サティヤ サイババの御言葉

日付:2004年4月11日
場所:バンガロール、ブリンダーヴァン
ケーララ州ユースのサーダナキャンプにおける御講話より

どんな状況の下でも真実を支持しなさい

あらゆる原子の中で燦然(さんぜん)と輝き、
全宇宙に遍満する神は、
常にあなたを守るだろう
彼は、あなたにバクティ(信愛)を授け、
あなたの為す一切の努力を必ず助ける、
パルティの全能の主
ここに集まった高潔な人々に、
他に何を伝えることができるだろう?

テルグ語の詩

愛の化身たちよ!

神は誰の援助も手助けも必要としません。神は自発的にすべてのものの面倒を見て、あらゆるものに恩寵を降り注ぎます。

人間性は神性がなければ存在できない

帰依者たちよ!

神は特定の場所にしかいない、自分は神を探さなければならない、と考えてはなりません。いつどこにでもいる神を探すのは無知のしるしです。何よりもまず、神とは誰であるかを、探求し、理解すべきです。神は自然界(プラクリティ)のあらゆる粒子と原子の中に遍満する者です。自然は神の直々の現れです。神に達成できないことは何もありません。神はいつでも、すべてのことを見ています。自然の中にある神の神聖な力を認識せずに、神は自分の祈りに応えて助けに来てくれないと考えることは誤りです。信愛と神の恩寵は、相互関係にあり、持ちつ持たれつの関係です。人間が神の神聖な力を理解できないのはマーヤー(幻影/迷妄)のせいです。

神が何をしようとも、それは世界の安寧のためです。神の行為には一つとして目的のないものはありません。人間は神の行為の内なる意味を理解できないために当惑するのです。地球は時速千マイル〔一六〇九キロ〕の速さで自転して、昼と夜をもたらしています。太陽の昇沈と月の満ち欠けは、地上のあらゆる活動を促進しています。それだけではありません。地球は太陽の周りを時速六万六千マイル〔十万六一九四キロ〕の速度で公転し、さまざまな季節を生じさせています。季節は人間にいろいろと利益を与えてくれます。雲の形成と降雨は、人間が食べ物を育てる助けになります。このようにして、地球はあらゆる生き物に食べ物と滋養を供給しているのです。この点に関して、人間あるいは政府はそれほど大きな仕事を成し遂げることができるでしょうか? いいえ、できません。

こういった、かくも大規模な恵み深い神の行為の数々を認識することもなく、人間は迷妄と疑いの中で人生を浪費しています。深く探求するならば、神の力が常に働いていることを、あなたは知るでしょう。すべての細胞(カナ)、すべての瞬間(クシャナ)、すべてのユガ(時代)は、神の意志によって支配されています。神はどこにでもいて、自然の姿をとります。この真実を悟ることができずに、人々は神の存在に関する疑いを募らせています。あらゆるものは、神によって支えられ、維持されています。神性(ダイヴァットワム)がなければ人間性(マーナヴァットワム)はあり得ません。この真実を理解すれば、あなたの人生は聖化されることでしょう。

すべての行為を神に捧げよ

神は一瞬も無駄にはしません。神はいつでも万人の幸福〔安寧〕のための行為に従事しています。神は、いつどんな時でも、万人の唯一の避難所です。アンダ(地上の空間)、ピンダ(天空)、ブラフマアンダ(宇宙空間)に遍満する神に、不可能なことはありません。私たちの生涯の一瞬一瞬は神の意志次第です。私たちの命を支える呼吸の一息一息は神が司(つかさど)っています。神の意志がなければ、呼吸一つすることもできません。人々はかくも遍在で全知全能である神を認識できずに、神の存在をめぐってくだらない論争をして、時間を無駄にしています。全能の神への信心に欠けているために、人々はほんのわずかな喜びさえ体験していません。

あるとき、アルジュナがクリシュナ神に尋ねました。

「スワミ! あなたが常に行為に従事している理由は何ですか?」

クリシュナは答えました。

「アルジュナよ! 私は人々が見習うための理想を行動で示すために、行為(カルマ)をしているのだ。私が行為をすれば、人々は私の手本に従う。私が行為をしなければ、全世界は停滞してしまうだろう。行為の価値はどんな言葉でも言い表せない。」

ナ メー パルタスティ カルタヴィャム
トリシュ ローケーシュ キンチャナ
ナナヴァパタマヴァプタヴィヤム
ヴァルタ エーヴァ チャ カルマニ

(おお、パルタ〔アルジュナ〕よ!
この三界のどこにも、
私が行う必要のある行為などない
また、私がまだ達成していないもので
達成する価値あるものはない
それでもなお、私は絶え間なく行為に従事する)

私は自分のために行為をしているわけでも、何かを手に入れるために行為をしているわけでもありません。行為をすることによって達成する必要のあることなど、私には何もありません。私がすることは何であれ、世界の幸福のためです。あなた方は、このことを理解して、私の手本に倣うべきです。神はただ訓示を垂れることによってだけでなく、実践によってあらゆることを教えています。正しい探求を通してのみ、あなた方はこの真実を理解することができます。誠実さと揺るぎない信心を持って探求すべきです。信心がなければ、どれほど長く努力しても何一つ理解することはできません。

私のステップの一つひとつには明確な目的があります。私の行為の一つひとつは、特定のダルマの一面を反映しています。私のサンカルパ(神の意志)なしには、何一つ世界で起こり得ません。しかし、あなた方は私のサンカルパとダルマを理解することができずにいます。神は、自分のためではなく、あらゆる生き物のために肉体をまとったのです。神が実在であり、世界はその反映です。反映は実在に従うのが当然のことです。神が何をしようとも、それはあなた方の幸福のためです。それと同じように、あなた方のすることは何であれ、神を喜ばせるものであるべきです。

道徳は神の恩寵を勝ち得る

あなた方は、自分のすべての行為は神に喜んでもらえるよう意図している、と公の場で宣言するかもしれません。しかし、だからといって、神は本当に喜んでいるとは限りません。神は、あなたが罪への恐れ(パーパ ビーッティ)、神への愛(ダイヴァ プリーッティ)、社会の道徳(サンガ ニーッティ)を育てた時に、初めて喜ぶでしょう。道徳に欠けていれば、あなたは真の意味で人間と呼ばれることはできません。道徳は人間の証(あかし)です。道徳(ニーッティ)を守る者が本当の人類(マーナヴァ ジャーティ)です。第一に、あなたは神への愛を育てなければなりません。神への愛は罪への恐れをもたらし、それが次に社会の道徳を育てるのです。ですから、神への愛は人生という館の基礎を置く土台です。

人間性は、社会に道徳があって初めて進歩することができます。ところが、現代人は道徳という言葉の意味をはっきりと理解していません。鳥や獣たちでさえ自分たちに定められた行動規範を守っているのに、人間は道徳の規律に従っていません。道徳を守りさえすれば、神は必ずその人に恩寵を授けます。道徳は無理強いするものではありません。道徳は人間にとって自然な性質です。ですから、何よりもまず道徳を養いなさい。そうして初めて、あなたの中で神性が開花するでしょう。人が道徳を守る時、全世界は繁栄するでしょう。そうして初めて、人は幸せな人生を送ることができるのです。あなたがどこにいようとも、あなたが何をしようとも、道徳をあなたの人生の土台であると見なしなさい。実に、道徳的であることがあなたの真の評価です。道徳を備えていれば、あなたは神の恩寵を手に入れることができるのです。

神の本名は真実(サティヤ)

真の礼拝とは何でしょうか? それはただ神に花を捧げ、何らかの儀式を執り行うことではありません。神の命令に絶対的に従い、日常生活の中で厳格に道徳を守るべきです。それこそが神への真の礼拝と呼ばれ得るものです。今、人々は、自分たちが神に祈り、神の栄光を歌っていると考えています。しかし、神がそれらを必要としているわけではありません。あなた方は、神のためではなく、自分のために神に祈っているだけです。あなた方はただ自分の満足のために、ジャパ〔神の御名やマントラを繰り返し唱えること〕や、苦行(タパ)や、ヨーガ等々の霊性修行に着手します。実は、神を礼拝するのにこれらを行う必要はないのです。自分の義務をきちんと果たせば、それで十分です。そうすれば、神は必ずあなたに神の愛と恩寵を降り注ぐでしょう。もし、あなたが自分の義務を忠実に果たしていないなら、どうして神の愛の受け手になることを期待できるでしょう?

神は常にあなたの幸福を思っています。神はどこにいるのでしょう?神はどこにでもいます。どこであれ私たちのいるところに神はいます。

サルヴァタッ パーニパーダム
タット サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッシルティマローケー
サルヴァマ ヴルッティヤ ティシタティ
(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、
神は全宇宙に遍満している)

神は特定の場所にしかいないと考えるのは、まったくの無知です。ムクンダン(先の演説者)が述べたように、真実(サティヤ)は神であり、神は真実(サティヤ)です。したがって、私たちは真実(サティヤ)を守らなければなりません。

サッティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ
(真実を語り、ダルマを為せ)

真実(サティヤ)とダルマは、全世界を支える二本の大黒柱です。もし真実(サティヤ)とダルマを守るなら、どこへ行こうとも、逆に真実(サティヤ)とダルマが私たちを守ってくれるでしょう。真実(サティヤ)はあらゆる幸福の源です。もしあなたが真実(サティヤ)を守っていないなら、どうして幸福を手に入れることを期待できるでしょう? 真実(サティヤ)は人生の基盤をなす行動規範です。ところが、現代人の思いと言葉と行動は、嘘と不正で汚れています。現代人が人生で幸福を享受できていないのは、それが理由です。バーラタ〔インド〕文化はこう教えています。

サッティヤム ブルーヤート
プリヤム ブルーヤート
ナ ブルーヤート サッティヤム アプリヤム

(真実を語るべし、
快いことを語るべし、
真実でも不快なことは語るべからず)

マヌ法典四章一三八節より

神は真実(サティヤ)とダルマを守る者を守護します。この世には真実(サティヤ)以上のものは存在しません。真実(サティヤ)は全宇宙に遍満しています。ところが、人々はそれほどのすべてに遍満する真実(サティヤ)の原理を無視しています。人々は真実(サティヤ)を隠し、嘘偽りにふけっています。その結果、世界には不正が増大しています。

愛の化身たちよ!

真実(サティヤ)はあなたの命です。真実(サティヤ)以外に神はありません。真実(サティヤ)のみが常にあなたを守ることができます。太古の昔より、バーラタの文化は真実(サティヤ)とダルマに従う必要性を強調してきました。私はケーララ州の帰依者たちが、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を養うことにより、理想的な方法で人生を送っていることがわかって満足しています。もし神への愛を持っていれば、人生でどんなことでも成就できます。ひとたび人生で真実(サティヤ)とダルマを実践するなら、あなたの人生のすべての瞬間は幸福に満ちたものになるでしょう。永続的な幸福を体験することができない人は、私のところへ来るべきです。私が幸福への道を示してあげましょう。もしあなたが真実(サティヤ)とダルマを守るなら、神は常にあなたと共にいて、あなたを守るでしょう。

真実(サティヤ)とは何でしょう?

トリカーラバッディヤム サッティヤム
(真実(サティヤ)は時の三相を超越するものである)

時の経過と共に変化を被るものを真実(サティヤ)と呼ぶことなど、絶対にできません。しかし、現代の子どもたちは真実(サティヤ)とダルマの真の意味を汲(く)み取っていません。幼い子どもたちは真実(サティヤ)の正しい意味を理解していません。子どもたちに、話すことと振る舞いにおいて真実(サティヤ)を固く守るよう教えるだけでは不十分です。真実(サティヤ)は神であり、真実(サティヤ)だけが自分たちを守ることができるということを教えるべきです。真実(サティヤ)の正しい意味とその重要性を教えなければ、どうして子どもたちが真実(サティヤ)を守ることを期待できるでしょう? 私たちの全人生は、真実(サティヤ)とダルマを基盤にしています。真実(サティヤ)がなければダルマはあり得ません。

サッティヤンナースティ パロー ダルマハ
(真実を貫くこと以上に偉大なダルマはない)

真実(サティヤ)は人生という木の根であり、ダルマはその大枝と小枝であり、幸福はその果実です。したがって、私たちはすべての行為の基盤である真実(サティヤ)とダルマを守りながら人生を送るべきなのです。

多くの人々は、これ見よがしに派手に神への儀式礼拝をします。私は彼らの無知を笑いたくなります。そういったものは真の霊性修行(サーダナ)ではありません。どうしてそのような霊性修行が神のヴィジョン(サークシャートカーラ)をもたらすことなどあり得るでしょう? そんなことをする代わりに、自分の生活の中で真実(サティヤ)とダルマを実践すべきです。真実(サティヤ)とダルマを欠いているなら、あなたの行うことはすべて誇示にすぎません。

真実(サティヤ)は不変であり、永遠です。真実(サティヤ)は、時間、空間、状況を超越しています。真実(サティヤ)こそが、あなたの行為のすべての基盤を形成しているべきです。もし、あなたの行為が真実(サティヤ)に基づいたものでなければ、その行為はうわべだけのものになります。真実(サティヤ)はハートから生じるものであり、実践されるべきものです。清らかな思いと言葉と行動をもって神に祈るべきです。いつどんな時でも、いかなる状況の下でも、決して真実(サティヤ)を断念してはなりません。そうして初めて、あなたは真実(サティヤ)に守られるでしょう。

迷妄の原因は肉体意識

愛の化身たちよ!

ネガティブな態度で真実(サティヤ)とダルマを堅く守っても意味はありません。それは空中に城を築くようなものです! 何であれネガティブな態度で行うことは、ネガティブな結果を生むことになります。ですから、ポジティブな態度を育みなさい。あなたの生活を愛で満たしなさい。人間は大きな仕事の数々を達成してきましたが、それが何の役に立っているでしょう? 人間は真実(サティヤ)とダルマの重要性を理解することができずにいます。実際、人間より優れているものはありません。人間性の中には神性が存在します。ところが、人間はマーヤー(幻/迷妄/幻力)の影響のために、自分の生まれ持った神性を悟ることができずにいます。人間は自らの神性を認識する努力をすべきです。神性だけが人間性を回復することができます。生来備わっている神性を認識するどころか、人間は世俗の物事に巻き込まれています。

今、私たちが体験しなければならないことは何でしょうか? それは神性、神性、神性のみです。神性は永遠であり、あなたがどこへ行こうとも常にあなたと共にあります。決して一瞬たりともこのポジティブな力を忘れるべきではありません。ネガティブな感情を手放して、ポジティブな力である神性への信心を持ちなさい。まさに、神性はあなたを導き守りながら、良心という姿であなたの中に存在しているのです。もしあなたが間違った道を行くと、良心が即座に警告するでしょう。良心はあなたに正しい道を示します。良心の指示を無視するなら、神性を体験することは不可能です。

あなたが見るものはすべて神であり、他には何もありません。あなたは誰かを指差して、「彼は一人の人間に見える。どうして彼が神であり得ようか?」と言います。その人はどこから来たのでしょう? 神から来ました。すべてのものは神です。一つのものの中に多様性を見るなら、どうして神のヴィジョンを手に入れることができるでしょう? この世は、どこを見ようとも一つのものがあり、ただ一つのものがあるのみです。真実(サティヤ)はただ一つです。真実(サティヤ)は二つはあり得ません。同様に、真実(サティヤ)の化身である神はただ一つです。

エーカム サット ヴィップラー バフダー ヴァダンティ
(真理は一つ、
しかし賢者はそれをさまざまな名で呼ぶ)

皆さんは神をいかなる御名で呼ぶことも、いかなる御姿で礼拝することもできますが、一なる神が存在しているのみであるということを、常に覚えていなければいけません。皆さんは神をアッラー、イエス、ラーマ、クリシュナと呼ぶかもしれませんが、神は一つです。ひとたび、この一つであるという原理を理解してそこに定着すれば、あなたは間違いなく神性を手に入れることでしょう。

皆さんは常に真実を語るべきです。真実(サティヤ)は神の本名です。もしあなたが神に祈りたいのなら、「サッティヤスワルーパーヤ ナマハ」(真実の化身に帰命し奉る)と言えばそれで十分です。他の御名はすべて、その複製です。真実(サティヤ)は神です。真実(サティヤ)はあなたのハートの中に据えられています。もしこの真実を悟るなら、あなたは人生の究極の目標を達成することができます。この真実を一瞬にして悟ることは可能です。同一の神性原理が、母親、父親、子どもなど、すべての人の中に存在しています。しかし、あなた方はこの神性原理を忘れてしまいました。あなた方は、神は特定の姿でのみ現れると考えています。実のところ、神は特定の姿を持っていません。あなたがどこを見ようとも、神はそこにいます。すべては神の姿です。そのような神聖な気持ちを抱きながら行動しなさい。それが真の信愛です。

肉体への執着を手放しなさい。子どもから老人まで、誰に出くわそうとも、万人を神の化身であると見なしなさい。そのような神聖な気持ちを持つならば、あなたの信愛は揺るぎないものになるでしょう。もし肉体への執着を手放さず、一瞬ごとに心(マインド)が揺れ動くなら、あなたはまったくの混乱状態に陥るでしょう。あなたの迷妄の原因は肉体意識です。ですから、肉体意識を取り除いて神意識を育てなさい。幻の世界に流されてはいけません。神への愛を深めなさい。そうすれば、あなたは徐々に肉体意識を克服できるようになり、あなたの信愛は強く揺るぎないものになるでしょう。

人々に揺るぎない信愛が欠けている理由は何でしょう? 人々は一つの名と姿を憶念することをしていません。ハートの中に一つの名と姿を祀(まつ)った時、あなたの信愛は揺るぎないものとなります。ラクシャアルチャナ〔守護を求める礼拝〕を行う時、あなた方は「ケーシャヴァーヤ ナマハ、マーダヴァーヤ ナマハ、ナーラーヤナーヤ ナマハ」(ケーシャヴァ神に帰命し奉る、マーダヴァ神に帰命し奉る、ナーラーヤナ神に帰命し奉る)等々、多くの御名を唱えます。あなたはとてもたくさんの御名を唱えるかもしれませんが、あなたが礼拝しているのは一つの神だけです。その単一性の原理をハートにしっかりと定着させ続け、神に祈るべきです。あなたがどこを見ようとも、ただ一つの神が存在しているだけです。

神はここにいて、あそこにはいない
という疑念を決して抱いてはならない
どこを探そうとも、神はそこにいる

テルグ語の詩

絶え間なくアートマを憶念していれば、いたるところに神性を見るでしょう。ですから、一つであることを認識し、それを実現し、それと一つになるよう努力しなさい。もし神性を顕現させたいなら、真実(サティヤ)の原理にしっかりしがみついていればそれで十分です。真実(サティヤ)は名前と姿を持っています。それにしっかりとしがみついていなさい。絶対的にそれに従いなさい。そうして初めて、神性はあなたに自らを現すことでしょう。

あらゆるものは神の顕現

名と姿に惑わされてはなりません。現代の若者は名と姿に心を奪われているため、安定した心に欠けています。神は一つであり、真実は一つであるということを固く信じなさい。神をあなたの唯一の避難所と見なしなさい。そうすれば、どこへ行こうとも、何を見ようとも、あなたは神の顕現を見つけるでしょう。あなたがどこを見ようとも、神はそこにいます。神は一箇所に限定されません。神はどこにでもいます。世俗を求める道(プラブリッティ マールガ)に従った邪悪なカムサに何が起こったでしょうか? カムサが「クリシュナ」という名を口にした時、いつでもクリシュナはそこにいました。しかし、カムサはそれを目の錯覚だと思いました。肉体意識のせいで、カムサはクリシュナの神性を理解することができなかったのです。

皆さんは、アートマビマーナ(アートマへの愛)を育んだ時、初めて神のヴィジョンを手に入れることができます。アートマは唯一無二です。たとえば、「デーハアートマ」(デーハートマ)、「ジーヴァアートマ」(ジーヴァートマ)、「パラマアートマ」(パラマートマ)という三つの言葉について考えてみましょう。「アートマ」は三つすべてに共通のものです。皆さんは常にアートマを憶念しているべきです。アートマは神であるという揺るぎない信心を持ちなさい。アートマは常にあなたと共に、あなたの中に、あなたの周りに、あなたの上に、あなたの下にいます。この世界にアートマ以外の存在はありません。

愛の化身たちよ!

時間を無駄にしてはなりません。皆さんは自分の時間(カーラム)だけではなく、自分の肉体(カーヤム)も無駄にしています。皆さんは霊性修行をしているかもしれませんが、この世の幻に打ち勝つことができずにいます。あなたの見るすべてのものを神の顕現と見なしなさい。一匹の蚊でさえも神の姿です。一匹の蟻も神の姿です。だからこそ、聖者ティヤーガラージャは次のように歌いました。

おおラーマ! あなたは、まさに
蟻からブラフマーにいたるまで、
あらゆるものに浸透しておられます
あなたはシヴァの中におわし、
ケーシャヴァ〔クリシュナ神〕の中にもおわします
どうか私を救いに来てください

テルグ語の詩

蟻の中にさえ神性は存在します。皆さんは、蟻に噛まれた時の痛みがどのようなものかをよく知っているでしょう。そればかりでなく、蟻は蛇の住処となる大きな蟻塚〔蟻が地中に巣を作るために地表に持ち出した土砂でできた山〕を作ります。もし蟻の中に神性が存在していなければ、どうして蟻のような小さな昆虫がそれほどの力に恵まれ得るでしょう? 神性は小宇宙から大宇宙に至るまですべてのものに浸透しています。神性は万物に浸透しているのですから、決して小宇宙を軽視してはなりません。

現代の青年は神性とは何であるかを理解していません。これは年齢の影響によるものです。青年期には、血がたぎり、心(マインド)は不安定です。揺れ動く心で神性を理解することなどどうしてできるでしょう? 第一に、あなたの心を安定した状態に保つべきです。そうして初めて、神性を理解することができます。真実(サティヤ)は愛(プレーマ)の親友であり、ダルマは真実(サティヤ)と愛(プレーマ)とに結びついています。真実(サティヤ)、愛(プレーマ)、ダルマ等々、言葉は異なるかもしれませんが、その根底を流れる神性原理は同一です。

愛の化身たちよ!

スワミへの限りない愛ゆえに、今日、ケーララ州から三千人の青年たちがここにやって来ました。そのような愛を日々育てていきなさい。愛を神と見なしなさい。愛こそが、危急の時にあなたを助けにきます。クリシュナ神の帰依者であった盲目のスーラダーサが密林を歩いて旅していた時、クリシュナは幼い少年の姿をとってスーラダーサを助けにやって来ました。クリシュナは言いました。

「スーラダーサ! 僕はブリンダーヴァンへ行くところなんだ。僕の手をしっかり握るんだよ。僕が君を一緒に連れて行ってあげるからね。」

ブリンダーヴァンという地名を聞いた時のスーラダーサの喜びは、際限がありませんでした。少年はスーラダーサに自分の手を握るようにと言いました。しかし、マーヤーの影響を受けていたために、スーラダーサはクリシュナが手に持っていた棒を握りました。クリシュナの神聖な意志により、その棒は徐々に小さくなっていきました。その結果、スーラダーサの手はほとんどクリシュナの手に触れそうになりました。クリシュナが正体を明かしたのはその時でした。クリシュナはスーラダーサに言いました。

「スーラダーサよ! そなたがどこにいようとも、森の中であれ、空の上であれ、町であれ村であれ、山の頂であれ深い海の真ん中であれ、神はそなたの唯一の避難所である。だからこそ、私はそなたを助けにやって来たのだ。」

スーラダーサの手がクリシュナの手に触れるや否や、スーラダーサは神性に到達しました。その時まで、スーラダーサはクリシュナに話しかけ、クリシュナの甘い言葉を聞いてはいましたが、クリシュナに触れることはありませんでした。クリシュナに触れた瞬間、スーラダーサは恍惚(こうこつ)となり、「クリシュナ! クリシュナ!」と大声で呼びました。

ダルシャナム パーパ ナーシャナム
スパルシャナム カルマ ヴィモーチャラム
サムバーシャナム サンカタ ナーシャナム

(神を見ることはすべての罪を滅ぼし、
神に触れることはカルマの鎖を解き放ち、
神との対話はすべての困難を滅ぼす)

神は、自分の帰依者にダルシャン〔神を見ること〕、スパルシャン〔神に触れること〕、サムバーシャン〔神と会話を交わすこと〕を授けるために人間の姿をとるのです。クリシュナは、ブリンダーヴァンへの道を教えるためにスーラダーサのところへやって来ました。そして、スーラダーサと会話を始め、最終的にスパルシャン〔触れること〕を授けてスーラダーサをカルマの束縛から解放したのでした。このように、ダルシャン、スパルシャン、サンバーシャンの三つすべてが、絶対に不可欠なのです。皆さんはダルシャンだけで満足すべきではありません。三つすべてを手に入れるよう切望すべきです。

万人を神の姿として遇しなさい。それはつまり、各人は皆それぞれ神性の化身であるということです。あらゆる名と姿は神のものです。皆さんはここで何千という神の姿を見ることができます。皆さんは何と幸運なのでしょう! 持って生まれた神性を忘れて自分を弱い人間と考えるのは、無知のしるしです。真実を言えば、あなた方は単なる死すべき運命にある人間ではなく、永遠不滅の神の化身なのです。この宇宙劇の中で、神自身が人間の役割を演じているのです。

ダイヴァム マーヌシャルーペーナ
(神は人間の姿をとって化身する)

ですから、すべては神であるという固い信心を持ちなさい。そうすれば、あなたは個別の意識を失って、神性と一つになるでしょう。一つのものの中に多様性を見るのはマーヤーのせいです。一つであることを理解するなら、あなたの個我(ジーヴァットワ)〔個人性〕は神我(ダイヴァットワ)〔神性〕に変容するでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.37 C8