日付:2004年10月17日
ダシャラー祭の御講話より
太陽はなぜ、毎日この上なく規則正しく、朝には昇り、夕方には沈むのか?
星はなぜ、夜には美しくきらきらと輝き、日中にはその姿を隠すのか?
風はなぜ、一瞬も休むことなく吹き渡り、生き物たちを元気づけているのか?
河はなぜ、轟々と音を立て、長年流れ続けているのか?
(テルグ語の詩)
五大元素(地、水、火、風、空/パンチャブータ)は、全世界に、いやそれどころか万人に充満しています。プラパンチャ(物質世界)とは何でしょう? 「プラ」は「広大な」、「パンチャム」〔パンチャ〕は「五大元素が充満しているもの」という意味です。したがって、プラパンチャは「五大元素が充満している広大な宇宙空間」を意味します。どこを見ようとも、あなたは五大元素の輝きが広大な世界を包み込んでいるのを見つけるでしょう。
愛の化身である皆さん!
神はあらゆる創造物の源であり、維持者です。神がなぜ特定のやり方で行動するのかと問うことのできる人は誰もいません。神は宇宙の至高の主であり、自らの神聖な意志に基づいて行動することができます。宇宙の創造、維持、破壊は、すべて神の意志です。しかし、神が何をしようとも、それは世界のためになることです。たとえば、人は空気のない場所や時を見つけることはできません。たとえ目に目には見えなくとも、空気を体感することができます。この世界のあらゆる行為は、最も小さな行為でさえ、神の意志によって起こっています。たとえば、神の特定の行為はあなたに何らかの不都合や悲しみをもたらすかもしれませんが、それは、あなたの個人レベルでのことです。しかし、神の創造においては、悲しみといったものは存在しません。神が行うことは何であれ、人類の安寧のためです。なかには、意気消沈して、なぜ神は私に困難や悲しみを与えるのかと嘆く人々もいます。しかし、悲しみや困難は人間が自分で作っているものです。神は誰かを差別することもなければ、誰かに困難を引き起こすこともありません。悲しみと困難はあなたの感情にすぎません。神の創造においては、あらゆることが生きとし生けるものに幸福と安楽をもたらすように意図されています。私はこのことを繰り返し強調しています。あなたが悲しみの中にあろうが、幸福を楽しんでいようが、一切はあなた自身にとって良いことなのだといつも思ってなさい。神が何をしようとも、それはその人のためであって、その人を困らせるためではないという、揺るぎない確信を持たなければなりません。この真理を悟ることができずに、人間はありとあらゆる困難や悲しみを味わっています。これは正しい態度ではありません。人は神の創造の裏に潜んでいる真理を認識するよう懸命に努力しなければなりません。
この世にはさまざまな感情を持った無数の人々がいます。また、自らの知性を研ぎ澄ますために努力奮闘している人々もいます。しかし、高潔な特質を身につけようと努力する人はめったにいません。高潔な特質を養うことをしないで知性だけ持っていても、それが何の役に立つでしょう? 古のリシ〔聖賢〕たちは皆、高潔な特質を養うようにと熱心に人々に説きました。ただ高い学位を持っているというだけで、自分はとても知能が高くて教養があると考えるのは大きな間違いです。単なる知能と高学歴は何の役にも立ちません。教養と知能と共に、高潔な特質を育てなくてはなりません。高潔な特質を欠いた知能は望ましいものではありません。
今日はナヴァラートリ祭の初日です。ナヴァラートリ祭は九日間(ナヴァ=九、ラートリ=夜)行われます。すべての祝祭は、自分と社会に恩恵をもたらす活動に従事することによって高潔な性質を育てるべし、ということを人々に思い出させるよう意図されています。どのような活動を始めるにせよ、それをしようという自分の意図や決意は良いものか否か、そして、その行為をすることによって高潔な特質を育てることができるか否か、分析しなければなりません。カリユガの影響によって、人は高潔な性質を養うための努力は何一つしていない半面、幾つかの分野では真面目に努力して自らの知能を発達させています。人は自己信頼をなくしているのです。高潔な特質を欠いていれば、知能を使って世俗の生活で高い地位に就くことができても何の役にも立ちません。それゆえ、人間にとっての急務は自己信頼を深めることです。人間にとって、信じる心は両目のようなものです。信じる心を欠いていれば、人間は盲目です。人は自分を信じる心を持っている場合に限り、神を信じる心を持つことができます。
なかには「私は神への信心を持っていない」と言明する人々もいます。これは無意味な発言です。もし神を信じていないのであれば、他に誰を信じているというのですか? 神への信心を深めて、初めて人は他の一切のものを信じることができるのです。ですから、人は第一に神への信心を強めなくてはなりません。神への信心があれば、あらゆる努力において成功を収めることができます。神への信心がある人は、あらゆる人を信じることができるでしょう。そのような人は、神はあらゆる生き物に内在しているという揺るぎない確信を育てるでしょう。ウパニシャッドは、「イーシャ ヴァースヤム イダム サルヴァム」(全宇宙は神に満ちている)、そして、「イーシュワラ サルヴァ ブーターナム」(神は万物に内在する)と言明しています。神は、信じる心として万物に内在しています。それゆえ、人は自分の第一の義務として、神への信心を育てなければなりません。すべてのヴェーダとウパニシャッドと経典は、このことを人間の義務として力説しています。
今日、人間は外界のあらゆるものを信じています。たとえば、しかじかの状況でロシアにおいてだれそれが亡くなったという記事が新聞に掲載されれば、私たちは微塵の疑いを抱くこともなく、そのニュースを信じます。なぜ私たちはそのニュースを信じたのでしょう? 誰がこのニュースを私たちに知らせたのでしょう? ただ新聞を通じて知っただけです。人々は、新聞を信じることはできても、永遠の真理と、日常生活における永遠の真理の実践から生じる体験は、信じることができないのです。永遠の真理への揺るぎない信心を強めるためには、高潔な特質を育てなくてはなりません。これは私たちの最も重要な義務です。そうすることによって、神への信心も大きくなります。残念ながら、今、人々は、神への信心は脇に置いて他人の言うことを信じています。その結果、間違った道に入っています。私たちはまず、自己信頼〔真我を信じる心〕を強めなくてはなりません。そうして初めて、神の創造のあらゆる相への信心を育てることができるのです。
愛する学生の皆さん! 帰依者の皆さん!
今日、最も重要なことは、神への信心を強めることです。人間はエゴを強めて、自分はこの世界のあらゆることを知っていると思っています。こうしたエゴは、実に、無知の印です。もし神への信心を持たずに、自分はこの世界の一切を信じていると言うのであれば、その信じる心は強固な基盤に根ざしたものではありません。今日、人間はこの世にあるもの一切を信じています。まだ自分が見たことのないものでさえ信じています。ところが、自分の目の前にあるもの、すなわち、これほど多くの様々な神性の顕現を信じる心づもりはありません。木の枝には火が潜在していますが、その火は、枝が枝をこすって摩擦が生じると、明らかになります。木の枝にある火の存在を否定できる人がいますか? では、なぜ人間はこの真実(神性)を認識することができないのでしょう? それは、人間のエゴのせいです。木の枝から発生した火がその木自体を焼き尽くすように、人から生じたエゴもその人本人を滅ぼすのです。それゆえ、人間は神の存在への揺るぎない信心を強めなくてはなりません。この信心を欠いていれば、人間は自分自身を悪魔に堕落させてしまいます。
学生の皆さん! 教師の皆さん! 教育の後援者の皆さん!
皆さんは教育の真の意味を理解すべきです。教育とは、単なる書物の知識の獲得を意味するのではありません。
読み書きの仕方を知っている者すべてを、教養ある人間と呼ぶことができようか?
ただ学位を取得しただけで、教養ある人間と呼ばれることができようか?
己の真我を知らずして、永遠の知識を手に入れることができようか?
(テルグ語の詩)
皆さんは、自分の真の正体を知るための努力をすべきです。自分が本当は誰かを知らなければ、身につけた一切の教育は無益であることがわかるでしょう。ここに座っている時、皆さんは夢中になって講話を聴いています。ところが、ひとたびこの場から立ち去ると、すべてを忘れてしまいます。皆さんはここで聴いたことを信じられなくなるのです。これは人間に期待されていることではありません。皆さんは霊的な教えを完全に信じて、それらを実践に移して至福を体験すべきです。
信じる心は、人間が生まれつき受け継いでいる最も重要な性質です。人間は、まず自分の母親を信じます。母親は子どもを叱りつけて叩くかもしれませんが、それでもその子どもが母親を信じる心は揺るぎません。それが母の愛の偉大さです。人間は、自分が母親に対して抱いているのと同じくらいの信じる心を、神に対しても持つべきです。しかし、残念なことに、人間はそのような揺るぎない信心に欠けています。すべての人が神の直接のヴィジョン〔神を見ること〕を手に入れたいと望んでいます。神とは誰でしょう?神はどこにいるのでしょう? 太陽は、私たちに光を与えて私たちの生活を維持してくれているので、神の直接の顕現であると言われています。太陽神は、光という形で、万人に愛を降り注いでいます。もし、あなたが愛の光を信じる心を持たないなら、あなたの人生は暗闇に覆われたものとなるでしょう。
かつて、ある弟子がグル〔導師〕に「神はどこにいるのですか?」と尋ねました。グルは、神は至るところにおり、あらゆる生き物の中に存在していると答えました。弟子は、どうして神があらゆる生き物の中に存在できるのかという点に関して疑問を呈しました。グルは弟子に、十個の器を持ってきて水を入れるようにと言いました。すると、十個のどの器にも、水に映った太陽を見ることができました。それと同じく、神はあらゆる生き物の中に存在しています。器はさまざまかもしれませんが、太陽が映った姿はどの器でも同一です。それゆえ、太陽は神性の直接の顕現(プラティヤクシャ パラマートマ)なのです。しかしながら、水がなければ水に映る姿はあり得ません。私たちの身体は器に喩えられ、ヴァーサナ(先天的な傾向)は水に喩えることができます。もし、あなたの思いや感情が良いものであれば、あなたは神性の反映をはっきりと見ることができます。もしあなたの思いが不純で悪いものであれば、神性の反映を見ることはできないでしょう。誤りはあなたの思いにあるのであって、反映にあるのではありません。それと同じように、あなたの幸福や悲嘆の責任は、あなたにあるのみです。それゆえ、まず高潔で神聖な感情を育てなさい。私はよく皆さんに、身体は水泡のようなものであり、心〔マインド〕は狂った猿のようなものであると言っています。ですから、身体や心に信頼を置いてはなりません。あなたの真我に揺るぎない信頼を持ちなさい。身体と心は真我から生じたのです。
学生の皆さん!
自らの真我を信じるならば、あなたが困難や悲嘆を経験することはないでしょう。それゆえ、少なくとも年長者の教えを信じて、絶対的にそれに従いなさい。太陽神はただ一つですが、世界のさまざまな地域では別々に現れます。アメリカで太陽が昇る時、インドでは日没の時間帯です。インド人は日が沈むと言うでしょうが、同時にアメリカ人は日が昇ると言うでしょう。ここには議論の余地はありません。時間は異なるかもしれませんが、両者とも自分の観点からは正しいのです。
ナヴァラートリ祭の一環として、人々は神性のさまざまな姿を礼拝します。皆さんは神聖な感情を強めて神性を体験すべきです。ナヴァラートリ祭の内なる意味は何でしょう? この九夜は九つの星〔九曜〕の象徴です。それぞれの星には独自の意味があります。しかしながら、それらの星は外部にあるのではなく内部にあります。あなたの感情が不純で穢れていれば、結果もそれと同じ不純で穢れたものとなるでしょう。あなたが考えたり体験したりする善と悪は、あなたに責任があります。それらは外の世界の産物ではありません。それらはあなたの内にあるものの反動、反映、反響です。人が人生の浮き沈みに直面するのは、この三つに縛られているからです。ところが、人はこの三つを忘れ、自分の問題の解決策を探そうとします。人は自分を大変知的だと考えています。実際には、それは真の知性ではありません。人は神への信心に欠けています。それが人の苦しみの真の原因です。神は一つです。それと同じように、姿と振る舞いはさまざまでも、人間は一つです。しかし、偏狭さゆえに、人はこの唯一性を理解することができません。
マンゴーを食べてキュウリのおくび(げっぷ)を出すことはできません。それと同じように、あなたが体験することは何であれ、あなた自身の思いと感情の結果です。外部からの力が原因ではないのです。外部の影響力によって流されることのないようにしなさい。あなたのハートから湧き上がる神聖な感情に従いなさい。ナヴァラートリ祭はエネルギーの九つの形態の表象です。この九夜の間に私たちが養わなければならないものは、一つであるとい気持ちです。九つのエネルギーの形態がありますが、それらすべての根本的真理は一つであり同じです。それはアートマ〔真我〕の原理です。それは遍在です。それは人間だけに存在しているのではなく、あらゆる生き物に存在しています。
太陽が東から昇っている時、西に向かって歩いていくと、あなたの影はあなたの前に来て、あなたの体よりずっと大きくなります。太陽が高くなるにつれて、あなたの影は小さくなります。正午に太陽がちょうどあなたの頭の真上に来た時、あなたの影はぴったりあなたの足の下に来ます。それと同じく、あなたが平等観を養うなら、あなたのエゴは足元の影のように抑制されます。まず、エゴを捨て去って、アートマの唯一性を理解しなければなりません。
エーカム サット ヴィップラー バフダー ヴァダンティ
(真理は一つ、しかし賢者はそれをさまざまな名で呼ぶ)
エーカ メーヴァ アドヴィッティーヤム ブランマー
(神は唯一無二である)
ただ、いたるところに唯一性があるのみです。多様性は皆さん自身の想像物です。誤りはあなたの見方にあるのであって、創造物の中にあるのではありません。私たちは根本的な唯一性の原理を理解する努力をすべきです。まず自分を信じなさい。他の人々の中にある善のみを見なさい。もし他人の中に悪を見るなら、その悪はあなた自身の感情の反映です。真我への愛着(アートマ ビマーナ)と真我の力(アートマ シャクティ/意志力)を強めなさい。自制を働かせなさい。自制を通してのみ、自己満足を達成することができます。多様性の中にある唯一性が目に見えるようにしなさい。
愛の化身である皆さん!
皆さんは一なる真我の化身(エーカートマ スワルーパ)です。皆さんが持っているのはただ一つのハートであり、二つのハートではありません。もし皆さんに心臓が二つあったら、病院に収容されなくてはなりません。それと同様に、ただ一つのアートマが存在しているのです。これが究極の真理です。ですから、一つであるという気持ちを強めなさい。真理の道に従うなら、皆さんはいたるところに真理の現れを見つけるでしょう。あなたの中には愛というただ一つの原理が存在しています。しかし、あなたは多種多様な方法でそれを分散しています。皆さんは愛にはさまざまな形があると思っていますが、それは皆さんの想像にすぎません。
霊性の原理を理解する努力をしなさい。自分はアートマの化身であり、この世には第二の存在はいない、という揺るぎない確信を持ちなさい。母、妻、子ども等のあらゆる世俗的な人間関係は、あなた自身が作り出したものです。それは一時的な関係であって真実ではありません。そのような世俗の人間関係に惑わされるべきではありません。あなたの真の王国、すなわちアートマを固く信じなさい。この世界を信じてはなりません。あなた自身を信じなさい。神があらゆる場所にいることを固く信じなさい。
サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ スィロームカム
サルヴァタッ シルティマローケー サルヴァマヴルッティヤ ティシタティ
(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)
しかし、あなたは自分の誤った自己認識と迷妄のせいで二元性を見ているのです。
愛の化身である皆さん!
愛はあなたの中にあります。愛を外から得る必要はありません。世俗の愛は世俗の人間関係に基づいています。あなたが誰を愛そうと、あなたは自分が映った姿を愛しているのです。自分は誰か他の人を愛していると考えるのは間違いです。あなたは誰かを指差して「彼は私の友人です」と言います。しかし、実際には、神だけがあなたの真の友なのです。神は決してあなたを裏切りません。時おり、あなたは自分の真の友を疑うかもしれませんが、神は決してあなたを見捨てません。あなたの感情は時間と状況に基づいて変わるかもしれませんが、神は変化しません。神はつねに、一つであるという感覚を持っています。ひとたび、あなたが神を自分の真の友と見なすなら、すべての人があなたに対して友好的になるでしょう。実を言えば、あなたに敵はいないのです。この世界には、あなた以外に誰も存在していないのです。二人目がいないのであれば、どうして敵などあり得るでしょう? すべては過ぎ行く雲のようなものです。しかし、あなたはそれらを永遠のものであると考えて、そう信じています。その結果、純粋で無私無欲の神を信じることができないのです。あなたは神の(Divineディヴァイン)愛を忘れ、世俗の愛の深酒(Deep Wine ディープワイン)に酔いしれているのです。
愛の化身である皆さん!
もし、神を知りたければ、唯一性の本質を吸収しなさい。一つであるという思いを持てば、神の直接の具現を見ることができます。ヴェーダの時代の聖賢たちは、ガーヤトリーマントラの中で述べられているように、太陽を神の直接の具現として崇拝しました。神を、あなたの母であり、父であり、友であり、すべてであると見なしなさい。
トワメーヴァ マーター チャ ピター トワメーヴァ
トワメーヴァ バンドゥシチャ サカー トワメーヴァ
トワメーヴァ ヴィッディヤー ドラヴィナム トワメーヴァ
トワメーヴァ サルヴァム マーマ デーヴァデーヴァ
(神だけが、すべての人にとっての母、父、友、親族、英知、富である)
しかし、人々は神を忘れて束の間の快楽を切望しています。この世界には何一つ永続するものはありません。皆さんの世俗の人間関係はすべて一時的なものです。あなたの人生そのものが一時的なものです。そうであれば、どうして誰かをあなたの永遠の友と見なすことができるでしょう? ただ一人の永遠の友がいます。それは神です。真の愛を体験したいのであれば、神を完全に信じなさい。神の愛は揺るぎないものです。それは決して減少することはありません。あなたは多くの苦難を経験するかもしれませんが、それでもあなたは神に属しています。あなたは神のものであり、神はあなたのものです。あなたと神の間に第三者が入ることはできません。第三者がいると考えるのは、単なる錯覚にすぎません。あなたは「彼は私の級友です、彼は私のスポーツ仲間です」などと言います。しかし、その誰一人としてあなたを救いにきてくれる人はいません。あなたは自分で自分の面倒を見なければなりません。あなた自身に信頼を置くべきです。そうして初めて、あなたは真理を悟ることができます。
愛の化身である皆さん!
決して愛を忘れてはなりません。愛は神の姿です。愛は神です。愛の中で生きなさい。そうしてこそ、真実を理解することができます。他人の言うことに基づいて判断してはなりません。あなたの良心に従いなさい。どのような状況下でも、決して神への信心を失ってはなりません。時として、あなたの両親でさえ、あなたが敬神の道を行くことを思いとどまらせようとするかもしれません。あなたは両親に、神は自分にとってすべてであると伝えるべきです。神はあなたの真の友です。あなたはお母さんを愛しています。それはお母さんがあなたを生んで育ててくれたからです。あなたはある人を自分の先生と見なします。それはあなたがその人から学問を学んだからです。自分の人間関係と経験に基づいて、あなたは誰それを自分の母親、父親、先生等として遇します。真実を言えば、こうした人間関係はすべて、映画のスクリーンに現れる動画のように、来ては去っていきます。スクリーン上に現れる映像に惑わされてはなりません。あなたのハートに神の映像を刻みつけなさい。強い確信を育て、神をあなたの唯一の避難所と見なしなさい。そうして初めて、あなたは神のヴィジョンを持つことができます。
今朝、あるロシア人の女性が私のところに来ました。会話の中でその女性は「スワミ、私には友人がいます」と言いました。私がそれは誰かと尋ねると、その女性は財布から小さな写真を取り出して私に見せました。そこで、私はその女性にこう言いました。「お母さん、この人はあなたの夫であって、友人ではありません。自分の夫を友人だと思ったり、友人を自分の夫だと思ったりしてはいけません」。その女性は「スワミ、私はずっとそうしてきました。これは間違いなのですか?」と言いました。私は「ええ、それは間違いです。もちろん、まったくの間違いです」と言いました。そして、私はその女性が初めてその男性に出会ったのかはいつかを尋ねました。その女性は、知り合って三年になると言いました。私は言いました。「この種の関係は一時的なものです。あなたの本当の友人は神だけです。あなたは神を忘れるかもしれませんが、神は決してあなたを忘れません。神はあなたが死んだ後も、あなたと共にいます。ですから、神をあなたの真の友人として遇しなさい。最終的に、あなたは神と一つになるでしょう」。
愛の化身である皆さん!
この世には、真の霊性〔アートマ性〕とは何かを理解しておらず、それゆえ真理を忘れている人々が大勢います。神だけがあなたの真の友です。それが真実です。神はあなたの母であり、父であり、グル(導師)等なのです。そのことに対する固い確信を持ちなさい。そうすれば、神はつねにあなたの面倒を見るでしょう。あなたがアートマは一つであるという気持ち〔エーカートマ バーヴァ〕を培うなら、あらゆる神聖な特質があなたの中に現れるでしょう。あなたは世間の人々の理想像となるでしょう。あなたは苦しみから解放されるでしょう。あなたには死も懲罰もないでしょう。あなたは自分の正体を悟るでしょう。もし誰かが「あなたは誰ですか?」と尋ねたら、揺るぎない確信を持って「私は私です」と言いなさい。決して自分を体だと思ってはなりません。この真理をはっきりと理解した人は、祝福された人です。私はこの主題について、また別の日に詳しく述べましょう。
世間のグルたちは、時の経過と共に変化をこうむります。神だけが不変であり、神だけがあなたの真のグルです。神を完全に信じなさい。一日一日と信心を育てていきなさい。そうして初めて、あなたは真の人間と呼ばれることができます。
ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ
(神は人間の姿をとって化身する)
ですから、自分は神だと考えなさい。完全な確信を持って「私は私です」と断言しなさい。あなたがそのような神聖な感情を抱いて人生を送るなら、必ずあなたの中に神性が顕現します。神はどこか他の場所にいるという誤った考えを抱いてはなりません。神はいつもあなたの中にいます。あなたの反映は神の反映です。あなたの反応は神の反応です。あらゆるものは元来、本質的に神なのです。この宇宙劇の中で、あなたにあなたの役を演じさせているのは、神です。あなたに歌わせたり、踊らせたりしているのは、神です。神は宇宙劇の監督です。あなたはどんな名前で神を呼んでもかまいません。しかし、神はただ一つです。
愛の化身である皆さん!
もし、神に到達したいなら、アートマは一つであるという気持ちを育てなさい。そうすれば必ずや、いたるところに神を見ること、神を経験することができるでしょう。
〔バガヴァンは「プレーマ ムディタ マナセー カホー」〔愛と喜びに満ちた心でラーマの御名を唱えよ〕のバジャンで御講話を終えられました。)
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Dasara Discourses 2004 C1