サティヤ サイババの御言葉

日付:2005年4月13日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ケーララ州青年キャンプにおけるババの御講話(下)より

愛は神、神は愛、愛に生きよ

神は愛、愛は神
この愛の原理をしっかりと持ち続け
愛と愛の関係を深めるなら
人は不二一元の境地に達する

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!

皆さんは、この大会に参加するために、大いなる期待を持ってここへ来ました。プラシャーンティ ニラヤムでの滞在は短くとも、あなた方の体験は意義深く、それについては皆さんのスピーチの中で詳しく述べられました。しかし、あなた方はさらに多くの体験を得るに値します。

すべての帰依者が集い、美しい旋律で神の栄光を歌う日
貧しい人々の苦しみが愛情深く取り除かれ、万人が兄弟姉妹として生きる日
常に神を憶念するダーシャ(神の召し使い)の集団に、
豪華なご馳走がふるまわれる日
高潔な人々が訪れて、愛情深く神の物語を語ってくれる日
その日を本当の一日として楽しみなさい
それ以外の日は、すべて忌日
他に何を語る必要があるだろう、おお 高潔な人々よ!

(テルグ語の詩)

二元性を捨てよ

この大会で、皆さんは青年の義務や責任といったものの様々な側面と、それらがいかに青年の人格を形成するようになるかについて、長時間にわたって論じてきました。あなた方のすべての活動を愛に満ちたものにしなさい。現代の青年は、愛というものの本当の意味を理解できていません。二元性という気持ちがあるなら、愛は存在できません。不二の愛(エーカートマ プレーマ)が真の愛です。ギブ アンド テイクの関係には、愛の真の精神は映し出されません。何の見返りも期待せずに、ひたすら与え続けるべきです。それが真の愛です。苦境の時に身を引くのは、利己的な愛のしるしです。真の愛(ヤタールタ プレーマ)は、あなたが利己心(スワールタ)を捨てて他者の安寧(パラールタ)のために懸命に努力するときに、最も行き渡ります。物質(パダールタ)と実在(ヤタールタ)の違いを知るべきです。実在は物質を超越しています。

サルヴァム カルヴィダム ブラフマー
(まことに、このすべてがブラフマンなり)

すべては神であると考えて、苦痛と快楽、損失と獲得といった人生の二元性に、平常心で対処しなさい。

スカドゥフ ケー サメークルットワー ラーバラーバゥ ヂャヤーヂャヤウ
(幸福と悲しみ、獲得と損失、勝利と敗北に影響されずにいるべし)

〔ギーター2章38節前半〕

決して心(マインド)の気まぐれに流されてはなりません。心に従うなら、あなたは実在ではなく物質だけを見ます。心は物質と結び付いています。物質と結び付くべきではありません。心と結び付くなら、決して一体性を見ることはできません。二元性を捨てない限り、真の愛とバクティ〔神への愛〕を深めることはできません。

愛の化身である皆さん!

あなたの中にも、他の人々の中にも、同一の愛の原理が存在することを理解しなさい。真の帰依者とは、一体性の原理を理解し、それに従って行動する人のことです。不二一元こそが真のバクティです。何も期待することなく、あなたの愛を他の人々と分かち合いなさい。愛だけのために、すべての人を愛しなさい。あなたの愛を他の人々に広げるなら、不二一元の境地に到ることができます。皆さんが毎日毎日経験している、身体的、世俗的な面での愛は、まったく愛などではありません! 真の愛は、一つの姿、一つの道、一つの目標に焦点が合っています。愛を分割して様々な方向に向けるのは、大きな間違いです。愛は神です。神は愛です。愛に生きなさい。そうして初めて、皆さんは一体性の原理を悟り、人生において成就を得ます。

プレーマ ムディタ マナセー カホー ラーマ ラーマ ラーム
〔愛と喜びに満ちた心でラーマの御名を唱えよ〕

自分の好むどんな神の御名を選んでもかまいませんが、ありったけの愛を込めて神を呼ぶようにしなさい。愛は最も神聖で、甘美で、不二です。愛を分割して多様性と結び付けることは大きな過ちです。あなたの愛は、楽しいときも苦しいときも、一様でなければいけません。愛とバクティは違いに余地を与えません。あらゆる違いはあなたの心の産物です。あなたと私は一つであるという一体感を育てなさい。決して私とあなたは違うなどと考えてはなりません。それが真のバクティのしるしです。

「I」〔私〕という文字は、一つであることを表しています。「あなた」(個人という自己認識)というものは、純粋性を育てて神との一体感を味わえば、存在しなくなるでしょう。ですから、二元的な感情を捨てなさい。一体性の原理は、愛を通して体験しなければなりません。それは言葉では説明できません。しかし、皆さんは愛というものの本当の意味を理解していません。皆さんは、身体的、世俗的な感覚で愛を解釈しています。その結果、あなた方の愛はまったく一様ではなく、折りに触れて変わり続けています。体への執着によって愛を汚してはなりません。体は物質でできています。物質と結び付いているものはどれも、決してあなたに平安と幸福を与えてはくれません。ですから、物質を超越して実在を見なさい。一体感(エーカトマ バーヴァ)を育てなさい。すべては一つです。誰に対しても平等でいなさい。世俗的な感情を愛に起因するものと考えるのは、大きな間違いです。愛には二元性が入り込む余地はありません。

愛の化身である皆さん!

皆さんの名前と姿形は様々ですが、皆さん全員の中にある愛の原理は同じです。だからこそ、私は皆さんに「愛の化身である皆さん」と呼びかけるのです。愛は常に一つです。愛は分割されてはならないものです。神は一つであると考えて、心の底から神を愛しなさい。そのような、神に向けられた一意専心の愛こそが、真のバクティと呼べるのです。ジャヤデーヴァ、ガウランガ〔チャイタニヤ〕、エークナータといった信者たちは、そのような愛を深めて人生を聖化しました。同様に、ミーラーとサックバーイーも、揺るぎない愛と神へのバクティを持っていました。彼らが様々な御名と御姿を礼拝することはありませんでした。彼らは一つの道を歩みました。彼らは一つの御名と一つの御姿をハートに据えて、自分が選んだ神を絶え間なく憶念しました。二心(ふたごころ)を持ち、しばしば道を変える人は、人生をだめにすることになります。ですから、決して二心を持ってはなりません。一体感(エーカトマ バーヴァ)を身に付けて神を体験しなさい。ラーマ、クリシュナ、イーシュワラ等々、どんな御名を選んでその御姿を憶念してもかまいません。あなた方は必ず人生の目的地に到達することでしょう。心の焦点を常にその目的地に合わせて人生を送っていきなさい。

真の愛こそが神へと向かう道

あるとき、ラーダーは、どこにもクリシュナを見つけることができませんでした。ラーダーはクリシュナの身体に執着していたので、クリシュナを探してあらゆる所を回りました。ラーダーはいつもクリシュナの身体のそばにいることを熱望し、それを想い焦がれていました。御名と御姿は同一です。しかし、人々はその一体性を深く探求して体験することができずにいます。

愛の力は比類なきものです。それは人間の理解の範囲を超えています。愛は、愛を通してのみ理解できます。ミーラーの夫であったラナは、クリシュナのために寺院を建立しました。ミーラーは神の偉大な信者であったため、いつも寺院の中で恍惚となって神の栄光を歌っていました。そして、それがラナの怒りを買うこととなりました。ラナはミーラーに寺院を離れるよう命じました。ミーラーにそれに大変なショックを受けました。ミーラーは心の中で考えました。

「クリシュナは遍在で、この寺院に閉じ込められているわけではないのだから、ラナが私をクリシュナから引き離すことなどどうしてできるでしょう?」

ミーラーは家を出て家庭を去り、マトゥラー〔クリシュナが統治した都〕に向かいました。マトゥラーとはどこでしょうか? それは地理上のどこかの場所ではありません。甘美な愛に満たされたハートこそが、マトゥラーです。ミーラーは歌いました。

チャロー レー マン ガンガー ヤムナー ティール
(おお、心よ! ガンジス河とヤムナー河の合流地点へお行きなさい)

ここでのガンジス河とヤムナー河とは、イダーとピンガラー(霊的な気が流れる左右の霊管)を象徴的に意味するものです。イダーとピンガラーが交わる眉間の中央はマトゥラーを表しています。これがその歌の秘儀的な意味です。ミーラーはクリシュナ神の御名を絶え間なく唱えながら、川を渡り、丘や谷や森を越えて、マトゥラー目指して進みました。遂にミーラーがブリンダーヴァンに到着した時、寺院の扉は閉ざされていました。何度祈っても、扉は開きませんでした。ミーラーは言いました。

「ああ、クリシュナ、私のハートはあなたの寺院です。私はハートの祭壇にあなたを据えました。」

現代の人々は、自分たちが使っている言葉の内的意味を探ろうとはしません。人々は世俗的な意味や解釈に夢中になっています。あなたは、真実で永遠なる自分のハートから湧き上がってくる感情を考慮すべきです。そうすることで、ミーラーはクリシュナと一つになる体験をしました。もし、あなたがバクティの道を歩むことを望むなら、愛の原理にしっかりとしがみつくべきです。普通の人は、そのような固い決意を持っていません。しかし、真の帰依者は、いかなる状況にあろうとも、決して愛の道から外れることはありません。愛以外に、私たちを神へ連れて行くことのできる道はありません。もっともっと愛を深めなさい。あなたがどこにいようとも、愛はあなたの唯一の避難所です。

愛の化身である皆さん!

あなたのハートを愛で満たし、家へ帰ったら、その愛をあなたのあらゆる活動の指針としなさい。ハートに愛を持っていれば、何一つ心配は要りません。神は、いつもあなたと共に、あなたの中に、あなたの周りにいて、あらゆる点であなたの面倒を見るでしょう。あなたが、「クリシュナ、私はあなたに従います」と言うとき、それはクリシュナとあなたが離れていることを意味しています。その場合、あなたは道を見失う可能性があります。ですから、「クリシュナ、どうかいつも私と共にいてください」と祈るようにしなさい。実際、クリシュナは、いつもあなたの中にいます。深く探求するならば、あなたはこの真理を体験するでしょう。クリシュナから離れることは不可能です。多くの信者が、「ああ神様、私はあなたの中に、あなたと共に、あなたのために存在しています」と言います。彼らはこういった言葉を鸚鵡のように繰り返しますが、心の底からそう言っているわけではありません。実際、神は断じてあなたから離れていません。神がいつもあなたの中に、あなたと共に、あなたの上に、あなたの下に、あなたの周りにいるという確信を持って、心の底から神に祈りなさい。それほどの祈りを神に捧げるなら、神は必ずあなたの人生を救うことでしょう。

あと一日残っています。皆さんがもっとよく理解できるように、私がこうしたことをすべて詳しく説明してあげましょう。あなたがこれまで体験したことで満足してはなりません。体験すべきことはもっとたくさんあります。それらはあなた方のハートを至福で満たすことでしょう。ちょっと食べただけで、どうして空腹が満たされたなどと言えますか? 今後、皆さんが十分に神を体験するための余地は、まだまだたくさんあるのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.38 C9