サティヤ サイババの御言葉

日付:2000年5月25日
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習におけるババの御講話(12)より

クシャマは最も偉大で崇高な美徳

愛は神の姿
神はどこにでも愛として存在している
その愛とつながって、
あなたの精神を強めなさい
それはあなたを不二一元の清らかな至福へと導いてくれるから

愛の化身たちよ! 青年男女たちよ!

私心のない真の愛は、犠牲となって現れます。その愛は憎しみを知りません。それは全宇宙を包み込み、遠くにいるように見える人さえ近づけることができます。愛は人を神に変えます。愛はパシュ(獣のような人)をパシュパティ〔獣の主である神〕に変えることができます。現象界で、あなたはこの根源的な愛の多彩な色合いと、その派生物に出くわします。あなたは自分の父親、母親、兄弟、姉妹、友人などを愛しています。そういったケースの愛はどれも、常にどこか利己心の色合いを帯びています。一方、神の愛には、ほんのわずかな利己心の痕跡さえありません。あなたはそれほどの愛に身を委ね、その愛に完全に浸り、それがもたらす至福を経験しなければなりません。

クシャマは命の息吹

その愛を得るためには、クシャマ、すなわち堪忍寛容という特性が不可欠です。
(「クシャマ」は、意味を豊富に持つ言葉〔サンスクリット語〕であり、「堪忍寛容」に加えて、「きわめて忍耐強いこと」や、「許すと同時に忘れるという大きな度量」といった意味がある。このことを踏まえて、「クシャマ」という言葉は、バガヴァンが強調している意味を薄めることのないように、ほとんどの場合、翻訳されずにそのまま用いられる。)

すべての個人はこの崇高な特性を養わなければなりません。クシャマは、本を読んだり、インストラクターから学んだりすることによって得られるものではありません。また、誰かからの贈り物として受け取ることもできません。最高位の美徳であるクシャマは、多様な問題、さまざまな種類の困難、不安、苦しみや悲しみに正面から向き合って、自分で努力を重ねることによってのみ、獲得することができます。クシャマを持っていないと、人はあらゆる類の悪い傾向の影響を受けやすくなります。憎しみと嫉妬心は、クシャマという美徳を欠いた人に簡単に根付きます。

神性は、愛とクシャマが結合したものにほかなりません。クシャマは、一度の鼓動でサティヤ、ダルマ、そして、すべてのヴェーダを包含します。クシャマは、タパス(苦行)の中で最も偉大なタパスです。クシャマは、美徳の中で最も大きく、最も高潔な美徳です。クシャマはすべてを包み込んでいます。

『マハーバーラタ』と『シュリーマド バーガヴァタム』のどちらにも、クシャマを失ったときに降りかかる災難を例示する多くのエピソードが載っています。嫉妬は災難の入口となる最初の悪い性質であり、クシャマはその出口を作ります。『マハーバーラタ』には、滑らかに進んだはずの人生が、いかに嫉妬によって完全に打ち砕かれたかを示す生々しい記述があります。黄金の島ランカーは、まるで天国のようでしたが、ラーヴァナの嫉妬によって廃墟と化しました。クシャマは完全な守護を与えることができ、反対に、クシャマの不在は人を苦悩と災難に陥れることができるのです。

短気は、利己心を生み、嫉妬を促します。これらは一緒になってさまざまな種類の内輪もめや分裂の傾向に拍車をかけます。今、この国が経験している困難は、おおむね、このクシャマという崇高な性質の欠如によるものです。短気は、たいへん偉大な霊性の求道者さえも台無しにしました。また、王を物乞いへと落ちぶれさせました。クシャマの欠如は、ヨーギを病人にすることができます。クシャマがなければ、人類は堕落し、衰退しはじめますが、もしクシャマを持っていれば、飛躍的に進歩することができます。このように、クシャマは命の息吹そのものなのです。

火のないところに煙が立つか?
運転手のいない車が動けるか?
電球がなくても信号機は点滅するか?
同様に、創造主なしに創造世界があり得るか?

すべてのものには土台がなければなりません。霊的な進歩と前進には、クシャマがその本当の土台であり基盤です。クシャマがなくなると、乱れが生じ、衰退していきます。いくつかの大国は、この理由により、栄光や威信や評判を失っています。ですから、もし困難や苦難にうまく立ち向かいたいのであれば、忍耐力は、根気強く培わなければならない重要な美徳です。忍耐力と寛容力がないと、人は霊的に弱くなります。霊的な弱さは、悪い感情、望ましくない考え、不適切な行動へとつながります。忍耐力がなくなると、立派な偉人がまったくの愚か者になってしまいます。

クシャマの重要性は、どんなに強調してもすぎるということはありません。この美徳は不利な状況下で最もよく培われるものであり、したがって、困難は歓迎できないなどと思わずに、喜んで困難を歓迎しなければなりません。パーンダヴァ兄弟の例からも明らかなように、困難は忍耐力を養い、確かなものにするのに役立ちます。権力と権威を持っていた時のパーンダヴァ兄弟はクシャマがやや不足していましたが、ひとたび追放の身となって多くの苦難に直面しなければならなくなってからは、自らの内に自然とクシャマが発達しはじめました。このように、苦難の時は忍耐力と寛容を伸ばすための理想的な機会を与えてくれるのです。実際、痛みとクシャマは共にあります。なぜなら、クシャマは悲しみと惨めさという環境で最も成長するからです。

しかし、精神的な弱さと無知のせいで、人は決まって、痛みを伴う経験や苦悩を避けようとします。弱音を吐いてはいけません。勇気を持って困難を歓迎しなさい。困難を来させなさい、そうすれば、楽しみが増えます。そのような勇気ある態度があってこそ、あなたの中に隠れているクシャマを引き出すことができるのです。試験に合格せずに上の学年に進級できますか? 所定の点数を取って試験に合格した場合にのみ、あなたは次の上の学年に進級する資格があると言い渡されます。試験の準備をしている間は、ストレスや多くの難題に直面しなければなりませんが、進級は何と甘美で快いことでしょう! ですから、あなたにもっと高等なものを受け取る準備をさせるテストとして、困難を歓迎しなさい。

中には、「もし私がスワミが言うようにクシャマを育んで、人生が問題だらけになってしまったら、どうやって生きていけばいいのだろう?」と思う人もいるかもしれません。すべては、生きていくことの意味次第です。クシャマは真の命の息吹です。クシャマは人が得ることのできる最もすばらしい装身具です。あなたが平静を得て、二元性を超えていくのを可能にするのは、クシャマです。二元性を超えることが人生の真の目的であり、これはクシャマなしにはできません。ですから、困難が降りかかってきた時には、幸せに思わなければなりません。なぜなら、それはクシャマが真に花開く時だからです。

いかにして疑念は生じるか

学生諸君! あなた方はしばしば疑念にとらわれます。あなた方は、「自分たちはここにいられて幸せだ。バガヴァンの近くにいて、バガヴァンへの大きな帰依心を持つことができるのだから。でも、ここを離れた瞬間に、帰依心も愛も、両方とも薄れてしまう。なぜだろう?」と不思議に思います。これはクシャマが不足しているために起こります。疑念は忍耐力のない人によく起こります。そのような人には辛抱強さがなく、辛抱のなさは疑念を茂らせる肥沃な土地です。忍耐力のない人は、神について疑うことに溺れます。信心深い帰依者も、時には疑念にとらわれます。なぜでしょう? クシャマが不足しているからです。ですから、自分の忍耐力と寛容力の度合いを絶えず査定することが大切です。「私のクシャマは強くなっているか、それとも、弱くなっているか?」と絶えず自問しなければなりません。そして、「忍耐力はまさに私の命の息吹であり、弱めるわけにはいかない」と言わなければなりません。

クシャマは並のものではありません。クシャマは、サティヤ、ダルマ、アヒムサー、そして、ヴェーダが賞賛するそうしたあらゆる価値が1つになったものです。クシャマは幸せの極みであり、比類なき宝でもあります。クシャマは、人が手に入れることのできる最も価値のある資産であり財産です。人々がクシャマを捨てると、政治は劣化し、批判や非難が自由に交わされ、騒乱さえもあり得ます。これは、堪忍寛容が薄れた時に起こるものです。

クシャマがないと嫉妬が根を張る

クシャマが退出した瞬間に、アスーヤー(妬みそねみ)が侵入してきます。アスーヤーの反対はアナスーヤー〔妬みそねみのないこと〕です。この2つの性質は姉と妹のようなものですが、中身は正反対です。経典には、3人の息子を持つアナスーヤーという名の女性の話があります。3人は普通の息子ではなく、ブラフマーとヴィシュヌとマヘーシュワラ〔シヴァ〕にほかなりませんでした。スワミがすでに述べたように、個人の内に存在するマヘーシュワラは清らかなハートであり、ヴィシュヌは清らかな心(マインド/思考)であり、ブラフマーは清らかな発言です。このように、もしある人の本質がアナスーヤーであれば、その人は清らかなハートと清らかな心を持っているということであり、さらには、その人の発言は清らかで甘美なものとなるでしょう。

アナスーヤーが3人の息子を持っているなら、アスーヤー(妬みそねみ)にも3人の息子がいます。その3人は、憎しみ、誇示、怒りです。なぜこの2人の姉妹にはこれほど大きな違いがあるのでしょうか? それは、一方は勇気があり、もう一方は勇気がないからです。アナスーヤーは勇気があります。その勇気が、あらゆる困難に立ち向かうことを可能にさせるのです。そして、その勇気はクシャマの源泉でもあるのです。人は常に勇気を持っていなければなりません。なぜなら、それがクシャマを得る唯一の方法だからです。

ラーヴァナがどれほど強かったか覚えていますか? ラーヴァナは、とてつもない体力と、世俗に関する知性、そして、それに関連するさまざまな能力を豊富に持っていました。その一切にもかかわらず、クシャマがまったくなかったために、ラーヴァナのハートは妬みと憎しみで汚染されてしまいました。さて、愛は、遠くにいる人さえも近くに引き寄せることのできる並外れた力を持っています。反対に、憎しみは、近くにいる人でさえ追い払ってしまいます。ラーヴァナには愛がありませんでした。ラーヴァナはクシャマを持っていませんでしたが、アスーヤー(妬みそねみ)は豊富にあり、その結果、最終的に非常に重い代償を払うことになりました。

悪いものを見て、汚い言葉に耳を傾け、行動が悪に根ざしている人が、クシャマを持つことは可能でしょうか? いいえ、不可能です! 現代人は、見てはいけないものを見て、聞いてはいけないものを聞き、最も望ましくないことをしています。そのような汚れたハートの中に平安があり得るでしょうか? ラーヴァナのハートはすっかり汚染されていたので、ラーマの偉大な信者ハヌマーンは、ラーヴァナに次のように忠告しました。

おお、ラーヴァナよ、お前に教訓を与えよう!
ランカーは、もはや、お前のものではない、おお、邪悪な者よ!
この機会を無駄にしないよう、注意して聞くがよい
知性を無視し、邪悪な気質の奴隷になることで、
お前は死の魔の手にかかってしまった!

シーターはすべての存在の母である
シーターはお前の母でもある
そのシーターを誘拐することで、お前は恐ろしい罪を犯した
ラーマの1本の矢が、お前の10の頭をすべて、はねるだろう!

おお罪人よ! 私はシーターを監禁しているお前の手下どもを滅ぼした
そして、お前はその報復として、私の尻尾に火をつけた
今、私がその尻尾の火を消す前にランカーを焼き払うのを見ているがよい

ハヌマーンは、「ラーヴァナよ、お前の識別心は嫉妬によって完全に歪められている」と言いました。嫉妬心は人間の最大の敵であり、クシャマがない時に根を張るものです。もしあなたがクシャマの美徳を持っていれば、そうした敵たちはどれも、あなたの近くに来られません。もし現代の学生のハートが汚染されているとすれば、それはクシャマがないからです。クシャマは、自分で努力して、骨を折って養う必要のある特質であり、他人からの贈り物として得ることも、本や先生から得ることもできません。あなたの頑張りと固い決意だけが、あなたがこの美徳を養うのを助けてくれるでしょう。

あなたは自分のゴールを追い求める中で、毅然としてあらゆる困難に立ち向かう準備ができていなければなりません。人生は挑戦です、挑みなさい! 実際、人生は挑戦の連続であり、挑戦は1つや2つだけではありません。正面からそれらに向き合い、障害に抵抗し、しっかりと前に進みなさい。その決意こそが、あなたをゴールに連れていってくれるでしょう。

もしハートがクシャマを欠いているなら、ハートは疑念に負けやすくなります。現代人は、何を疑うべきであり、何を疑ってはいけないのかさえ知りません! 疑念の渦に巻き込まれ、現代人は、時には動物よりもはるかに深い所まで沈んでしまいます。実際、人間より動物のほうが善く見えることさえあります! 動物には節度があり、時季と理由の範囲内で行動します。一方、人間は限度というものを知りません。人間には時季も理由もありません。クシャマがないことがすべての原因です。ですから、クシャマを養うことは重要な優先事項でなければなりません。当然ながら、あなたは道の途中で多くの困難に直面するでしょうが、それらにあなたの行く手を阻ませてはなりません。それらを脇にたたきつけ、ひとたびクシャマを持てば達成できないことなど何もない、という事実から勇気を得て、勇敢に進み続けなさい。

愛の化身たちよ! あなた方はテストや試験で不合格になることもあるかもしれませんが、それで落ち込んではいけません。不合格は単にあなたの努力が足りなかっただけだということに気づきなさい。「私はあまり一所懸命に勉強しなかった。懸命に勉強していれば、間違いなく合格していただろう。すべて自分のせいだ」と自分に言い聞かせなさい。自分の失敗を認め、もう一度挑戦する決心をし、次は合格するのだと決意しなさい。そうする代わりに、言い訳を考えて自分の失敗をごまかそうとしてはいけません。そのような言い訳は何の役にも立ちません。あなたが不合格になったのは、あなたが怠けたせいです。ただそれだけのことです。固い決意があれば、人生で何でも成し遂げることができます。困難がやって来たら、隠れないで、勇敢に、そして正面から立ち向かいなさい。困難は避けられないものであり、個人の問題、金銭の問題、学問の問題、職業の問題、さらには霊的な問題など、あらゆる種類の困難がやって来るでしょう。それらすべてに立ち向かいなさい。

学生諸君は時たま、真剣に瞑想をやり始めますが、しばらくすると真面目さを失います。その結果、最初のうちにどれほど進歩を得ていても、それらは消え失せてしまうのです。それは誰のせいですか? 神を責めることができますか? いいえ、できません! 何であれ、あなたに降りかかってきたことの責任は、あなただけにあるのです。瞑想の障害に立ち向かう代わりに、あなたは短気になり、ひとたび短気になると忍耐力がなくなって、瞑想の有用性と効果に疑問を持ちはじめ、その後、興味が減っていきます。この一切は、忍耐力の欠如にあります。ですから、クシャマはなくてはならないものなのです。クシャマは命そのものであり、命の息吹です。クシャマのない人生は無意味であり、クシャマなしで生きている人は死人も同然です。ですから、何としてでもクシャマを獲得し、保有しなければなりません。

クシャマは若いうちに養うべし

学生諸君! あなた方が今いる人生の段階が最も重要です。今は、あらゆる障害を簡単に乗り越えること、あらゆる困難を乗り切ることのできる時期です。もしあなたが忍耐力を養う今という機会を逃すのであれば、あなたはいつそれをしようと思っているのですか? 年を取ってからですか? 習慣は若い時に形作らなければなりません。年をとってから神を想う習慣を身につけることはできません。

死の遣いが戸口にいる時、
親族が希望を捨ててあなたの最期の旅の準備をしている時、
あなたの旅立ちが間近に迫っていることを妻子が嘆いている時、
その最期の瞬間に神の御名を唱える習慣を身につけることが可能だろうか?

不可能です! そんなことをするのは無理です。善い習慣は、あなた方の今の人生の段階〔学生期(がくしょうき)〕で養わなければなりません。今が、あなた方が忍耐力を蓄えはじめる時、たくさんの忍耐力を積み上げる時です! 今は、クシャマがあなたの人生の主要な武器となる段階です。もしあなたの中に悪い思考が生じたら、抵抗して、こう言いなさい。「こういう思考が湧いてくるのは私にクシャマが欠けているからだ。欠乏をなくそう」と。クシャマを持っている人の中に悪い思考が入り込むことはできません。もしドアがぴしゃりと閉まっていたら、誰か中に入ることができますか? 霊性の道を志す者にとって、クシャマはなくてはならないものです。

いつも神のテストに備えていなさい

人生の中で、絶えずあなたの堪忍寛容の度合いが試されるでしょう。ですから、あなたはとても注意していなければなりません。クラスでは、抜き打ちテストに備えて常に準備をしているはずです。「私は準備をしていませんでした。用意ができていません」などと言い訳することはできません。あなたは当然、準備は常にできていると思われているので、先生はその嘆願を受け付けません。皆さんは、集合写真を撮る前に、カメラマンが何をするかを知っていますね。シャッターを押す直前に、カメラマンは「準備はいいですね」と言います。しかし、神というカメラマンはこの習慣に従いません。神がいつシャッターを切るかを言える人は誰もいません。もしあなたの準備ができていなかったら、写真は良いものにはならないでしょう。

ですから、人生において、あなたは常にテストに備えていなければなりません。その準備ができているようにすることが、真のサーダナ(霊性修行)です。サーダナとは決まったタイムテーブルに従って行われる訓練だ、などと思ってはなりません。時間はあなたに注意を払いません。ですから、時間があなたに義務を負わせることはありません。時間はあなたに従わないので、逆に、あなたが時間に従わなければなりません。

クシャマを得るには決意が必要

ヴェーダは宣言しています。

ウッティシタ ジャーグラタ パラーピャ ヴァーラーンニボーダタ
――起きよ、目覚めよ、ゴールに着くまで止まってはならない!

愚かさに浸かって、あなたはぐっすりと眠っています! アグニャーナ(無知)の眠りから起き上がり、プラグニャーナ(覚醒意識/般若)の領域に入って、スグニャーナ(悟り)を得なさい。これこそが、まさにあなたが行うべきサーダナの種類です。人々はこのことを理解しておらず、自分はサーダナをしているとただ言っているだけです。誰もが試みています。いつも試みています! 試みるとはどういうことですか? 軟弱な努力はサーダナとは呼べません。サーダナという名前に匹敵するには、多大な努力を断固たる決意を持ってしなければなりません。自分はゴールに到達するのだと、固く心に決めなければなりません。

人生において、行動には固い決意が伴っていなければなりません。神も、自らが行うという選択をした物事について、固く決意しています。ギーターの中で、神はこう述べています。

パリットラーナーヤ サードゥーナーム
ヴィナーシャーヤ チャ ドゥシクルターム
ダルマ サムスターパナールターヤ
サムバヴァーミ ユゲー ユゲー

〔ギーター4章8節〕

これが神の最初の決意です。神は、「徳高き者を守護し、悪しき者を滅ぼし、ダルマを再び確立するために、私はユガごとに生まれてくる」と述べています。次に神は言います。

アナンヤーシチンタヤントー マーム
イェー ジャナーハ パリウパーサテー
テーシャーム ニッティヤービユクターナーム
ヨーガクシェーマム ヴァハーミャハム

――ひたすら私を崇める者、他のことを考えることなく私を瞑想する者、
常に〔私に〕定まっている者、私はその者の幸福を完全に担おう

〔ギーター9章22節〕

もし神が自ら決意を固めているのであれば、なぜあなたもそうしないのですか? あなたが人生で到達しようと決意している霊的な目標は何ですか? もしあなたがそのような目標を何も定めていないとしたら、あなたの人生は空虚で無意味なものとなってしまうでしょう。人生には目標がなければならず、人生は(霊的な)障害の克服を伴う勇敢な旅であらねばなりません。人生の旅は、でこぼこ道でいっぱいです。決意と決心がなければ、でこぼこ道は混乱と憂鬱を生じさせます。混乱と憂鬱が手を取り合う時、人生は完全な荒野となってしまうでしょう。

学生諸君! 霊的な努力をしている者は皆、「私はこれをやり遂げる、私はこの美徳を得る」と、決意しなければなりません。これが、愛とクシャマへの道です。もしあなたがこのようにして揺るぎない信心と理想を持って進むなら、何の疑いもなく、あなたの人生は完全に救われるでしょう。あなたのすべての行動と感情は、クシャマと愛とダヤー(思いやり)で満ちたものでなければなりません。愛は憎しみを知らず、まったく欲を持ちません。だから、神は愛の権化であると言われているのです。クシャマは、あなたが神への揺るぎない信心を持っていれば成長します。あなたがひとたび計りしれないほど大きな忍耐力を身につければ、愛はほとんどすぐにあなたの中に入ってきます。クシャマと結びついた愛は、成就へと到る最も確実な道です。ですから、神を礼拝する時には、必ず神を完全に信じなさい。信心がなければ礼拝に何の意味がありますか? 信心だけが、あなたに悩みを乗り越えさせてくれるでしょう。

クシャマは至福に通じる

人生は悩みでいっぱいです。悩みは尽きることなく列をなしてやって来るように見えます。不安の種にならないものは何でしょう?

生まれることは悩みの種、生きていくのも悩みの種
家庭生活は悩みの種、死は悩みの種
子供時代は悩みの種、老後もまたしかり
生活は悩みの種、仕事は悩みの種
痛みは悩みの種になり、喜びも悩みの種になる
年がら年中、悩み、悩み!

あなたはいつも複数の心配事に悩まされています。この世では、困難は必ずやって来ますが、人は悩みを乗り越えることを学ばなければなりません。それはクシャマによってのみ可能です。困難を歓迎し、「ようこそ友よ、君は喜びの担い手だ!」と笑顔で言ってのけなさい。実を言えば、あなたに至福を与えてくれるのは、友人ではなく敵なのです。あなたはそのやり方を知っていますか? 敵はあなたを警戒させて、あなたがクシャマを強めるのを助けるのです。クシャマに満ちている時、人は至福であらずにはいられません。だからこそ、スワミはこれほど、この比類のない美徳を身につけることを強調しているのです。

愛の化身たちよ! 愛といっしょにクシャマも養いなさい。通常これは愛だと公言されているものは、本当の愛ではありません。なぜなら、それは、狭く、限られていて、利己心を帯びている傾向にあるからです。その歪んだ感情を愛と勘違いしてはいけません。その愛と呼ばれているものは、利己心と自分本位に基づいています。その枷(かせ)を掛けられた愛の、さまざまな枷を外し、清め、それから神のほうに向けなさい。ひとたびあなたがこの浄化のプロセスを経れば、クシャマは自ずと成長します。

クシャマの欠如は、世界中のほとんどの問題と、生来の人間性が低下している原因です。美徳や価値観が憂慮される所では、人間はほとんど何も達成することができません。草の葉は、ただ生えていれば格好の牛の餌になりますが、編んで縄にすれば、狂った象でも縛り付けることができます。それが、結束して一体になることの力です。ですから、あなた方は常に団結しているべきです。一体性は忍耐を促し、忍耐力を強めます。スワミがあなた方に求める一体性とはどのようなものでしょうか? 神、そして善い活動と結び付いた事柄の中の一体性です。そうした一体性は清らかさを作り出し、ひとたび清らかさが得られると、神性に近づけるようになります。

クシャマは勇気を育む

学生諸君! 霊的なことにおいては、あなたが手に入れようとしているものが何であれ、それをしっかりと把握しておきなさい。どんな障害や困難があっても、決しておじけづいてはなりません。あなたの歩みは前進あるのみで、決して後戻りしてはなりません。ところが、これは現代の学生の間には見られないものです。ムハッラム祭の時、人々はハセインとフセインという2つの言葉を唱えながら踊り、一歩踏み出しては、一歩下がります。その過程で、人々はいつも同じ所いることになってしまいます! それと同じように、あなた方は、サイラム、サイラム、サイラムと言い続けていますが、霊的には停滞したままです。いつになったら前に進みはじめるのですか? 前に進んで、困難を踏みつけなさい。大いなる高みに到達するには、勇気が必要です。人はどうやって勇気のある人になるのでしょうか? ハートがクシャマで満たされていれば、勇気の精神は自然と育まれるでしょう。

ヴィビーシャナ〔ラーヴァナの弟〕はその典型的な例を示しています。ヴィビーシャナがラーヴァナに逆らってラーマの側に渡る勇気を得たのは、クシャマを通してでした。ヴィビーシャナは、「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と唱えながらラーマの陣営にたどり着きました。遠くにヴィビーシャナがいるのを見ると、ラーマはすぐに、片手を挙げること〔施無畏印/アバヤムドラー〕によって、恩寵と保護を表しました。けれども、ラーマの周りの者たちは、「主よ、あの者はラークシャサ、羅刹〔悪鬼〕です。あの者は敵の弟です。ですから、守護を与えてはなりません」言いました。その間、ヴィビーシャナはラーマに、「私はあなたのものです、私はあなたのものです」と言い続けていました。するとラーマは、「人が私に、私はあなたのものです、と言った瞬間に、その者は何があろうと必ずや私の守護を受けるであろう」と言いました。これがラーマの決意であり、あなたも、あなたの霊的努力の一つひとつにおいて、同じような決意を持たなければなりません。

ランカーでの戦争中のある日、戦場に一人の若者が現れました。ヴィビーシャナはラーマの注意をその戦士に引きつけて、言いました。

「ラーマ、あやつは強大で、力強く、勇敢です。他の者より強いので、あなたは必ずあやつを殺さねばなりません」

それに応えてラーマは矢を放ち、そのラークシャサの戦士を倒しました。その若者は死にました。すると、ヴィビーシャナはその亡骸に近づいて泣き崩れました。ラーマは優しくヴィビーシャナを起こして言いました。

「どうしたというのだ? なぜそなたはこの者のことで泣いているのだ?」

ヴィビーシャナは答えました。

「この者は、ニールドゥという私の一人息子です。私はあなたを駆り立てて、それから、あやつは敵といるのだから殺すようにと促しましたが、今、父親としての感情が私を圧倒しています。私は愛する息子の死を目の当たりにしたことに耐えられません。ですから、どうか私がこの悲劇から立ち直ることができるよう、私に忍耐と寛容の力をお与えください」

ヴィビーシャナの祈りが、いかに無類のものであったかに注目しなさい。ヴィビーシャナはラーマに言いました。

「クシャマは私のサティヤでありダルマです。クシャマは私のラーマでもあります! クシャマは私の神であり、私はいつまでもそれを忘れるわけにはいきません」

このエピソードは、偉大な人々でさえクシャマを手放すと痛みに苦しむ、ということを明らかにしています。反対に、クシャマを持っていれば、達成できることに限界はありません。

クシャマと悪い仲間は共にはいられない

最近では、善良な人々が苦しんでいるというのに、悪事を働いている人たちが(一見)罪を逃れているのを見るのは珍しいことではありません。それはあたかも、誰かが罪を犯し、別の誰かがその罰を受けているかのように見えます。これが今の世界のありようです。ここに例をあげてみましょう。夜、あなたは部屋で寝ていて、蚊に邪魔されていました。そのため、次の日あなたは蚊帳を使いましたが、何の役にも立ちませんでした。なぜならば、数匹の蚊がこっそりと蚊帳の中に入り込んでいたからです。そこで、あなたはそこいら中に殺虫剤をスプレーするという思い切った手段に頼ることにしました。どの蚊が自分を刺したのか特定することはできないので、あなたはそのことは気にせずに、目に入った全部の蚊に殺虫剤をスプレーします。あなたを刺したのは1匹か2匹の蚊だけですが、今や、たくさんの蚊が死んでいきます。

なぜそうなるでしょうか? 交友関係のせいです。たとえあなたが無実でも、悪事を働く人たちと一緒にいれば、あなたは苦しむことになるのです。このことを理解させるために、スワミはよく、「あなたの仲間を教えてくれれば、あなたがどんな人かを教えます」と言っているのです。ひとたび悪い考えが入ってくると、それはたちまち増殖し、すぐにクシャマを追い出してしまいます。一度失われたクシャマは簡単には取り戻せません。ですから、あなたはクシャマという美徳を何としてでも守り、決して失わないようにしなければなりません。なぜなら、クシャマがあれば何でも成し遂げることができるからです。

愛の化身たちよ! 学生諸君! このサマーコース(夏期講習)の間、あなた方は年長者やスワミからこういったアドバイスの数々を受けるでしょう。それらをハートの中に大切にしまっておきなさい。しかし、聞いたアドバイスをただ記録するだけでは十分ではありません。それらを実行に移すために、あらゆる努力をしなければいけません。全部を内に閉じ込めていては何にもなりません。それらの効果は、善い行いを通じて現れなければなりません。

ある村人が、食べ物の包みを頭に乗せて歩いていました。しばらくして、村人はその包みが自分の負担になっていることに気づきました。そこで村人は、川の土手に行って腰を下ろし、包みを開けて中に入っていた食べ物を食べました。数分のうちに重荷は消え、食べた食べ物が村人に新たな活力を与えてくれました。それと同じように、学んだことを実行に移してこそ、あなたは経験と力を得ることができるのです。そして、それが次に成功へと導いてくれます。

愛の化身たちよ! 悪い思考を追い払い、善良で崇高な思考のための場所を作りなさい。神聖な思考を通してクシャマを育みなさい。それはあなたに複数の能力をもたらし、あなたの人生を理想の人生に変えることを可能にします。本を勉強するだけでは、あなたの能力を高めることはできません。本は表面的な机上の知識を与えるだけです。それだけでは明らかに不十分です。本当の能力と強さは、あなたの中に潜む内なる力の栓を開けることによって生じます。外側にあるものはすべて人工的なものです。本当の真理と力は、どちらもあなたの内側のハートの中にあるのです。強くならなければならないのはハートです。しかし、その事実に気づかずに、人は外の世界で猛烈に活動し、結局、そこで迷子になっているのです。

体に必要な食べ物のケータリングには、たくさんの種類がありますが、ハートのための食べ物はどうでしょう? ハートのための食べ物は、あなたの頭を神のほうに向けけた時にだけ得られます。ここであなた方は、「食べ物と頭と神」という霊妙なつながりを理解しなければなりません。このように、世俗的な知識の習得と共に、文化と精錬も重視しなければなりません。先ほど副学長が、バーラタ(インド)文化について話しました。副学長は多くの古来の経典の真髄を簡潔にまとめました。バーラタ文化は時代を超越しており、神聖で、深遠で、内面的な強さに満ち、完全な守護をもたらします。今、私たちは、これほど偉大な文化を手放しつつあります。私たちは、バーラタ文化を無視したり脇に追いやったりするのではなく、養い育てるために、可能な限りのあらゆることをしなければいけません。精錬は、積み重なって文化として現れます。

ここに布があります。(ここでスワミはご自身のハンカチをお見せになりました)。これは糸で織られています。この糸はどこから来たのですか? 綿からです。綿を加工することで、糸が得られます。さらに糸を加工すると、布になります。同じように、このテーブルは木材でできていて、木材は木に由来します。加工して形を整えて、初めて精錬されるのです。農家はお米を育てます。生のお米は食べられますか? いいえ、食べられません。まず精米し、それから炊かないと、食べられません。人生においても精錬は必要です。そして、文化というのは精錬の積み重ねにほかなりません。バーラタ文化はこの点で理想にかなったものであり、どんな時代でも、すべての人が従う価値があります。

ですから、唇に神の御名を、ハートに揺るぎない信心を持ってクシャマを身につけ、それがダヤー、すなわち思いやりとして現れるようにしなさい。

(バガヴァンは「ラーマ ラーマ ラーマ シーター」のバジャンを歌って御講話を締めくくられました。)

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 2000 Ch12