日付:2004年1月12日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サンクラーンティ前夜祭の御講話より
太陽はうららかに優しく輝き
短くなった陽光が涼風にゆらゆらと漂う
畑には黄金色の作物が実り
川堤にはマリーゴールドの花が真珠の花輪のように咲き乱れ
農夫らは歓び歌う
熟した唐辛子が明るい紅色の衣で畑を彩る
楽しいサンクラーンティの祭がやって来て
新しく収穫された雑穀と活気でわれらの家を満たす
テルグ語の詩
豊かさと喜びの到来を告げる祭
目前に迫ったサンクラーンティは、あらゆる祭日の中で最も重要な祭です。サンクラーンティは、農夫たちが収穫した農作物を家に持ち帰り、貧しい人々に食べさせて、喜び祝う日です。この日、ヴェーダを唱える学僧たちは、神聖なブラフマ ムフールタ〔午前三時から六時くらいまで〕の時間に起床してヴェーダのマントラを唱え、あらゆる人のハートを清めます。この祭は家長たちにとっても、特別な意味があります。家長は新婚の花婿を自宅に招いて新しい服を贈り、家族全員が喜びに満ちあふれます。これに関するテルグ語の民謡があります。
サンクラーンティは祭の中の祭
おお、新婚の花婿よ、妻の実家を訪ねなさい
出かけて行って義理の兄弟姉妹と楽しく陽気に過ごしなさい
一家全員、そして近隣の人々も、
愛情込めて、礼を尽くしてあなたをもてなすことでしょう
サンクラーンティは、去勢された雄牛たちを念入りに飾りつけて、村のさまざまな家に連れていく行事でもあります。去勢牛たちは、畑で重労働をしたことへの感謝を込めて礼拝され、豪華なごちそうを振る舞われます。たとえ牛でも家族の一員として宴を張って祝い、一組の雄牛と牝牛にラーマとシーターと名づけて象徴的な結婚式が執り行われます。また、その牛たちを街路へ連れ出して、皆を喜ばせるために踊りを踊らせます。このようにして、サンクラーンティの祭日は、農夫、家長、僧侶、そして、子供たちに、大きな喜びと吉兆を授けてくれます。人間だけでなく、鳥や動物たちでさえ、神聖なサンクラーンティの祭日の到来を喜びます。夕暮れに鳥たちが楽しそうに鳥の言葉で声高にさえずり、楽しげなハミングで空を満たしながら巣へ飛んで帰る光景は、見るに素晴らしいものです。また、仔牛に乳を飲ませるために牝牛が草を食んでいた野原から急いで駆け戻り、仔牛たちが声高にモーモーと鳴きながら母牛たちに甘える光景も、同様に見るに喜ばしいものです。サンクラーンティの祭日は、すべての人にとって非常に楽しく、親しみを感じさせてくれる祭です。涼しい風、楽しげな鳥の歌声、そして、甘いサトウキビの収穫は、サンクラーンティの到来を告げる先触れです。人々はお菓子や甘い乳粥を配ってこの祭日を祝います。この祭日は、あらゆる失望と落胆を払い落として、私たちのハートを希望と熱意で満たしてくれます。人々は朝早く起きて沐浴をして身を清め、ガナパティやスッブラフマンニャやイーシュワラ神など、自分の選んだ神を礼拝します。シヴァ神の神聖な御姿は次のように描写されています。
カイラーサ山の神が 神聖な御姿を顕わした
頭に三日月を飾り、もつれた巻き毛からはガンジスの冷水がほとばしる
眉間の中央には 燦然と輝く第三の眼
青紫色の首は 黒イチゴのごとく艶やかで
両腕には蛇の腕輪、腰に大蛇のベルトを巻きつけて
全身は 神聖灰ヴィブーティに覆われている
クムクムの赤い点が額を飾り、血色のよい唇はキンマの実の汁でさらに輝き
耳元にはダイヤをちりばめた金の耳輪が揺れる
その浅黒い全身は まばゆいばかりに神の光輝を放っている
テルグ語の詩
しかしながら、昨今の人々はサンクラーンティを本来の精神で祝っていません。今の祝賀は、ただ儀式を執り行うことに限定されています。純粋さと神聖さが欠けています。人々は、憎しみや妬みや不和のせいで、サンクラーンティの至福を楽しむことができずにいます。
5歳の子供たちは、サンクラーンティという吉兆な機会に、神聖なヴェーダのマントラの朗唱を学ぶ課程の手ほどきを受けます。私たちの国の太古の聖者たちはこう述べました。
ヴェーダーハメータム プルシャム マハーンタムー
アーディッティヤヴァルナム タマサッ パラスタート
十億の太陽ほどの光を放ち、
無知の暗闇である鈍性〔タマス〕を超越したお方を、
私は心の目で見た
ヴェーダは至高の存在を多種多様に讃美しています。リグヴェーダには、神を讃美するマントラ、万人を惹きつける神の至福に満ちた姿を讃美するマントラがあります。
人々は自分の去勢牛を、ラームドゥ、ビームドゥといった名前で呼びます。同様に、牝牛たちもシーターやガウリー、ラクシュミーといった名前で呼ばれます。このことの内的意義は、動物にも人間同様の配慮と世話がなされていることです。人々は牝牛と去勢牛をサリーとドーティで飾りつけて、外を行進させます。
昨今では、自らの本来の性質に従って暮らしているのは鳥や動物だけです。鳥や動物が幸福を楽しむことができているのはそのためです。一方、人間は人間本来の性質を忘れて、動物のように振る舞っています。その結果、人間は不幸な人生を送っています。鳥や動物は、一つになって調和の中で暮らしているという点において、人間よりも優れています。一方、人間は現代の教育のせいで野獣のレベルに堕落しています。人間は誠実さと高潔さという美徳を失ってしまいました。鳥や動物には理由と時季がありますが、人間には理由も時季もありません。どの家庭においても、どの人の努力においても、お金が最優先されています。人々は、お金のためなら、どんなレベルにでも身を落とすつもりです。動物はひとたび飢えが満たされれば満足しますが、人間は満足という感覚を持ち合わせていません。手に入れれば入れるほど、人間はますます貪欲になっていきます。
犬は病気になると食べ物を摂らなくなります。ペットの犬を飼っている人は、それを目にした経験があるかもしれません。たとえ犬の口に無理やり牛乳を注ぎ込んでも、犬は飲むのを拒否します。犬はお腹を空にしておきたがります。しかし、人は病気になったときの食事制限に注意を払いません。人は、ちょっと体温が上がっただけで完全な休息を取りたがります。そして、頭のてっぺんからつま先まで布団をかぶってベッドに横たわりますが、自分の胃を休ませることはせず、たとえ高熱が出ても適切な食事制限をしません。そして、マイソールパク〔豆粉とギーで作る菓子〕、ブルフィ〔菱形で表面に銀を貼った菓子〕、グラブ ジャムーン〔揚げボールのシロップ浸け〕などのお菓子を食べたがりますが、それは病気を悪化させるだけです。人間が動物のように振る舞い、動物が人間のように振る舞っているのです!
誰かが無作法な振る舞いをしたら、年長者は「なぜ君は動物のような振る舞いをするのかね?」と言って叱責しますが、現代の教育の影響で、人は道徳と高潔さを失い、動物より悪くなっています。人はBA〔文学士〕やMA〔文学修士〕といった高学歴を得ていますが、それが何の役に立っているでしょう? 人はそれらの学歴に「D」(DirtyのD、汚れた性質)という文字を付け足して、BAD〔悪人〕やMAD〔狂人〕になっています。この種の倒錯した振る舞いは、人間にふさわしいものではありません。人間は、善い思考、善い性質、善い人格を養うべきです。それとは反対に、人間はお金を稼ぐために誤った道をたどっています。お金は来ては去っていきますが、道徳は来ると育っていきます。しかし、人間はお金のために市場で道徳を売っています。
新しい生活を始める決意をしなさい
愛の化身である皆さん!
せめて、このサンクラーンティの日から、善い性質を養う努力をしなさい。自分の振る舞いを善いものに変えなさい。バーラタ〔インド〕人の祭日は、神聖な教えを伝えて人の振る舞いを変えるために意図されています。祭日は、ただ食べて飲んで浮かれ騒ぐためにあるのではありません。第一に、個人レベルでの変容がなければなりません。家族には和があるべきです。人々は、昔は大家族で住んでいました。若い夫婦は、親、義理の兄弟姉妹、家族の他の年長者たちと、仲良く一緒に暮らしていました。若夫婦にどんな意見の食い違いが生じても、家族の年長者たちが正しい導きを与えて、若夫婦をなだめていました。嫁は義理の親の助言に絶対に従いました。その結果、家庭で争いが起こる可能性など決してありませんでした。一方、現代の風潮では、嫁は義理の親の家に同居することを望みません。嫁は家族が分かれることを望みます。そうした分割的な考え方のせいで、家庭での争いが増加しています。その結果として、カリ ユガ〔末世〕はカラハ ユガ(闘争の時代)とカルマシャ ユガ(汚染の時代)になりました。
昔の人はつねに気持ちのよい礼儀作法で話していました。「お元気ですか? どうぞ一緒に食事を召し上がってください」といった好ましい気持ちを交わし、心から来客を歓迎したものでした。接待する主人の温かさと優しい気持ちが、食べ物以上に来客の空腹を満たしていました。ところが、近ごろの人は祭日でさえ来客を歓待することを好みません。家に客が来たのを見ると、人々は次のように言って出迎えます。「どうぞお入りください。昼食はもうお済みだとよいのですが。どうぞお座りください」。人は、あまりにも心が狭くなり、来客にほんの一口の食べ物さえ出したがりません。このような嘆かわしい現状の中で、どうして子供たちが理想的な国民になることを期待できるでしょう? 親の影響で、子供まで心が狭くなっています。
親たちは、子供が現代の教育を身に付けて、お金をたくさん稼ぐことを望んでいます。費用のかかる有名校で子供に教育を受けさせるには、母親まで職に就かざるをえません。子供は乳母(アヤ)の世話に委ねられています。その結果、子供は母親の愛情を経験できません。子供たちは乳母が死ぬと涙を流しますが、母親が死んでも泣きません。子供は母親の愛情深い世話を受けて育つべきです。子供は母親の説く神聖な教えを聞くべきです。そうでなければ、どうして人生で成功できるでしょう? 現代の教育には、人間の人生を購うことはできません。
ある者は、文学士や文学修士のような高学歴を手に入れて
高い地位に就き、名声と世評を得るかもしれない
ある者は、あらゆる富を蓄え、慈善活動を行い、
功徳を積んで、良い評判を得るかもしれない
ある者は、体力に恵まれて、健康で長生きを楽しむかもしれない
ある者は、ヴェーダを教えたり苦行や瞑想といった霊性修行を行う
ヴィプラ(ブラフミン)であるかもしれない
しかし、これらの誰一人として主の帰依者に匹敵する者はいない
テルグ語の詩
教育は変わらなければならない
現代の教育はどうなっていますか? ただ不安をもたらしているだけです。人々はただ学位を取得するだけで、自分の心を広げていません。真の教育はハートの変容をもたらすものです。愛の広がりがあるべきです。しかし、現行の教育制度は心の狭さを引き起こしています。人々は高学歴を鼻にかけて非常に自己中心的になっています。人々は、まさにインド文化の神髄である道徳と高潔さを手放してしまいました。正直という徳が身に付いていなかったら、どうして至福に到達できるでしょう? 道徳なき教育がどうやってあなたの人生を購うことができるでしょう?
現代では、学生たちは学業を終えるとすぐに、アメリカや日本やドイツといった国に行ってしまいます。わが子と時を過ごそうと、両親がはるばる遠くから出かけていっても、「食事はレストランでしてください」と言われる始末です。現代の教育を身につけた人は、自分の手で親に食事を出すような幸運を持ち合わせていません。現代の教育を身につけた人は、愛と配慮をもって自分を育ててくれた親に感謝を示しません。これは最悪の罪です。皆さんは親の面倒をよく見るべきです。親が年老いたら、愛と配慮をもって両親の必要を満たし、親を守るべきです。今では、親が年をとると、子供は財産分与を要求します。子供の関心事は親の財産(プロパティー)のことであり、正しい心(プロパー マインド)を育むことには無関心です。子供たちは財産争いに決着をつけるためなら最高裁判所(スプリーム コート)に行くことさえ躊躇しません。そんなことをする代わりに、美徳を培うことで最高の段階(スプリーム ステイト)に到達するよう努力奮闘すべきです。教育を身につければつけるほど徳の高い人間になるべきです。
親愛なる学生諸君!
つい今しがた、私がアメリカ人の少年を呼んだのを見ましたね。この少年は本校で勉強しています。それと同時にヴェーダも学んでいます。ヴェーダのどの部分を尋ねても、彼はそのマントラをきれいに唱えることができるでしょう。実に、そのような子供を持つ親は幸運です。もっぱら、そのような親のおかげで、子供は善い性質を育てることができるのです。この少年の両親はアメリカに住んでいますが、子供が善い性質と善い振る舞いを学ぶことができるようにと、地元から遠く離れた本校に息子が入学することを許可したのです。実際、アメリカには、彼らが息子を教育するのに有用なあらゆる設備があります。けれども、両親は息子をアメリカで教育したいとは思いませんでした。両親は、この国を、そして、子供たちがここで吸収する高潔な性質を愛しています。ここでは、子供たちは愛と結びついた教育を学んでいます。子供たちは尊敬と崇拝の念で親の前にひれ伏します。こうした高潔な性質がその両親に感銘を与え、それゆえ彼らは本校で教育を受けさせるために息子を連れてきたのです。
小さな例をあげましょう。文学的才能で名高い、あるヒンドゥー教徒のパンディト〔学者、学僧〕がいました。彼の二人の息子たちはイラーハーバードで勉強していましたが、学者とその妻は小さな町に住んでいました。ある日、学者と妻は汽車である町を訪問しなければならなくなり、ちょうどイラーハーバードを通ることになりました。学者は息子たちに、その日に駅まで会いに来るよう手紙を書きました。
汽車がその駅で停車すると、両親は客車のドアの前に立ちました。両親は息子たちが急いで駆けてくるのを見ました。長男は言葉を交わす前に両親の御足に触れましたが、次男はそのような敬意と崇拝は示しませんでした。両親は息子たちに健康と勉強について尋ねました。長男は言いました。
「僕たちはここで元気にやっています。どうかご自身の健康にお気をつけください。お父さんとお母さんが幸せでいることが僕たちの幸せです」
一方、次男は両親の健康については何も尋ねませんでした。次男はもっとお金がほしいとせがみました。間もなく汽車が出ようという時、兄は再び腰をかがめて両親の御足に触れましたが、弟はただ手を振っただけでした。汽車がホームを離れていく時、両親は窓越しに息子たちを見ていました。長男は最後まで合掌〔ナマスカール〕していましたが、次男は手をポケットに突っ込んだまま、冷淡な態度で、どこか他のほうを見ていました。
母親は次男の振る舞いを見て心配になりました。母親は親を気遣うことのない次男の振る舞いのことで夫を責めました。母親は言いました。
「あなたは教育のためにあの子を私たちから引き離しました。誰もきちんとしつけてくれる人がいないので、あの子はまるで動物のように振る舞っています」
父親は母親をなだめて言いました。
「何しろあの子はまだ幼い。時が経つにつれて、あの子も学び、成長するだろう」
しかし、母親は妥協できずに言いました。
「あの子はすでに学位を取る過程に入っています。もし今、学ばなければ、いったいいつ学ぶのですか?」
感情を抑えきれず、母親は涙しました。
母親のその言葉は真実だったことが証明されました。時を経て、長男は、美徳と勤勉と善い振る舞いにより、社会で高い地位を手に入れました。長男はマナーのよさと礼儀正しさで多大な尊敬を受けました。長男は両親の前にひれ伏して言いました。
「僕が人生で成功したのは、お父さんとお母さんの祝福のおかげです」
両親は喜びの涙を流し、長男をおおいに祝福しました。
「息子よ、おまえが人生で高い地位を手に入れたのは、おまえに徳があるからですよ」
次男はどうなったでしょうか? 次男は試験の結果が上手く行かず、最終的に事務職に甘んじました。長男は誰からもお辞儀をされましたが、次男は誰にもお辞儀をしなければなりませんでした。自分の親を尊敬しない者が、どうして他の人々の尊敬を受けることができるでしょうか?
ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ
感情の通りの結果が生じる
私たちの将来は、私たちの現在の振る舞いしだいです。今日の西洋諸国では、人々はお互いに敬意を示し、敬意を受け取ります。しかし、この美点はわが国で廃れつつあります。もしあなたが自分の親を敬わないなら、犬でさえあなたを見たいとは思わないでしょう。ですから、あなたがどこへ行こうとも、決して親を敬うことを忘れてはなりません。私たちの国のヴェーダも次のように唱道しています。
マートゥル デーヴォー バヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
アーチャールヤ デーヴォー バヴァ
アティティ デーヴォー バヴァ
母親を神として敬いなさい、
父親を神として敬いなさい、
師を神として敬いなさい、
客人を神として敬いなさい
このようにして、ヴェーダは唱道によって高潔な性質を促しました。誰であれ、親を敬い、親の言いつけを守る人は、人生において必ず高い地位に就きます。実際、サンクラーンティの祭日は、私たちにそうした高潔な性質を育てるよう唱道しています。「クラーンティ」は「変わること」を意味します。ですから、サンクラーンティは私たちの生活に変容をもたらすものでなければなりません。しかし、私たちはこれに対してどう反応しているでしょうか? 私たちは生活の中で変容を遂げることができているでしょうか? いいえ、できていません。私たちの教育の目的は、悪い性質を取り除き、善い性質と善い振る舞いを育むことです。インドの祭日はそのために制定されているのです。しかし、誰一人として、こうした祭日の内的意味をはっきりと理解している者はいません。
第一にあなたの両親を敬いなさい
愛の化身たちよ! 学生諸君!
あなたの親は、あなたを養い、あなたに教育を受けさせ、あなたを育てるために一生懸命に努力しています。たとえ自分たちがひもじい思いをしても、何とかしてあなたに食べさせ、あなたが快適に暮らせるよう面倒を見てきました。両親はいつも、あなたが良い気分でいられるよう、良い状態を保てるようにと、懸命に努めてきました。両親はあなたに良い食べ物を与え、良い衣服を与え、良い教育を与えてくれました。もし、そのような両親を敬わないなら、どうしてあなたが社会から尊敬を受けることができるでしょうか?
皆さんはエイブラハム リンカーンについて知っていますね。子供時代、リンカーンは裕福な家庭の少年たちと一緒に学校へ通っていました。その少年たちは高価な服や装飾品を身に付けていました。しかし、リンカーンは母親が繕った擦り切れた服を着て学校へ行かなければなりませんでした。ある日、友人たちはリンカーンのみすぼらしい服をからかいしました。リンカーンは自分を抑えることができませんでした。リンカーンは泣きながら、まっすぐ母親の元へ帰って言いました。
「お母さん! 僕はもう学校には行かない。クラスメートが僕をからかうんだ。まともな服も着られない貧乏人だと言って、僕を馬鹿にするんだ」
すると、母親はリンカーンを優しく抱きしめて、次のように言って慰めました。
「私の愛しい坊や! そんな小さなことで悲しむ必要はありません。こうしたことはすべて、おまえの将来の人生に役立つことになるでしょう。おまえはこの家の状態を頭に入れておかなければいけません。他人の言うことを気にしてはなりません。自分を信じ、自分を敬って生きなさい。すべての人を敬い、すべての人から敬われなさい」
その日から、リンカーンは母親の助言を実践し、すべての人を尊敬しはじめました。次第に、エイブラハム リンカーンは、善い振る舞いによって、すべての人から尊敬を勝ち得るようになりました。リンカーンは独力で非常に善い評判を手に入れました。しばらくして、アメリカで選挙が行われました。リンカーンは友人や支持者たちから選挙に出馬するよう説得されました。最終的に、リンカーンは友人や支持者たちの願いに屈しました。リンカーンはその選挙で圧勝し、やがて、アメリカ合衆国の大統領に選出されました。リンカーンがそれほどの高い地位を手に入れたのは、母親の助言に絶対的に従い、すべての人を敬ったからです。実際、リンカーンはあまりお金を持っていませんでしたが、美徳という富を持っていました。リンカーンは他人の繁栄を見て幸福に思いました。リンカーンは自分が持っているもので満足し、お金や物質的な所有物を渇望しませんでした。そのような高潔な性格ゆえに、リンカーンはアメリカの大統領にまで上りつめたのです。任期中、リンカーンはアメリカでのアフリカ系黒人の奴隷制度を廃止し、それに関して、黒人たちの非人道的な苦しみに終止符を打つ大統領令を宣告しました。
自らを敬うことこそが、人間を守り、人間に高い地位をもたらします。あなたは経済的には貧しいかもしれませんが、もし自分を敬う気持ちを保つなら、すべての人から敬われるでしょう。貧しい人を見下してはなりません。彼らを敬い、愛を込めて遇しなさい。それが真の人間性です。リンカーンの母親は、そのような高潔な性質を息子の中に吹き込みました。だからこそ、リンカーンは母親を神と見なして尊敬したのです。誰であれ、あなたの中に神聖な性質を吹き込む人は、あなたの神です。神はどこか他の場所で捜されるものではありません。あなたが自分を敬う気持ちを深めるとき、神はあなたの目の前に現れるでしょう。
親愛なる学生諸君!
あなたの親がどんな人でも、どんな状況にあろうとも、親を敬わななければいけません。無条件に親の言葉を尊重し、言いつけを守らなければいけません。そうしてこそ、あなたは社会の尊敬を勝ち取ることができるのです。往年の偉人は皆、親に従い、親を敬い、世に模範を示しました。皆さんはバーラタの太古の慣習と伝統の内的意味を知っていますか? たとえば、太古の人々は、大きな家を建ててもドアは小さくしました。なぜだかわかりますか? 小さなドアは泥棒が簡単に家に出入りするのを防ぐためだろうと、私たちは考えます。いいえ、そのような理由からではありません。そうしたドアは、訪問者が家人に敬意を示して頭を下げて家の中に入る慣習を守れるように、意図的に低くしたものなのです。このように、バーラタのあらゆる慣習と伝統は、人々の間に互いへの尊敬と親善を促進するよう意図されています。それは大きな配慮と叡智によって定められました。ところが、今はバーラタ人でさえ、こうした高潔な伝統を忘れています。昨今では、家の玄関の「ガダパ」〔美しい彩色と模様を施した敷居〕さえ見当たらないでしょう。人々は、ガダパは家に入るために不必要な障害物であると考えています。いいえ、ガダパはまったく障害物などではありません! バーラタの太古の伝統と慣習は、人々の間に謙遜と敬意と敬愛を促進することを意図しています。
謙虚さをあなたのバッジにしなさい
学生諸君!
皆さんはこうした偉大な伝統を守り、人々の尊敬を集めなければなりません。皆さんは自分の振る舞いによって両親に喜びをもたらさなければなりません。親は子供が自分たちの言いつけを守っていることを幸せに思わなければなりません。皆さんはそうした善い評判を得ればそれで十分です。神の恩寵は、礼拝といったような単なる儀式を執り行うことによって得られるものではありません。あなたがどれほどの資格を有していても、それはただエゴを助長するだけであり、親や年長者への敬意や謙虚さを助長することはありません。ですから、皆さんは、謙虚さ、敬意、敬愛の念を養わなければなりません。そうして初めて、皆さんは国家の善良な国民となるでしょう。偉大になる必要はありません。善良な国民になれば、それで十分です。知名度と世間の評判は今日上がったとしても明日には失われるかもしれません。しかし、手に入れた善い評判は永遠に存続することでしょう。ですから、善い評判を獲得しなさい。神のグレイス、「恩寵」を得なければなりません。しかし、これに反して、人々は世俗的な願望というグラス、「草」を求めています。草は牛たちに食まれるものです。皆さんは草を好むようになって牛になるべきではありません。皆さんは神の恩寵を得るよう懸命に努力して、善い人間にならなければいけません。
親愛なる学生諸君!
今はサンクラーンティの聖なる祝祭の期間です。この機会に、他者に敬意を示して敬意を得るという性質を育てなくてはなりません。ここで皆さんに小さな例をあげましょう。
(スワミはシュリ サティヤ サイ中高等学校の一人のアメリカ人の生徒を呼んで、おっしゃいました。)
「この少年は勉学においてだけではなく、ヴェーダの学習においても最優秀の成績を修めています。彼は善い振る舞いによって両親に多大な喜びを与えています。彼の父親は、息子が善い評判を得て、皆に高く評価されていることを非常に嬉しく思っています」
(スワミはその父親を演壇に呼んで祝福を注がれました。)
この少年の母親は、私たちの小学校で働いており、至福の内に時間を過ごしています。この少年の両親は、息子の模範的な振る舞いのおかげで、皆から愛と尊敬を獲得しました。このようにして、あなた方全員が両親に善い評判をもたらすよう努力奮闘しなければなりません。そうして初めて、あなたの両親はあなたを息子に持ったことの真の喜びを味わうでしょう。あなた方は、たくさんのお金を稼いで大きな家を建てるかもしれませんが、それによってあなたに善い評判がもたらされることはありえません。家は一時のものです。ひとたびあなたが善い評判を得たら、それは永遠にあなたと共にあるでしょう。あなたが学んだ学校に善い評判をもたらしなさい。あなたの高潔な性質を見て、人々があなたをサティヤ サイの学生であるとわかるようでなければいけません。
皆さんは、私たちが本校の学生から一パイサたりとも学費を取っていないことを知っていますね。さらに私は、貧しい学生、それに値する学生には、書籍や他の便宜を図るものも提供しています。学生たちはスワミに大きな愛を抱いており、スワミも学生たちに愛と恩寵を降り注いでいます。両親から離れてここに来ている間でさえ、学生たちは涙を流すことがありません。しかし、私がブリンダーヴァンに行き、プッタパルティに戻ると、ブリンダーヴァンの学生たちは私との別離に耐え切れずに涙を流します。彼らはどうやってそのような熱烈な愛を手に入れたのでしょうか? それはスワミの愛が原因です。私が皆に広めているのは愛だけです。私の財産は大邸宅や宮殿のような建物から成るものではありません。私の最大の財産は愛です。私は愛を与え、そのお返しにあなたの愛を受け取ります。私はたびたび学生たちに言っています。
「あなたの愛を私にください。そうすれば、私はあなたの欲しいものを何でも与えましょう」
だからこそ、学生たちは私への熱烈な愛を持っているのです。もっともっと愛を深めなさい。両親を愛しなさい。両親の言いつけを守りなさい。そうすれば、あなたの人生は必ずや聖化されるでしょう。
つねに神を思っていなさい。あなたがどこにいようとも、森の中でも、空の上でも、村でも、町でも、丘の上でも、深い海の真ん中でも、あなたを救うことができるのは愛だけです。愛はつねにあなたと共に、あなたの中に、あなたの周りに、あなたの上に、あなたの下にあります。私はとても幸せです(チャーラ サントーシャム)。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.37 C2