カルマ・インドリヤ)と結び付いているため、ヴィシュワ〔全世界/すべて〕と呼ばれます。夢を見ている状態では、アンタッカラナ(内なる道具)の輝ける原理と結び付いているため、タイジャサ(輝けるもの)と呼ばれます。熟睡している状態では、プラグニャー〔常に神と一つになっている状態〕と呼ばれ、歓喜の鞘と結び付いています。
古代の優れた学者、アマラシンハは、神の原理を説明する多くの詩を詠みました。しかし、彼の神聖な性質を理解できかった一部の人々は、彼に苦難を強いました。彼らはアマラシンハに無神論者のらく印を押しました。アマラシンハは多くの苦しみを与えられ、著書のすべてに火が放たれました。アマラシンハの本が燃やされようとしていたその時、シャンカラが割って入り、『アマラコーシャ』を取り戻しました。『アマラコーシャ』は、もう一つのヴェーダのようなものです。それは、ほれぼれするような感動的な書物です。それほどの神聖な書物を抹消しようとするのは、全く愚かなことです。実際、人々はヴェーダや聖典の教えを理解しようとしません。そのせいで、人々は本当の自分を忘れてしまっているのです。
シヴァラートリに神の名を唱えること
皆さんが今日以外の日に体験する夜は、普通の夜です。一方、シヴァラートリ〔シヴァの夜〕は縁起の良い夜です。どうして縁起が良いのでしょう? あなたが自分の時間を主の栄光を歌うといった縁起の良い方法で費やすから、縁起が良いのです。心(マインド)には16の相があります。月は心を司る神です。今日は月の16の相のうち15が欠けています。もしあなたが一晩中ずっと心を込めて神の栄光を歌うなら、残りの1つの相すらも神に融合させることができます。この日は、神を黙想することによって心を完全にコントロールすることができます。そのような訳で、今夜は縁起の良い夜だと考えられているのです。残念なことに、このカリの時代〔カリユガ〕においては、人々は一晩中映画を見たりトランプをしたりしてシヴァラートリの徹夜を過ごしています。これはシヴァラートリとは呼べません。今宵の一瞬一瞬を、神を想うことに専心し、心から神の御名を唱えるべきです。唱名は内面から生じるべきものです。それは内なる存在の反映と呼ばれます。
神には何千という名前があります。そうしたすべての御名の中で最も重要で意義が深いのは「サッチダーナンダ」〔サット・チット・アーナンダをつなげて発音する御名〕です。「サット」は変わることのない永遠の原理を表し、「チット」は完全な意識〔完全なる気づき/覚醒〕を表しています。「サット」は砂糖に、「チット」は水に例えることができます。砂糖と水を混ぜればシロップ(砂糖水)ができます。同様に、「サット」と「チット」が組み合わさると「アーナンダ」〔至福/歓喜〕が生まれます。あなたのハートを愛で満たし、神の御名を唱えなさい。そうして初めて、あなたは神に到達することができます。あなたのすべての行いに愛を込めなさい。
愛は、源から、すなわちハートから生まれるものであり、強制から生まれるものではありません。今日、人々は神の御名を唱えますが、それはハートからではなく、強制によって唱えています。神の御名を唱えても、心を込めて唱えないかぎり何の恩恵も得られません。心を込めて、30秒でも神の御名を唱えなさい。それで十分です。スプーン一杯の牛乳のほうが、何桶ものロバの乳よりも優れています。神は量にではなく質に関心があります。
ずっと若くいる秘訣
学生諸君! 肉体は道具にすぎず、行為をしている者、楽しんでいる者はアートマであるということを理解しなければなりません。肉体への執着を手放しなさい。皆さんは何のために勉強しているのですか? 皆さんは、お金を稼いで幸せな生活を送りたいと考えています。しかし、皆さんは勉強から幸せを得ていますか? いいえ、得ていません。皆さんは、学業を修了したらもうかる仕事に就きたい、それから昇給したい、というようなことを考えています。欲望には際限がありません。それでどうして幸せになることが期待できるでしょうか? 本当の、永遠の幸せは、物質世界では得られません。それはトゥリーヤの段階でのみ体験することができます。至福は物質世界のものの中には存在しません。
ある日、アーディ・シャンカラ〔初代シャンカラ〕が、13人の弟子を連れてガンジス河に沐浴に出かけました。シャンカラは、一人のブラフミン〔バラモン〕が木の下に座って「ドゥクルンカラネー、ドゥクルンカラネー」〔サンスクリット語の文法〕と繰り返しているのを見かけました。シャンカラは、文法の基礎を繰り返して何が得られるかと尋ねました。そのブラフミンは、立派な学者になって、宮廷に仕え、お金を稼ぐことができると答えました。次にシャンカラは、その富はいつまで彼に幸せを約束してくれるかを尋ねました。ブラフミンは、自分が死ぬまで幸せな生活を過ごすことができると言いました。シャンカラは、死んだ後はどうなるのかと尋ねました。ブラフミンは、自分には分からないと答えました。すると、シャンカラは次のような歌を歌いました。
バジャ ゴーヴィンダム
バジャ ゴーヴィンダム
ゴーヴィンダム バジャ ムーダマテー
サムプラープテー サンニヒテー カーレー
ナヒ ナヒ ラクシャティ ドゥクルン カラネー
ゴーヴィンダを崇めよ
ゴーヴィンダを崇めよ
崇めよ、ゴーヴィンダを、ああ! 愚か者よ
死の時間が近づいた時、
文法の基礎が助けにきてくれることなどない
いつでも、どのような状況の下でも、皆さんを守ってくれるのは、神の御名だけです。この世のものは、すべて通り過ぎていく雲のようなものです。至福と愛のみが永遠です。愛は神です。神は愛です。愛の中で生きなさい。
学生諸君! 青春時代は非常に神聖です。尽きることのない欲望に浸ったり空想にふけったりして青春時代を無駄に費やしてはなりません。神を心の最高位に据えつつ教育を追究しなさい。無用な活動や束縛に巻き込まれてはなりません。それらは不安の原因となるでしょう。今日、人々は平安を探し求めています。しかし、外側の世界で平安(peace)を見つけることはできません。見つかるのは断片(piece)だけです! 平安はあなたの内にあります。あなたは平安の化身です。あなたは真実の化身です。あなたは愛の化身です。ですから、まずあなた自身を知りなさい。そうして初めて、あなたはいつも至福に満ちていることができるのです。今の学生たちはさまざまな学位を取っています。しかし、それが何の役に立つのでしょう?
教養や理性があっても、
愚かな人は本当の自分を知らず、
心の卑しい人は自分のよこしまな性質を手放さない
現代の教育は、議論をもたらすだけで、完全な英知はもたらさない
不滅をもたらすことができないのなら、世俗の教育を得ても何になるだろう?
あなたを不滅にさせてくれる知識を得よ
テルグ語の詩
神だけが永遠
愛の化身たちよ! すべてを愛し、誰も憎んではなりません。これは私たちの古来の文化の教えです。ヴィヤーサ仙は18のプラーナの真髄を短い言葉で述べています。「パローパカーラヤ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム」〔人は他者に奉仕することで徳を積み、他者を傷つけることで罪を犯す〕。ですから、「常に助け、決して傷つけない」、これを実行に移せば、それで十分です。世俗的な教育と共に、霊的な教育も欠かすことができません。「アーディヤートマ ヴィッディヤー ヴィッディヤーナーム」(霊性〔アートマ性〕の教育が真の教育)と言われています。それのみが、二元性と三属性、すなわちサットワ・ラジャス・タマス〔浄性・激性・鈍性〕を越えたブラフマンの知識を授けることができるのです。神のみが永遠です。それ以外はすべて一時のものです。今日、人々は世の中を信じていますが、神を信じてはいません。あなたの若さや体の美しさを得意がってはなりません。
あなたはどうするのですか?
自分がよぼよぼの老人になった時
体が弱くなった時
脚はよろめき、視力は衰え、革製の操り人形も同然になった時
子供たちがあなたを年寄り猿と呼んで笑う時
テルグ語の詩
若さはいつまで続くでしょう? 稲妻が閃光(せんこう)を放った後には一寸先も分からないような暗闇になるように、若さの後には老いがやって来ます。朝咲いた花も、夕方にはしおれてしまいます。人間の身体の性質もそれと同じです。自分の身心をコントロールしなさい。他の人々に依存してはなりません。あなた以外の誰かが食べ物を食べても、あなたの空腹は満たされるでしょうか? そんなことはありません。霊性の道で向上するには、自分自身の努力がどうしても欠かせません。
いつまでも若いままでいたいなら、五感をコントロールすべきです。スワミがその直接の証明です。私の体は活力で満ちています。私にはまったく弱いところはありません。今でも、私は速く走ることができます。誰がスワミは75歳だと思えるでしょう? その秘訣は何でしょう? 純粋さ、忍耐力、根気が、その主な要因です。スワミの感情は常に純粋で安定しています。この点でスワミを見習うようにしてごらんなさい。
幸せは神と一つになることにある
皆さんは、自分はスワミの帰依者であると言っています。それなら、スワミの純粋さの、少なくとも何分の一かを身に付けることが、皆さんの務めではないでしょうか? 皆さんは、誰かから何かの情報を教えてくださいと頼まれたとき、それに正しく答えてあげる程度の忍耐も持ち合わせていません。一方、私は何千人もの人と話をしますが、常に平安を保ち、至福に満ちています。私は多岐にわたる活動に携わっています。私のしている仕事を説明できる人は誰もいません。私はあらゆる部門の仕事をします。すべての部門が私のものです。しかし、私は決して不安になることはありません。私はいつも至福に満ちています。誕生日のお祝いの間、何人かの帰依者は私のハッピー バースデーを祈ります。私は彼らにこう言います。「私のハッピー バースデーを祈る必要はありません。なぜなら、私はいつも幸せだからです。幸せでない人たちに幸せを与えてあげなさい」。幸せは、神と一つになることにあります。
もしあなたが、神はあなたの中に、あなたと共に、あなたの周りにいるという強い確信を持っているなら、決して、人生において困難や不幸に出会うことはないでしょう。人々は不安や不幸について語ります。しかし、私はそれらを知りません。私の純粋さのゆえに、それらは私に近寄りもしません。悪い思考や悪い人格を持っている人だけが、不幸や不安に苦しめられるのです。ですから、
悪は見ず、善を見る
悪は聞かず、善を聞く
悪は思わず、善を思う
悪はなさず、善をなす
それが神に至る道
困難に直面したとき、意気消沈してはいけません。それは自分のためだと考えなさい。
帰依者の固い信念がバガヴァンの恩寵を得る
皆さんは、何分か前にこの壇上でスワミが一人の帰依者に話しかけていたのに気づいたでしょう。彼はナーラーヤナという名前で、チェンナイからやって来ました。先週、彼の心臓に問題が起こりました。彼の息子は私たちの大学の学生で、父親にすぐにプッタパルティに来るようにと電話をかけました。彼はここにやって来て、彼を診察した医師たちは、心臓の4つの弁が詰まっていて手術は難しいと私に言いました。アメリカから来た3人の医師が診察をしたのですが、実のところ、心臓にこれほど深刻な問題があるのにナーラーヤナが生きているということに驚いていました。
ナーラーヤナは医師たちに、自分に痛みはないし、スワミがいつも一緒にいてくれるのでとても幸せだと言いました。しかし、医師たちは満足しませんでした。医師たちは5時間かけて心臓の手術を行いました。4つのバイパス手術が行われました。手術は一昨日行われたのですが、彼は今日、マンディルにやって来ました。通常、バイパス手術の後は少なくとも10日間はベッドに寝ていなければなりません。ところが、ナーラーヤナすでに昨日300歩も歩きました。これは、とてつもないことではありませんか? 今日、彼はズボンとシャツを着てここに来て、まるで大学生のように見えます。私は彼に、これは信仰心によるものですと言いました。彼は最初から、スワミが一緒にいて自分の面倒を見てくれると言い続けていました。彼は、心臓の問題は、それが自分をスワミの住まいに連れてきてくれたという意味で、自分にとって良いことだったと感じています。
私たちの病院は単なる病院ではなく、癒しの寺院であると、ナーラーヤナは言いました。彼の手術は一昨日行われましたが、昨日、医師たちは彼にイドリー〔米粉の蒸パン〕を出し、今日、彼はスワミのダルシャンを受けにマンディルに来ています。他の病院ではありえないことではありませんか? どんな医者に聞いても、「ありえない」と答えるでしょう。それが人間の体というものですが、神はそれさえも変えて明るい未来を授けることができるのです。
神は、地を天に、天を地に変えることもできますが、そのためには、あなたは神を固く信じていなければなりません。今、人は信心という目を失って、盲目になっています。人は神を信じていません。自分のことを知らない人に、どうして神を知ることができるでしょうか?
神への愛を育みなさい
まず、自分のことを知りなさい。そうすれば、容易に神を理解することができます。神を信じなさい。神にできないことは何もありません。良い視力を持っている人は、小さな蛍さえも見ることができます。しかし、盲人は、まぶしく輝く太陽すら見ることができません。同様に、霊的な目を持っていない人は、自分の周囲が真っ暗に見えるのです。全宇宙を見るには霊的な光の閃光一つで十分です。
カリの時代は、カラハ(喧嘩)の時代になっています。至る所に喧嘩や争いがあります。学生たちは、憎しみと不安を根絶する決意をすべきです。このシヴァラートリの聖日に、愛の原理をもっともっと育みなさい。私は皆を愛しています。皆は私を愛しています。しかし、学生たちは時折、スワミは自分たちを怒っているから話しかけてくれないと感じます。私が誰かに怒りを持ったことは一度もありません。しかし、皆さんを正すために、私は時折、怒ったふりをすることがあります。病気になったら薬をもらう必要があります。さらには、食事療法もしなければなりません。そうして初めて、病気は治るのです。同様に、あなたの「病気」を治すために、スワミは独特な方法であなたに「薬」を与えます。あなた方に変化をもたらすために、私は時たま、あなた方に話しかけずに無言でいます。
憎しみ、貪欲、嫉妬心を育ててはいけません。皆さんは、神への憎しみを募らせたヒランニャカシプやラーヴァナ、ドゥルヨーダナがどうなったか知っていますね。パーンダヴァ兄弟は、神への絶大な愛を持っていたので、幸せな人生を送りました。数え切れないほどの困難に見舞われましたが、それでも、神への愛が衰えることはありませんでした。ですから、神への愛を育てなさい。愛を育てれば育てるほど幸せを体験し、あなたはさらに究極の至福へと近づいていくのです。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.33 Ch5