サティヤ サイババの御言葉

日付:2001年2月21日
場所:プラシャーンティ・ニラヤム
マハーシヴァラートリの御講話より

アートマのビジョン

人は、ヴェーダやシャーストラを暗誦することができるかもしれない
また人は、華麗な詩を音楽的に歌うことができるかもしれない
しかし、もし心の純粋さが欠けているならば
その人は滅びを免れることはできない
まことにサイの言葉は真理そのものである

テルグ語の詩

愛の化身である皆さん! もし皆さんの心に純粋さが欠けているとすれば、たとえどのような教育を受けていようとも、アートマ(真我)の原理を理解することはできません。あなたは非常に学歴の高い人であるかもしれませんが、深く眠っているときは、自分の身体を見ることができません。反対に、たとえ文盲の人であっても、目を開ければ自分自身と周囲の様子を見ることができます。おきている炭火を灰が覆うように、人間の視界は迷妄によって曇ります。その結果、人は自らの本性に気付くことができません。人間は、自分自身と神との密接な関係を理解しなければなりません。

ハートを純粋にして霊的知識を身に付け、神を理解することができれば、皆さんは大いなる力を手に入れることができます。サーダナ、すなわち霊性修行とは、ジャパ(マントラや神の御名を繰り返し唱えること)や瞑想のような善い行いに携わることではありません。真の霊性修行とは、アンタッカラナ(内なる指導者)を覆っている迷妄を取り除くことです。「見ても真実を理解しない者は愚者である」と言われています。ああ、人間である皆さん。世界という形で神を見ていながら、まだ神を見たことがないと思うのは、皆さんの愚かさではないでしょうか? おきた炭火から灰を吹き飛ばせば、火が見えます。ミズゴケを取り除いたときに、初めて透明な水が見えるのです。白内障を患っている人の視界は曇りますが、手術を受ければ、もとの視力を取り戻すことができます。それと同じことで、人は、心の影響下にあるかぎり、自分は肉体であると考えて、快楽や苦痛を体験します。いったん人間が心(マインド)、すなわちマーヤー(迷妄)を超越してしまえば、その人にとって、この世の二元性は存在しません。その人はいたるところに神を見ます。

今日、人間は心の働きによって神を知ろうと試みています。神を見るためには、アートマ(真我)の原理、すなわち「私」というものを理解しなければなりません。皆さんが自分の姿形に執着しているかぎり、アートマが何を意味するかを理解することはできません。誰もが、自己紹介をするときは、「私」という言葉を使いますが、その「私」はアートマ以外の何ものでもありません。目には見えませんが、アートマはすべての人に内在しています。このアートマは遍在なのです。

霊的には三種類の次元が存在します。それは、ブーターカーシャ(物質界、ブータ・アーカーシャ、ブータ空間)、チッターカーシャ(微細界、チッタ・アーカーシャ、チッタ空間)、そしてチダーカーシャ(原因界、チド・アーカーシャ、チド空間)です。ブーターカーシャはチッターカーシャに包含されており、チッターカーシャはチダーカーシャに包含されています。地球、太陽、月、星、等々によって構成されているブーターカーシャは非常に広大です。太陽は地球よりもはるかに大きくて、直径が86万マイル(約140万キロメートル)もあります。ところが、それは地球から9千万マイル(約1億5千万キロメートル)の距離にあるために、私たちの目には小さく見えます。空の星は、天を飾る小さなダイヤモンドのように見えますが、太陽よりもずっと遠いところにあって、太陽よりもはるかに大きいのです。光は、毎秒18万マイル(約30万キロメートル)の速度で進みます。星の中には、あまりにも遠くにあるために、そこから出た光がいまだに地球に届いていないものさえあります。すべての星、太陽、月、地球は、ブーターカーシャの一部分です。これらのものはすべて、チッタ(心素)の中に、微妙な形で存在しています。ですから、チッターカーシャはブーターカーシャよりもはるかに大きいのです。

皆さんは、太陽が自ら光を発していると感じていますが、実際は、アートマが太陽を輝かせているのです。ですから、すべての中で最も偉大なものはアートマなのです。その広大さを言葉で説明することはできません。五つの元素は、どれも原子によってできていますが、アートマは原子によってできているわけではありません。というのも、アートマには形がないからです。アートマのビジョンとはどういうことでしょう? それは、すべてに浸透している光輝を想い描くことです。アートマは、人体の一つ一つの細胞すべてに内在しています。これをするためには、皆さんは形を超越しなければなりません。物質界に存在するすべての「もの」には決まった形がありますが、やがては、それらは独自性を失って、原因界の次元、すなわちアートマに融合します。ですから、人間は形を超越し、アートマに融合する努力をすべきです。形に関係しているすべての活動は、外側の世界(プラヴリッティ)、すなわち原子によって構成されている物質界に対応しています。これらのものはすべて最終的にはアートマに融合してしまいます。アートマとは何でしょう? 至福こそがアートマなのです。

昔は、多くの賢者たちが、アートマの本質を知るために懸命に努力をしていました。最後に彼らは「私は太陽のごとくまぶしく輝き、タマス(無知の暗闇)を超えた至高の存在を知っている」と、世界に向けて宣言しました。ああ、人間である皆さん、アートマは名前と形を超越しています。それは自ら光り輝いています。皆さんは、アートマのビジョンを得るために、森に入って苦行する必要はありません。内面から暗闇を取り去りさえすれば、いたるところにそれを見ることができるのです。結局、このような方向で行われる努力こそが、本当の霊性修行になるのです。神は人間の中に潜在していますが、皆さんはそれに様々な名前や姿を与えて、礼拝や儀式を通じてそれを心の目で見ようとしています。その結果、皆さんは欲求不満に陥り、意気消沈しています。まず第一に、皆さんブーターカーシャ(物質界)に潜む神を認識する努力をしなければなりません。しかし、人間性を理解することができなければ、どうして神を理解することができるでしょうか? 人間は何よりもまず、人間性とは何かということを理解しなければなりません。

ブーターカーシャとチッターカーシャを超越して初めて、チダーカーシャを理解することができます。ブーターカーシャは、チッターカーシャの空に輝く小さな星のようなものです。チッターカーシャとチダーカーシャを比べると、それと同じことが言えます。チダーカーシャは、アートマ以外の何物でもありません。これを超えては何一つ存在しません。無形のアートマを理解するためには、形を超越する必要があります。最初のうち、皆さんは特定の姿(をとった神)を瞑想しますが、段々とその姿を超越して、姿のない神を認識するようにしなければなりません。姿形に執着しているかぎり、必ず快楽と苦痛を経験することになります。

無形のアートマは、人が名前と形の意識を失う、熟睡(スシュプティ)の状態の中で経験されます。熟睡状態においては、物質界に関連する感情は存在しません。心が物質界にいるかぎり、あなたは自分を何らかの姿と同一視します。現代人は、高度の教育を受けているにもかかわらず、物質界と微細界と原因界の原理を理解することができません。現代人はそれは難解な哲学的真理であると考えて、この種の探究そのものを避けています。それは単なる哲学ではありません。それは、人間が理解し、日常生活の中で実践すべき、永遠の真理です。

物質界には、多くの生き物がいます。しかし、その根底には同じ一つのアートマの原理が存在しています。人間は、子どものときから老人になるまで、自分のことを語るのに、「私」という言葉を使います。人間は、様々な人生の段階を経ていきますが、本人の中の「私」は変わることなく残ります。その、決して変わることのない「私」こそが、アートマなのです。自分の内にそのような神聖な原理が存在していることを知らずに、人間は世俗的なはかない快楽を追いかけています。これはプラヴリッティ(外側の世界)に対応しています。しかし、アートマはニヴリッティ(内側の世界)に関係しています。人間は外に向かうことに心を奪われているので、自分の本性を知ることができないのです。

皆さんが外の世界に見るものすべては、神の顕現にほかなりません。ここに集まったすべての人が、神の化身なのです。このホールさえも神の顕れにほかなりません。事実、皆さん自身が神なので。皆さんは、いたるところに神を見ているにもかかわらず、神を探しています。ここに小さな例があります。寮に住んでいる学生たちは、毎日サイ・ギーター(スワミが飼っておられる象の名前)を見ているので、そのことで感激はしません。ところがもし、森の中で尻尾だけでも見たとすれば、彼らは感激するでしょう。それと同じで、皆さんは、自分たちの周囲にいる人間という姿をとった神を見ているのに、感激しないのです。ところがもし、頭が三つある人物を見たら、皆さんは、神聖は神の普遍的な姿を見たのだと考えて興奮することでしょう。皆さんは、神が自然界全体に浸透していることを理解しなければなりません。クリシュナ神は、ギーターの中で、「万物に内在するアートマは、私の一部である」と宣言しました。皆さんと私は別々の存在ではありません。私たちは同じ一つの存在です。いったん皆さんがこの真理を理解すれば、あちこちと神を探して歩き回ることはなくなります。

皆さんが外の世界に見るものはすべて、神の宇宙普遍相(ヴィシュワ・ヴィラート・スワルーパ)にほかならないのです。すべての姿形が神のものです。形は外に向かう道(ブラヴリッティ・マールガ)に関連しています。それは迷妄の根本原因です。マーヤーとは何でしょう? 誤った実体へと導くものがマーヤーです。皆さんは、暗闇で縄を蛇に見間違えて、おびえます。ところが、そこに懐中電灯の光を当てると、それが縄であって蛇ではなかったことに気付きます。あなたが恐怖を感じたのは、実体を取り違えたことが原因です。いったん実体が分かれば、恐れが取り除かれます。世俗的な事物による影響のために、皆さんは自分の本性を忘れています。いったん皆さんが自分の本性を知り、厳しくそれを守れば、迷妄や恐怖の付け込む余地はなくなります。すべてのものがあなた自身であり、あなた以外には何ものも存在しないのであれば、どこに恐れという問題が存在するでしょう?

昔、一人の役者がある王様の宮廷を訪れて、演技を披露しました。その日、役者はシャンカラに扮装してやって来ました。そして、シャンカラの哲学を学問的に説明しました。役者は次のように説教しました。

ジャンマ ドゥカム、ジャラー ドゥカム、ジャーヤー ドゥカム プナハ プナハ、
アンタヤ カーレー マハー ドゥカム、タスマト ジャーグラタ ジャーグラタ

(生まれることも、年老いることも、世間での生活も、みな悲しみに満ちている。
死もまた悲しいものである。それゆえ、用心せよ、用心せよ)

マータ ナースティ、ピター ナースティ、ナースティ バンドゥ サホーダラ、
アルタム ナースティ、グリハム ナースティ、タスマト ジャーグラタ ジャーグラタ

(母も父、友人も、親戚も、家も財産も、みな過ぎ行く雲のようなものである。
それゆえ、用心せよ、用心せよ。)

王様はたいそう喜んで、たくさんの金塊を差し出しました。すると役者は、「ああ、王様、遊行僧は黄金を必要としません。私はこのような贈り物を受け取ることができません」と言いました。

その翌日、役者はダンスの踊り手として宮廷に現れました。彼はみごとに踊って、その場にいたすべての人を喜ばせました。踊りが終わったとき、王様は、コイン数枚だけのわずかな贈り物をしました。役者は「ああ、王様、この報酬はわずかなものであり、十分ではありません」と言いました。王様は驚いて尋ねました。「おまえは昨日、十分に価値のある贈り物を受け取らなかったのに、今日はもっと欲しいと要求している。なぜこのような奇妙な振る舞いをするのだ?」役者は答えました。「王様、役者の言葉が身に着けている衣装と食い違っておれば、その者は職業に忠実ではないと言えましょう。昨日、私は遊行僧の役柄を演じました。ですから私は富をはねつけたのです。今日の私は踊り手です。そして、踊り手はいつでも十分な報酬を期待するものです! 私の振る舞いは、私の衣装と一致していなければなりません」

今日、人は人間の姿を身にまとっているにもかかわらず、その振る舞いは、「衣装」と一致していません。人間として生まれたからには、人は、自信を持って人生を送り、自尊の念を保たなければなりません。皆さんは、アブラハム・リンカーンが、貧しい家庭に生まれたにもかかわらず、自信を持っていたために、アメリカの大統領にまで出世したことを知っています。彼は貧しい家に生まれました。学友たちは、彼の身なりや貧しさをからかいました。リンカーンは、このような侮辱に耐え切れず、母親の所に行って「お母さん、僕は友達からとってもばかにされるんだ。お願いだから新しい洋服を買ってよ」と言いました。すると母親は彼に言って聞かせました。「息子や、私たちは裕福じゃないのですよ。おまえは、うちの家の状態に見合った行動をしなければいけませんよ。よその人たちにからかわれてひるんではだめですよ。自信を育てなさい。そして、自分を尊重しなさい」 そのときから、リンカーンは母親の助言を固く守りました。しばらくすると、その母親が亡くなりました。そして、彼の父親は再婚しました。その継母も彼を大変可愛がり、彼が亡き母親に示された道を根気強く守るように励ましました。父親が死んだとき、当時16歳であったリンカーンは、自分の生計を立てるために家を離れて、新聞配達を始めました。そこでも彼は、自尊の念をもち続けました。彼の立派な性質を見た友人たちは、彼に選挙に出るように勧めました。彼は選挙に立候補し、大差で勝ちました。そしてついには、アメリカの大統領に選ばれました。彼は、貧しい家庭に生まれたにもかかわらず、自信と自尊の念のおかげで、出世してあれほど高い地位に就いたのです。

学生諸君! 自分自身を尊重しなさい! まず第一に、アートマの意味を理解しなさい。すべての人の中にある「私」という原理こそがアートマです。ヴェーダは、「アハム ブランマースミ」(私はブラフマンである)と宣言しています。しかし、私の見解では、この言葉さえも完全な真理ではありません。なぜなら、「私」と「ブラフマン」という二つ言葉は二元性を象徴しているからです。真理は一つであって、二つではありません。人間は、不二一元論の原理をしっかりと把握して、人生を神聖なものにしなければなりません。いったん皆さんがこの原理を信じるようになりさえすれば、あらゆる純粋さと繁栄がもたらされます。

今日は、非常に縁起の良いシヴァラートリの日です。シヴァ神は吉祥を象徴します。シヴァラートリの何がいったいそれほど特別で縁起が良いのでしょうか? 心(マインド)には16の側面があります。そのうち15の側面は、神に融合して、今夜は、ただ一つの側面だけが残っています。信愛と安定したゆるぎない心を持って霊性修行を行うことによって、この神聖な夜を正しく活用しなさい。皆さんは、どんな種類の霊性修行を行うべきでしょうか? 心(マインド)を浄めて、いっさいのよこしまな性質を取り除きなさい。皆さんの内面によこしまな性質が生じるのは、感覚の使い方を誤っているからです。それは、すべての罪の根本原因です。霊性修行とは、ジャパや瞑想をすることではありません。皆さんは、清らかで神聖な感情を内面に培わなければなりません。すべての人を神と見なしなさい。すべての人を敬いなさい。「すべての人が私のものであり、私はすべての人のものである」 いったんこのような固い信念を持ちさえすれば、皆さんは、人生において大いなる幸せを味わうことができます。あなたの人生には心配のかけらもなくなってしまいます。心配や不安は、あなたの浅い感情や無知から湧き起こります。シャンカラが述べたように、無知は、終わることのない生死の輪廻へとその人を追いやります。

プラナピ ジャナナム プラナピ マラナム
プラナピ ジャナニー ジャタレー シャヤナム
イハ サムサーレー バフドゥスターレー
クルパヤー パーレー パーヒ ムラーレー

(おお、神様! 私はこの生死の輪廻から逃れることができません
私は何度も繰り返し母親の子宮の中に滞在する苦悩を味わっています
この世俗的な生活の大海を渡ることは非常に困難です
どうか私を導いて、この海を渡らせて、解脱をお与えください)

生死は終わりのないサイクルです。この終わりなき苦しい試練から人を解放してくれるのは、神の恩寵だけです。

あるとき、シャンカラは、14人の弟子を連れてガンジス川に向かう途中で、「ドゥクルン カラネー」というサンスクリットの語句を暗記しようとしているブラフミンに出会いました。シャンカラは、彼に何をしているのか尋ねました。するとブラフミンは、(偉大な文法家である)「パーニニの文法書を勉強しているのです」と答えました。「このように文法を勉強して何になるのか?」と、シャンカラは尋ねました。ブラフミンは、「私は偉大な学者になって、どこかの王宮に行き、宮廷公認の学者になって、必要なだけの富を獲得します。そうして手に入れた富で、幸せな人生を送ります」と答えました。「そのようにして、おまえはどのくらい生きるのか?」とシャンカラが問うと、「生きているかぎり生きます」とブラフミンは答えました。「その後はどうなる?」とシャンカラは尋ねました。ブラフミンは、「私には分かりません」と答えました。その時、シャンカラは、あの有名な宣言を行ったのです。

バジャ ゴーヴィンダム、バジャ ゴーヴィンダム、
ゴーヴィンダム バジャ ムーダマテー
サムプラープテー サンニヒテー カーレー ナヒ ナヒ ラクシャテイ ドゥクルン カラネー

(ゴーヴィンダを崇めよ、ゴーヴィンダを崇めよ、
ゴーヴィンダの御名を唱えるがよい、おお、愚か者よ、
死が近づいた時、細かな文法の規則がおまえを救ってくれることはない)

シャンカラは言いました。「愚か者よ、生きているかぎりは、おまえはこの世の様々な快楽を味わうだろうが、肉体が滅びた後はいったいどうするのか? だから、絶えずゴーヴィンダの御名を唱え続けて、このような世俗的な勉強をして時間を無駄に費やさないようにしなさい。これらの勉強は、すべて外の世界に関連している。それは、ごくわずかな時間しか役に立たない。おまえは、自分の若さを誇りに思っている。しかしその若さはいつまで続くというのか? すぐにおまえは老人になってしまう。若さゆえの力を信じるのではなく、神を固く信じるのだ」

自信を持ちなさい。自分を信じることは自分が満足することへとつながり、自分が満足することは自分を犠牲にすることへとつながり、それは次に、自分を悟ることへとつながります。

学生諸君! 「私」は永遠に変わらない実体です。このアートマを神そのものと見なしなさい。十分な基盤がなければ、そこからは何も生まれません。海の波の基盤は、海の水です。同様に、現象界の基盤はアートマなのです。起きてくるあらゆる善と悪、賞賛と非難は、すべて単なる過ぎ行く雲でしかありません。赤ん坊、少年、若者、老人は、いずれも姿形における違いですが、その人の内にあるアートマこそが、決して変わることのない実体です。列車で旅をして、窓から外を見ると、木々や、山々や湖が飛んで行くように見えます。これは幻影です。またときには、空を見上げると、月がどんどん動いているように見えることがありますが、実際は雲が動いているのです、これもまた幻影です。それは、月が、雲の動きと同じ速さで動いていないからです。同じように、アートマは変化したり動いたりしません。変化するのは我々の感情だけです。

愛の化身である皆さん! 今日は非常に尊い聖なる日です。午後6時という時間は、とても神聖な時間です。その時間帯に、アートマ・リンガムが現れます。神はヒランニャガルバと呼ばれることがあります。黄金のリンガムはヒランニャガルバそのものから生まれてきます。スワミだけがヒランニャガルバであると結論づけてはいけません。皆さん方全員がヒランニャガルバの顕現された姿なのです。皆さん自身もまた永遠であり、自ら光を放つ存在です。この真理をしっかりとハートに保ちなさい。この意識(アウェアネス、気づき)をしっかりと保っていなさい。

私たちの大学には「アウェアネス・クラス」というものがあります。これやあれやについての断片的な情報を知ることは、完全なアウェアネスではありません。アウェアネスとは、完全なる理解のことです。ネズミの尻尾だけを見て、どうしてネズミそのものを見たと言えるでしょうか? 今日、科学者たちが知っていることは、真理全体のごく一部にすぎません。しかし彼らは、自分たちが何もかも知っているのだと思っています。

何よりもまず、皆さんは、人間とは何かを理解しなければなりません。皆さんは、自分の姿の通りに、人間の性質を備えていなければなりません。もし、あなたが猿のような振る舞いをするのであれば、あばたの一生はいったい何の役に立つでしょう? 自分が人類の一員であることを理解しなさい。猿のような心(モンキー・マインド)であってはいけません。心が慈悲に満ちている人のみが、真の人間です。今日、人々は慈悲の必要性を説きますが、その心は、怒り、貪欲、妬み等の、魔物の性質に満ちています。

人間は欲望に上限を設けなければなりません。人間の行動が本末転倒しているために、今日、自然災害が起きているのです。皆さんはグジャラート州で地震によって起きた災害をご存知でしょう。何万人もの人々が命を落としました。このようなことが起きる原因は、人間が過度の欲望を心に抱いていることにあります。神は、自らが創造した世界の中に、完全なバランスを保っています。神が創った宇宙の中で、大地と海にはバランスが備わっています。しかし、人間は地球の天然資源を無分別に搾取して、石油を採掘しています。毎日何千トンもの魚介類が海で捕獲されています。このような自然界の無差別搾取が、地球のバランスを失わせ、それが人間の生活に大惨事を引き起こしています。人間が心の中の不安定さ(カムパム)から解放さたとき、初めて人は地震(ブーカムパム)に悩まされることがなくなるのです。

バーラタ(インド)の人々だけでなく、全世界の人々が、バランスを保つように努力しなければなりません。五元素(地・水・火・風・空)は、神の顕現にほかなりません。人間の命は、この真理に気付いて、それに従って行動をするようになって初めて、安全なものとなるのです。何日か前のことですが、私はグジャラート地震の被災者たちのために、トラック何台分もの米や豆などを送りました。中には、「スワミ、どうしてそんなに多額のお金をかけて、グジャラート地方に救援物資をお送りになるような手間を取られるのですか? 最初から地震をお止めになればよかったではありませんか?」と尋ねた人々がいました。私は答えました。「人間は、地震が起きたことに関して自らを反省しなければなりません。過度に富を追い求めるあまり、人間は地球のバランスを崩しています。だからこそ地震が起きたのです。それが自然のおきてです」と。皆さんは、困っている人々を助けるという形で人間への愛を表現しなければなりません。愛は皆さんの本性です。

自然にとってバランスを保つことが大変重要であるのと同じく、人間にとっても愛を非常に必要とされています。神が創造したものは、すべて皆さんの幸福のためにあることを知りなさい。皆さんは、自分たちの必要に応じて自然を楽しむべきです。自分の貪欲さを満足させるために、自然界から天然資源を略奪してはなりません。一つの例があります。あるとき、欲張りな男が、毎日一個ずつ金の卵を産むガチョウを飼っていました。ある日彼は、一度にたくさんの金の卵を手に入れることができるだろうと考えて、ガチョウのお腹を切り裂いてしまいました。今日、人間もまた、そのような愚かで貪欲な行動に携わっています。自然界が人間に与えているものに満足する代わりに、人間は、よりいっそうのものを追い求め、その過程で自然界のバランスを崩しているのです。

今日、科学者たちは新しい発明に興味を持っています。科学技術の進歩もまた、自然界のバランスを崩しています。その結果、地震が起こり、必要なときに雨が降らないという事態が起きています。科学は、必要な範囲内だけで活用すべきです。科学には限界があり、その枠を超えると危険です。皆さんは、まだまだ長い道のりを進まなければなりません。真実と正しい行い守りなさい。私たちの国の太古の聖賢たちは、

サッティヤム ブルーヤート、プリヤム ブルーヤート、
ナ ブルーヤート サッティヤム アプリヤム

(真実を語りなさい、快い言葉を語りなさい、不快な真実を語ってはなりません)

と言いました。天然資源は正しく活用し、誤った使い方をしてはなりません。

学生諸君! 皆さんには長い人生があります。あなたが得たこの機会を正しく使いなさい。すべての人を助け、幸せにしなさい。皆さんが他の人から学んだすべての善いことを、他の人々に分かち合いなさい。これは皆さんにとっての最大の義務です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会