サティヤ サイババの御言葉

日付:2004年4月15日
場所:ブリンダーヴァン
愛に関するババ様の御講話より

神性を体験するために愛を育みなさい

すべての名と姿は、平安と吉兆の化身である至高の神の具現なり
至高の神は、実在、叡智、絶対至福、不二なり
至高の神は、サッティヤム(真理)、シヴァム(善)、スンダラム(美)なり

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!

サイの力、サイの愛、サイが体現している真理と平安について、多くの人が長々と述べます。しかし、彼らは本当にサイの教えを実践しているでしょうか? その答えは、はっきり言って「していない」です。最近、私が講話をするのに気乗りがしないのは、それが理由です。人々は演説をすることにかけては英雄(ヒーロー)ですが、実践においては皆無(ゼーロー=ゼロ)です。私の教えを実行に移さない人々に話しかけても、何の役に立つでしょう? 人々は書物の知識を身につけることには関心を持ちますが、学んだことを実践することには関心がありません。ただ単に機械的に教えを学んでも、恩恵が生じることはありません。自分が説くことを実践に移さない限り、ただ自分の喉に負担をかけるだけです。霊性の道について、さまざまな人が、さまざまな意見を持っています。しかし、霊性は、言葉による説明や、講話を聴くだけでは、理解できるものではありません。実践しない限り、霊性の教えが皆さんのハートを至福で満たすことはできません。

クリシュナは宇宙のあらゆる原子に浸透している

マハーバーラタの戦争の時のことでした。ある日、アビマンニュ〔アルジュナの息子〕はパドマヴューハ(蓮の形をした迷路のような軍の陣形)に入っていく承諾を得ようと、母のスバドラー〔クリシュナの妹〕のもとに行きました。アビマンニュは、敵を打ち負かして勝利をもたらすことができるよう祝福してくださいと、母に懇願しました。スバドラーは言いました。

「愛しい息子よ、もちろん私はおまえが勝利するよう祝福しますが、最終的には神のご意志が勝つのです。あらゆることは神の恩寵しだいです。パドマヴューハにかかわれば危険だということを十分承知していながら、どうして私が、おまえがそこに入ることを許可できるでしょう? パドマヴューハは通常の陣形ではありません。あれは偉大な軍事の天才ドローナーチャールヤご自身によって考案されたものです。しかも、おまえの妻は身ごもっています。今が私たちにとって適切な時期かどうか、わかりません。おまえに必要な導きと支援をお与えくださる、父上のアルジュナと伯父上のクリシュナもお留守です。ですから、戦場に行くなどという考えはお捨てなさい」

アビマンニュは答えました。

「母上、わが伯父、クリシュナがおいでにならない場所はありません。伯父上はどこにでもおいでです」

スバドラーは息子に祝福を授けながら言いました。

「クリシュナは愛の化身です。全宇宙のすべての原子はクリシュナの愛の特質を有しています。クリシュナの愛は、愛を通してのみ体験することができます。それ以外にクリシュナの愛を体験する方法はありません。けれども、愛しい息子よ、おまえはどうやってそれを戦場で体験することができますか? おまえは至る所にクリシュナを見ています。とはいえ、エゴ〔我執/自我意識/アハムカーラ〕から行動してはなりません。自分の見解は神の支持を得ているなどと考えてはいけません」

クリシュナ神は宇宙のあらゆる原子に浸透しています。

サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッ シルティマローケー サルヴァマ ヴルッティヤ ティシュタティ

(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)

クリシュナは愛の権化です。人は愛を通してのみクリシュナを体験することができます。あなたは愛を通してのみ、クリシュナの恩寵を獲得することができます。愛は愛を通してのみ征服され得るのです。愛がある時、戦争という問題はまったく起こりません。愛は、平和、繁栄、成功、吉兆、至福を授けます。これらは互いにバラバラのものではありません。これらは愛のさまざまな側面なのです。

愛の本質は、アートマ〔真我〕という姿で万人の中に宿っています。アートマは無限かつ永遠です。そのためヴェーダは、「サッティヤム グニャーナム アナンタム ブラフマー」(神は真理、叡智、不滅の化身なり)と宣言しているのです。神はどこにいるのでしょうか? 神はアートマという姿をとって至る所にいます。神はあらゆる生き物の中に存在しています。すべての名と姿は神のものです。神は真理と至福の化身です。

神の創造した世界にあるものはすべて善良である

神のやり方は謎めいています。人々は神の行動が理解できないために、疑いを募らせます。皆さんは何かを良いものと考え、別の何かを悪いものと考えますが、すべては神の意志に従って起こっているのです。皆さんは良いものには「イエス」と言い、悪いものには「ノー」と言いますが、両方とも神の顕現です。人間は、あるものを自分にとって良いもの、別のものを悪いものと判断しようとします。人間が正しい判断をすることは不可能です。どうやって人間が自分にとって何が良いものなのかを知ることなどできるでしょうか? 良いことも悪いことも、神の意志に従って起こります。

ある種の状態は人間の目には喜ばしくないかもしれませんが、神にとっては、すべてがサッティヤム(真理)、シヴァム(善)、スンダラム(美)です。それほどの原理を、どうやって皆さんが説明することなどできるでしょう? 神のすることは何であれ、そこには美があります。しかし、誰も神のやり方を推し量ることはできません。世俗的な観点からすれば、あなたの目には、あるものは悪いものに映るかもしれませんが、深く探求すれば、すべては善であるという真理を理解するでしょう。皆さんは外側を見る目しか持っていないため、何かを美しいものと見なし、別のものを醜いものと見なします。神が創造するものは何であれ美しいのです。しかし、人の見方は外側を見るため、真の美しさを正しく評価することができません。真理を探究すれば、神の創造した世界にあるあらゆるものは、すべて美しいということを知るでしょう。

どの母親にとっても、自分の子どもは美しく見えます。誰もこの事実を否定することはできません。ある子どもはあなたの目には醜く見えるかもしれませんが、その子の母親はわが子の美しさだけを見ます。この点に関して、その母親の判断に異論を唱える権利はあなたにはありません。神の創造物の場合も同じです。それなら、何かは善であり、別の何かは悪であるなどと、どうして言えるでしょうか? 全世界は美と魅力に満ちています。皆さんは、小宇宙から大宇宙に至るまで、この広大な宇宙の中で何か悪いものを私に示すことができますか? それは不可能です。皆さんは、広い心で一切を神の意志として受け入れるべきです。すべての物事を良いことだと考えなさい。皆さんには、神の創造物や神の行うことに対して判断を下す権利はありません。神のやり方は非常に謎めいており、素晴らしいのです。

神のサンカルパ(意志)と神の物語は、
三界のすべてにおいて最も素晴らしく、最高に神聖なり
神のサンカルパと神の物語は、
世俗の束縛という蔓草を断ち切る鎌のごとし
最も気高いもの、人間を引き上げてくれるものなり
森で苦行を行う聖賢たちに至福を授けてくれるものなり

(テルグ語の詩)

神の創造物の中に神性を見なさい

プラフラーダは神の偉大な帰依者でした。彼は絶え間なくナーラーヤナ神の御名を唱え、最終的に神と自分が一つであることを体験しました。プラフラーダは全世界をナーラーヤナ神の顕現として見ることができました。神は全宇宙に遍満しています。そうであるなら、なぜ、神はここにいて、あそこにはいないと言えるでしょう? 皆さんはこの世界を見ていますが、世界を神の姿として認識することができていません。実際には、万物は神なのです。何であれ肉眼で見るものに惑わされてはなりません。

人間は自分自身の力など一切持ち合わせていません。人間を動かしているのは神の力です。しかし、無知ゆえに、人間は行為をしているのは自分だという意識に押し流されて、エゴを育てています。これは私たちが現代の世界で目撃していることです。

このような状況の下で真理と非真理を区別するのは不可能です。それよりも、すべてのものを善と見なすほうがよいのです。神があらゆるものに遍満しているなら、悪いものなどあり得ますか?

どこででも神を思い浮かべるようにしてみなさい。自分の感情を神のものに重ね合わせてはいけません。神性原理を経典の聖句や世間の教育を通して理解することはできません。古代の聖賢や預言者たちでさえ、神性を理解することはできなかったのです。神は三界を超越しています。それほどの神性をどうやって理解できるでしょう? アジット ポパット(先の講演者)が述べたことは本当です。しかし、人は見方において現実的であるべきです。皆さんは、自分はヴィシュヌ神の姿を見たなどと言います。ヴィシュヌ神はどんな姿をしていますか? ヴィシュヌ神は四本の手に法螺貝(シャンカー)と円盤(チャクラ)と鎚矛(ガダ/つちほこ)と蓮の花(パドマ)を持っている、と皆さんは言います。法螺貝や円盤や鎚鉾や蓮の花は、象徴的なものにすぎません。そのような姿は現実に即したものではありません。それは、単にあなたの感情を重ね合わせたものにすぎず、究極の真実ではありません。

道を歩いている時に、目の前に一匹の蛇を見つけたと想像してください。あれは毒蛇だとあなたは考えます。毒蛇よりも有毒なものは何でしょう? 思いと言葉と行いのすべてが毒まみれの人間のほうが有害ではありませんか? 実際、そのような人間は毒蛇よりも危険です。

何であれ、目に見えるものは現実と一致していないかもしれません。皆さんは真理を知るために深く探求しなければなりません。マハーバーラタはこうした教えに満ちています。マハーバーラタの教えを理解して、それらを実践に移す人は真の人間です。この叙事詩の神聖な教えの数々は、バーラタ〔インド〕から人類への偉大な贈り物です。皆さんの限られた理解力では、何であれ判断を下す資格は持てません。真の叡智は、すべての物事を良いものとして受け止めて、真理の道をたどることにあります。

愛の化身である皆さん!

愛は皆さん一人ひとりの中にありますが、肉体への執着を捨てない限り、その愛を体験することはできません。

肉体は汚物の巣窟であり、病気になりがちである
肉体は折に触れて変化を余儀なくされる
肉体はサムサーラの海を渡ることができない
肉体は単なる骨の構築にすぎない
おお、心よ! 肉体が永遠であるという妄想を抱いてはならない
そうする代わりに、神の蓮華の御足に避難せよ

(テルグ語の詩)

このような束の間の肉体への執着を募らせるとは、何と愚かなことではありませんか? この世界は永遠であるかのように見えますが、実際はそうではありません。肉眼には良いものに見えるものでも、実際はそうでないかもしれません。良いものの中に悪いものを見るのは大きな罪です。皆さんは、悪いものの中にさえ良いものを見ようと努力すべきです。何であれ、それを悪いものとして非難してはなりません。たとえ何かが悪いものに見えても、深く探求して、その中に何か肯定的な側面を見ようと努めるべきです。

この広い世界には無数の姿が存在します。しかし、すべての姿は同じ源から生じました。それらは同一の神性の異なる側面です。あらゆる姿は本質的には神性です。そうであるなら、どうして何かを悪いものだと非難できるでしょう? すべてのものは良いものです。皆さんは、食べ物を食べるとき、その食べ物を神聖なものと見なします。その食べ物がお腹の中に残っている限り、あなたはそれを良いものと見なします。ところが、それが汚物として排泄されると、あなたはその眺めにも臭いにも耐えられません。それほど胸が悪くなるものを、以前はどうして自分のお腹の中に保持できたのでしょうか? 良い悪いは、あなたの好き嫌いによって決まります。自分の好き嫌いは脇に置きなさい。神が何を好むかを心に留めておかねばなりません。神だけが、あなたにとって何が良いことかを知っています。ですから、神の意志に全託して、神を拠り所としなさい。

真の愛は変わることなく永遠である

愛の化身である皆さん!

愛の原理は言葉で表せません。ありとあらゆる描写は、真理全体の一部を映し出すだけでしょう。ですから、愛を描写しようとするのではなく、神の愛に値する人間になれるよう努力しなさい。愛は神の姿です。神はどんな形ででもあなたに神の愛を授けることができます。愛はあなたの究極の目的地です。あなたの人生を聖化することができるのは愛だけです。ですから、もっともっと愛を育てなさい。あなたを守ってくれるのは愛だけです。肉体への愛は執着です。子どもは青年になり、青年は老人になり、それに応じて肉体は変化を余儀なくされ、時の経過と共に、徐々にその美しさと魅力を失います。しかし、愛はいかなる時にも変わらずにいます。「プレーマ」(愛)という言葉は単なる言葉ではありません。プレーマ(愛)には姿があります。愛の存在しない場所はありません。愛はすべてに遍満しています。愛は、アンダ〔物質と生気の合わさったもの、卵〕、ピンダ〔母胎から生まれたもの、肉体〕、ブラフマ アンダ〔ブラフマンの卵、宇宙〕を包み込んでいます。愛は、食べること、話すこと、歩くことなど、私たちのあらゆる活動の基盤です。実際、私たちの命を維持しているのは愛です。人々は、これほど神聖な愛の重要性を知った後でさえ、それを忘れる傾向にあります。人々は何と愚かなのでしょう! 人は、愛を体験し、愛を楽しみ、愛を他の人々と分かち合うべきです。

愛の化身である皆さん!

愛の原理を完全に言葉で表現することは不可能です。愛はすべてを引きつけます。神の愛は自然という姿の中に顕現しています。だから自然は万人を引きつけるのです。「クリシュナは引きつける者なり」(カルシャティ イティ クリシュナ)。神は、すべての人を引きつけ、すべての人に至福を授けます。神は甘さの化身です。人々はさまざまな種類のお菓子を作りますが、どのお菓子も、入っている砂糖は同一です。同様に、この世界で私たちが見るどの名と姿においても、その中にある神性は同一です。神はいかなる特定の姿にも限定され得ません。あらゆる姿を神の姿と見なしなさい。皆さんはどこにでも行って、どんな姿を崇めてもかまいません。すべての姿は神です。それほどの神への愛と信仰を深めた時、あなたは至る所に神を見て、神の愛を体験することができます。愛を深めることなく神性を体験するのは不可能です。それゆえ、ゴーピカー〔牧女〕たちは次のようにクリシュナに祈りました。

ああクリシュナ、あなたの甘美な横笛を奏で、
愛のない乾いた砂漠に愛の種を蒔いてください
どうか大地に愛の雨を降らせ、愛の川が流れるようにしてください

(テルグ語の詩)

ゴーピカーたちはクリシュナの愛を切望し、他には何も望みませんでした。皆さんは甘い愛の滴です。何滴もの水の滴が合わさって川の流れとなり、最終的には海へと帰融します。

しかし、現代人は、真の愛とは何かを理解できません。もし誰かが特定の何かを好きなとき、その人は、自分はそれを愛していると考えます。あなたに好きなものがあるときには、嫌いなものもあるはずです。しかし、あなたに愛があるときには、ネガティブなものは何も存在することができません。愛は変わることなく永遠です。愛は神聖です。愛は、実のところ、神の姿なのです。

エーカム、ニッティヤム、ヴィマラム、アチャラム、
サルヴァディー サークシブータム、バーヴァティータム、トリグナラヒタム

(それは唯一無二であり、永遠で、純粋で、変わることがなく、
あらゆる心の状態と、浄性、激性、鈍性という三つのグナ〔属性〕を超越している、
すべての知性の働きの照覧者である)

この世の言葉で愛を描写することは不可能です。世俗的な感覚で愛を考えることは愚かです。愛に匹敵する言葉を見つけることは不可能です。あなたは自己満足のために、愛をさまざまな方法で説明しようとするかもしれません。しかし、どのような説明も愛の実体とは一致しません。愛のみが愛と等しいのです。愛以外のいかなる方法でも、愛を説明することは不可能です。皆さんが理解し、実践しなければならないのは、この愛の神聖原理です。

愛の化身である皆さん!

あなたは愛に浸り、愛を体験し、愛を楽しむかもしれません。しかし、愛への飢えは決して満たされることはありません。愛は、愛を通して初めて体験できます。それ以外に愛を体験する方法はありません。愛は愛であり、それがすべてです。

神が愛の化身であることを固く信じなさい。心から神を愛しなさい。神の愛にあなたの世俗の愛を重ね合わせてはなりません。神の愛のみが、真実にして永遠の愛です。神のみを、あなたの愛の焦点としなさい。

神は愛という形であらゆる場所に存在しています。このことを決して疑うべきではありません。あなたの中に愛の川が絶えず流れているようにしなさい。そうして初めて、あなたは神のヴィジョン〔御姿を見ること〕を得ることができます。あなたが神を見たいと願っていることは確かですが、あなたは自分の愛を広げる努力をしていません。もしあなたが興味を持っているのなら、私はあなたに神のヴィジョンを授ける用意があります。しかし、あなたが神を見ることができるのは、あなたが自分の中に真実で永遠の愛を培ったときに限ります。

愛の化身である皆さん!

私はつねに、愛、愛、愛だけを教えています。皆さんは、愛をさまざまな方法で描写しようとするかもしれません。それは不可能なことです。愛には一つの形態があるのみです。それは、すなわち、引き付けるものという形態です。愛は至福と恩寵を授けます。愛は神、愛の中で生きなさい。また別の機会に、私は愛の原理についてさらに深く説明しましょう。世俗の愛はうわべのものにすぎません。しかし、人間は己の無知から、世俗の愛の中には幸福があると考えます。人間が愛しているものは、すべてネガティブなものです。人間は自分の愛をポジティブな本質のほうに向けるべきです。それは決して変化しません。ここに小さな例があります。あなた方は何年もここへ来ています。あなたは、スワミのダルシャンはもう飽きたと思うくらい、満たされたことがありますか? いいえ、ありません。朝、皆さんが見た同じスワミが、夕方に再びやって来ます。しかし、あなたは何度も何度も繰り返しスワミを見たいと待ち焦がれます。その切望の理由こそ、愛なのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.37 C9