サティヤ サイババの御言葉

日付:2005年4月11日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ケーララ州青年キャンプにおけるババの御講話(上)より

奉仕の精神を理解しなさい


4月11日の御講話をするババ


人間は、カルマ〔行為〕から生まれ、カルマの中で育ち、カルマの中で死ぬ
それゆえ、人間にとって神そのものであるかのごときカルマを、
生活のあらゆる局面において支配せよ
喜びと悲しみの主は、カルマなり

(テルグ語の詩)

あらゆる創造物の中で、人間は最高の創造物です。人間は次のように言われています。

ジャントゥナム ナラ ジャンマ ドゥルラバム
(あらゆる生類の中で人として生まれるのは最もまれなことである)

世界に主要な変化を引き起こすのは、人間です。喜びは、喜びだけでは存在せず、悲しみと絡み合っています。悲しみも、またしかりです。幸福と悲しみの両方の原因は人間です。

実践で得た知識が本当の知識

愛の化身である皆さん!

現代人は、肉体の姿だけに重きを置いているため、自分の本性を認識できずにいます。人間は推論する力を失ってしまいました。自分を人間と呼ぶからには、人間らしさの独自性を認識することは、人の義務です。人は、ただ単に人間として生まれたから、あるいは、教育を身に付けたからといって、人間と呼ばれることはできません。実際、学位には真の人間らしさは見つけられません。鳥や獣でも、芸を教えられれば、人間のまねをして素晴らしい芸を演じることができます。ただ単に美辞麗句を連ねること、聖典の言葉の引用を人に話して聞かせることで満足しているのは、人間として誉められたことではありません。真の人間らしさは、生活の中で理想を実践し、他の人々に模範を示すことにあります。人に説く前にまず自分で実行していない人には、他人に理想を説く権利はありません。人間は計り知れない神聖な力を持っています。人間は、単に人の肉体をまとっている者(デーハダーリ)ではありません。人間は、ヴィグニャーナ(高次の英知)、プラグニャーナ(絶えざる統合意識)、スグニャーナ(識別する知識)を授けられています。それゆえ、人間はこれら知識の高次の形態を正しい道に方向付けることができるはずです。何よりもまず、人は「グニャーナ」の真の意味を理解しなければなりません。おびただしい数の本を読むことで得られる知識がグニャーナである、と考えている人々もいます。いいえ、そうではありません。真のグニャーナとは、人間の神我〔アートマ〕から出てくる知識です。それは、体験されるもの、他の人々に教えられるものです。最終的に、それは、自分は大きな恩恵を受けよう、悟りを得ようと、努めるようにさせてくれるでしょう。

人は第一に「人間性」という言葉の重要性を認識しなければなりません。人間性は人の神我から現れ出ます。人間性は、教科書を読んだり他人の話を聞いたりして手に入るものではありません。

愛の化身である皆さん!

皆さんは、グニャーナを手に入れるため、そして、プラグニャーナ、ヴィグニャーナ、スグニャーナという言葉の真の意味を知るために、ケーララ州からはるばるここにやって来ました。実践的知識を伴わない単なる机上の知識は「アレルギー」に変わります。反対に、机上の知識が実践的知識に変化すると、それは「エネルギー」になります。言い換えるなら、実践で得た知識が本当の知識です。それこそが、あなたに人間(マーナヴァットワ)と呼ばれる資格を与えてくれます。

愛の化身である皆さん!

私たちが他の人々に教えることは、すべて実践によって裏付けられたものでなければなりません。すべては、自分の中にあるものの反作用・反映・反響です。私たちが口にする一つひとつの言葉は、内にあるものの「反響」です。「反映」は、憶念され、経験され、実践されたものです。第三の側面である「反作用」は大変重要です。「反作用」は行いから生じるものです。ですから、私たちの行いは常に純粋で神聖なものでなければなりません。三つの側面である反作用・反映・反響は、人間の生活の中で重要な位置を占めています。今日、人が学んでいることは何であれ「反響」の部類に入ります。要するに、教師から教科書に載っていることを教えられているということです。これは机上の知識です。反響は反作用から生じ、反作用は反映へと姿を変えます。これら三つの側面の一体性が人間性に相当します。ですから、人は美辞麗句を連ねて自分の時間を無駄にすべきではありません。人が口にする言葉はすべて、その言葉の内的意味の深い熟慮と知識によって裏打ちされたものでなければなりません。それをしてから初めて他人に教える試みをすべきです。残念なことに、昨今では机上の知識が真の知識と見なされて、それを得ることに多くの時間が費やされています。真の知識は頭(マスタカ)とハートから現れるべきです。ですから、人は自分の頭とハートを浄化して、それらの中に入っている不純なものを取り除かなければなりません。そうしたときにのみ、物事を正しい見方で理解し、英知を手に入れることができます。

おお人よ、博学を誇り、有頂天になるなかれ
内在の神への謙虚な祈りと信愛がなければ
得た学識の一切は、頭に詰め込まれた重荷にすぎない

(テルグ語の詩)

真の教育は人が自分の本性を悟ることを可能にさせる

愛の化身である皆さん!

皆さんは、折に触れて新しい技術や仕事に適応する必要があるかもしれません。今、世界は驚異的な変化を経験しています。そういった変化の一切は、皆さんには関係のないことでしょう。とは言うものの、皆さんは世界中で起きている科学と技術の急速な変化に対処するために、現代知識の様々な部門を身に付けるよう求められています。けれども、それらは真のヴィッディヤー〔学識、高次の知識〕ではありません。真の教養とは、それによって人が自分の本性を悟ることができるものです。アヴィッディヤー〔ヴィッディヤーでないもの〕はアヴィッディヤーを生みます。ですから、世俗の教育を追及しても偉大にはなれません。人はヴィッディヤーとアヴィッディヤーを識別する努力をしなければなりません。ヴィッディヤーとは、人が論理的に考える力と識別力を深めて、真理を悟ることができるようにさせるものです。一方、アヴィッディヤーは、言葉を無分別に使ったり、無益な議論をしたりさせるものです。さらに、人は実践で得る知識を身に付けなければなりません。それによって体験を手に入れることができます。そうして得た体験は他の人々と分かち合うことができます。実践で得た知識と体験は、人に力を与えてくれます。けれども、その力を単なる身体的な力と解釈してはなりません。それは電線の中に隠れている電気エネルギーのようなものです。送電線の中に電気エネルギーが存在するように、人間の体の中にはエネルギーが隠れており、それは様々に現れます。そのエネルギーは、読むこと、書くこと、歩くこと、話すこと等といった様々な目的のために役立ちます。けれども、そのエネルギーには形がありません。にもかかわらず、そのエネルギーは頭から爪先まで人間の全身を巡っています。このエネルギーを引き出すことによって、アグニャーニ(無知の人)はグニャーニ(英知の人)となることができます。

愛の化身である皆さん!

皆さんは全員学生ですが、一生ずっと学生であり続けなさい。自分は教育を終えて、今は奉仕活動に従事している、などと考えるのは誤りです。皆さんは誰かの下で働く召し使いではありません。実際、皆さんはリーダーです。どのような奉仕を請け負っても、その奉仕をしているのは自分である、と考えるのは間違いです。決してそのようなことが起こってはなりません。実のところ、あなたの請け負っている奉仕が何であろうとも、それはあなた自身を向上させるためのものです。奉仕活動は、自信〔神我への信頼〕、自己満足〔神我を満足させること〕、自己犠牲〔神我への犠牲〕をもって行い、最終的に自己実現〔神我顕現〕を目的としなければなりません。ですから、奉仕の精神は神我から現れるのです。奉仕とは他者を助けることである、などという解釈は、どう考えてもできません。自分はサティヤ サイオーガニゼーションに加わって奉仕活動を請け負うことで他人に奉仕している、と皆さんは考えているかもしれません。これは正しいことではありません。また、皆さんは、奉仕活動において他の人々の助けを求める必要もありません。自分が生まれ持っている力とエネルギーに頼ればいいのです。あなたの中に存在する神我の力が、あなたの払うあらゆる努力を助けてくれるでしょう。実際、あなたの行うあらゆる奉仕活動の受け手はあなた自身であって、他の人々ではありません。あなたの神我は、あなたの努力を守護してくれるでしょう。

本来、奉仕は自己実現のためにある

セヴァ ダル〔奉仕団〕の一員である皆さん!

自分は奉仕を請け負うためにここに来た、と皆さんは考えているかもしれません。その奉仕は他人のためのものではありません。食べ物を食べるのは自分のお腹をいっぱいにするためであるのと同じように、皆さんは自分自身に奉仕するためにここへ来たのです。人間は、自分の自己実現のために、あらゆる行為を請け負うのです。

この二日間で皆さんが学ばなければならないことが幾つかあります。そのことについては後ほど話し合います。今日は初日ですから、私は皆さんが奉仕の精神を理解できるように詳しく話をしました。皆さんは他にも幾つか学ばなければならないことがあります。セヴァ ダルとは何でしょう? セヴァ ダルの一員は皆、美しい花の一枚のダル(花びら)のようなものです。セヴァ ダルのメンバーが身に付けておくべき、いくつかの技能があります。苗を植えると、次第に若木へと生長し、そのうち美しい花が咲きます。しかし、苗のままでは魅力はありません。苗が成長して花を咲かせると、花の美しさと芳香があらゆる人に喜びを与えます。花には花びらが付いています。花びらがある限り、花は美しく見えます。花びらがしおれて落ちてしまえば、花は存在しなくなります。ですから、皆さんは美しい花の花びらであるべきです。あなたという花びらの付いた花の美しさを、あらゆる人に体験させ、その芳香を楽しませてあげなさい。まだ皆さんに話すべきことが幾つかありますが、それはムクンダン氏が話してくれるでしょう。私は後で、皆さんが必要とするであろうどんな説明でもしてあげましょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.38 C8