日付:2007年7月28日
場所:サイクルワントホール
世界青年大会閉会式の御講話より
動物も鳥も、小さな虫さえも、この世界のあらゆる生物は真理から生まれました。この真理を悟る人は真のヨーギ (ヨーガ行者) です。真理がなければ、この世界にはどんな活動もあり得ません。そしてそのサッティヤム(サティヤ、真理)が、ただ1人の人間、つまりこのサッティヤム (ババ) に体現されています。(ここでバガヴァンは集まった人々に、御講話の始めに物質化したヒランニャガルバ リンガ〔黄金の卵(黄金の宇宙卵)型のリンガム〕をお見せになりました) この純粋で汚れのない原理を見なさい。このような純粋意識を物質化できる人が他にいるでしょうか?
いつも真理を黙想していなさい
真理はあらゆるところに存在しています。真理について考え、真理を黙想するなら、真理は皆さんの内にも顕(あらわ)れます。ですから、皆さんは常に真理を黙想すべきです。なぜこの身体はサティヤ サイと名づけられたのでしょうか? この身体からサティヤ (真理) が生じたために、この名前がついたのです。サッティヤム (サティヤ、真理) は真理を黙想し続ける人のハートの内に顕れます。ですから、決して真理を忘れてはなりません。ダルマはサティヤの反動、反映、反響です。
サッティヤンナ―スティ パロー ダルマ(ハ)
(真理に従うこと以上に偉大なダルマはない)
今日、学生たちにあらゆる種類の世俗的知識が授けられています。しかし、これは真の教育ではありません。真の教育はハートから生じる真理に関係しています。真理は名と姿を持ちません。真理の姿とは一体何でしょうか? ダルマ (正義) の姿とは何でしょう? シャーンティ(平安)の姿とは何でしょう? サティヤ、ダルマ、シャンティ、プレーマ (愛) 、アヒムサー (非暴力) は姿を持ちません。人間のハートの内に秘められたこれらの価値が、顕現されなければなりません。人間の内に存在しない力は、いかなる生物、あるいは天人の中にも見られません。それゆえ、人間は神であると見なしなさい。
ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ
(神は人間の姿をとる)
皆さんは人を単なる人間だと考えています。そのために多くの間違いを犯してしまうのです。皆さんは人間ではありません。皆さんは神です。自分は神であると考えなさい。そうすれば神になります。
ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ
(思いのとおりに結果は生じる)
悪いことを思うなら、悪い考えしか浮かばないでしょう。
一昨日〔開会式で〕、私はこの世界のすべての人は愛を持っていると言いました。しかし、愛にはたくさんの種類があります。学生は学生を愛します。女性は女性を愛します。神は (学生と女性の) どちらにも存在します。どちらも神の化身です。それぞれの身体に秘められている神性はただ1つです。
エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
(真理は1つ、しかし、賢者はそれをさまざまな名で呼ぶ)
神はすべての人の内に存在しているのですから、私たちはすべての人を愛すべきです。すべての人を愛し、すべての人に奉仕しなさい。神はあらゆるところに存在します。神が存在しない場所はありません。神は空中にも水中にも、音の中にも光の中にも存在します。ですから、この宇宙の一切のものは神で満ちています。この遍在の神を忘れて、私たちは寺院の神像を崇めます。神像を崇めることは何も間違いではありません。しかし、神像の内に存在する同じ神がすべての人間の内にも存在していることに、気づかなければなりません。神像を崇めることが間違いであるとは言いません。しかし、実のところ、皆さん自身が神なのです。ですから、まず自分自身を神と考え、それから、同じ神がすべての人の内にいることを認識しなさい。そうすれば過ちはなくなります。実際、皆さんの身体は、まさしく神聖なエネルギーに覆われた寺院なのです。人はこのエネルギーを使う時、識別心を働かせなくてはなりません。私たちはこのエネルギーが神なのか、それとも身体が神なのかを問うべきです。実のところ、身体もまた神聖なエネルギーに満ちているため、神なのです。
決して神を忘れてはなりません
神は宇宙の一切の粒子、一切の原子の中に存在しています。神が存在しない場所はありません。それゆえ、 神を忘れてはなりません。そして、自分自身を忘れてはなりません。自分自身を忘れるなら、それは結局のところ、神を忘れていることになります。このような理由から、「常に気をつけていなさい (Always Be Careful)」と言われるのです。これが人生のABC (Always Be Carefulの頭文字) です。 決して神を忘れないよう注意していなさい。人生のあらゆる瞬間に、「私は神を忘れていないだろうか?」と自問すべきです。いつも「私は私である」と自分に言い聞かせなさい。皆さんはこの真理に固く立脚しているべきです。このようにするなら、他人に対する悪い思いが自分の中に侵入してくることはありません。無知な人々や知識のない人々だけが、異なる考え方をします。神はすべての人間の中に存在します。すべての人間の頭は、実際のところ、神の頭なのです。それゆえ神はヴィラート スワルーパ(宇宙的存在)と呼ばれています。創造物は、神が宇宙の姿をとって顕現したものです。個々の姿は互いに異なって見えますが、すべての姿の中に同じ神が存在しています。クリシュナ神は言いました。
ママイヴァームショー ジーヴァローケー
ジーヴァブータッ サナータナハ
(万物に内在する永遠のアートマは私の存在の一部である)
バガヴァット ギーター一15節7章
ですから、ただ私のみが、皆さん方一人ひとりの内に存在しているのです。私は皆さんと異なるものではありません。皆さんは私と異なるものではありません。私は皆さんであり、皆さんは私です。ですから、いかなる差異も心に抱いてはなりません。皆さんがしなければならないことは、ただ愛を強めることです。 愛の果実がハートの中で完全に熟したなら、その果汁を皆と分かち合うべきです。ですから、何よりもまず、ハートに愛を実らせなさい。ハートが愛で満たされたなら、他のすべてのものも愛で満たされるでしょう。私たちは誰をも憎んだり傷つけたりしてはなりません。今日、どこを見ても憎しみばかりが見られます。互いに意見の相違はあっても、霊的観点からすれば、すべての人が1つです。実のところ、全世界のすべての人々は無 (ゼロ) にすぎず、神だけが英雄 (ヒーロー) です。神は数字の1と同じです。1があれば、すべてのゼロが価値を持ちます。1にいくつゼロを足しても価値が得られます。1を取り除いてしまったら、すべてはただのゼロになってしまいます。ですから、人生において神を最も重要視しなさい。
ナーマスマラナによって心を清めなさい
皆さんの喜びや幸せの原因であり、すべての悲しみの原因でもあるものが1つあります。それは心 (マナス、マインド) です。多くの人々は心に対して否定的な見方を持っています。人々は心をモンキー マインド(猿のように落ち着かない心) と呼びます。しかし、心はモンキー マインドではありません。心はマンカインド (人間) です。心は優しさと喜びの源です。心を適切な状態に保っておくなら、何も悪いことは起こりません。心を神であると見なしなさい。そうすれば、皆さんはいつも幸せでしょう。
アートマ (真我) と呼んでも、心と呼んでも、良心と呼んでも、すべては1つです。私たちは本質を語らないまま、ただ区別するために、同じ原理に対してさまざまな名をつけています。たとえば、この肉体はサティヤと名づけられています。しかし、この名前は私の肉体に関係しているのであって、私とは関係ありません。私は肉体ではありません。私は心ではありません。私は知性ではありません。私はチッタ (心素)(しんそ)ではありません。私は想像の産物ではありません。バガヴァン (尊者、尊神) はバガヴァンです。このような固い信念を養いなさい。付き合う仲間や食べ物や習慣に影響されて、心に変化が生じている人々がいます。 「あなたの仲間を言ってごらん、あなたがどんな人か言ってあげよう」——どのような仲間と付き合ったとしても、皆さんは仲間と同じような考え方を育むようになります。ですから、良い仲間にだけ加わりなさい。
サットサンガットウェー ニッサンガットワム
ニッサンガットウェー ニルモーハットワム
ニルモーハットウェー ニスチャラタットワム
ニスチャラタットウェー ジーヴァンムクティ
よい仲間は無執着へと導く
無執着は迷妄を取り除く
迷妄から自由になれば心が定まる
心が定まれば解脱が得られる
サンスクリット語の詩句
誰でも解脱を得ることができます。しかし、いつでしょう? 「自分はアートマである」という真理への信念が堅固になった時、一瞬にして解説が得られます。「スワミは私の中にいる。私はスワミの中にいる」このように考えなさい。しかし、揺れ動く心でこの真理を考えても、何の役にも立ちません。安定した心で「私はスワミ、私は神、私は神」と考えなさい。確信が固まれば、皆さんは、ニルグナム (無属性) 、ニランジャナム (無垢)(むく) 、サナータナ ニケータナム (最後の住居) 、ニッティヤ (永遠) 、シュッダ (純粋) 、ブッダ (大悟) 、ムクタ (自由) 、ニルマラ スワルーピナム (神聖さの権化) である神に到達します。
しかし、不純な考えが心に入り込むなら、すべてが悪くなります。心が汚染されたなら、適切な治療が必要となります。それは何でしょうか? それは神の御名です。同様に、身体もまた汚染された水を飲んだり、不適切な食べ物を食べたりすることによって苦しめられます。身体を保護することが必要です。なぜ神は皆さんに身体を授けたのでしょうか? それは皆さんが自分自身を悟るためです。けれども皆さんはこの真の目的を忘れて、心をただ身体だけに集中させています。結局、身体の中にはいったい何があるでしょうか? 身体は、はかないものであり、水の泡のように短命です。このことを理解するなら、皆さんの人生は祝福されます。
他人の言うことに惑わされてはなりません。心の純粋さは知識の結実をもたらします。心が純粋になれば、真の知識が得られます。それゆえ、心の純粋さが不可欠です。心をいつも純粋な状態に保ちなさい。悪い思いが心に入ってきたら、「これは良くない。これは私のものではない」と自分自身に言い聞かせなさい。「これは私の所有物ではない。私の所有物は、良い思い、良い考え、愛、愛、愛だ!」と言いながら、悪い思いを追い払いなさい。「愛は神、愛に生きよ」― 皆さんがこの原理に固く立脚するなら、すべてが皆さんにとって良いものであることが分かるでしょう。
心を11秒間固定させなさい
皆さんは多くの誤った考えによって悩まされています。皆さんの心は疑いなく純粋であり、心の中には純粋な思いしかありません。しかし、時折、皆さんの心に汚染物が侵入します。汚染物が心に入り込まないように注意しなさい。それが、皆さんが取り組まなければならないサーダナ (霊性修行) です。サーダナとは何でしょうか? 瞑想(めいそう)で座ったり、ジャパを行ったりすることがサーダナでしょうか? いいえ、こうしたものはサーダナではありません。瞑想とは何でしょう? 瞑想の意味とは何でしょう? 姿勢を定めて座り、神の御名を唱えることが瞑想でしょうか? いいえ、違います。皆さんがしなければならないのは、ハートの神聖な感情を注意深く観察することです。皆さんの真理を熟考するべきです。もし、皆さんが本当にサーダナの真髄を知りたいと言うのなら、簡単に説明することができます。心を11秒間固定させなさい。この程度を実践するだけでも、間違いなく真我顕現はもたらされます! もし、心が時計の振り子のように揺れ続けるなら、それは瞑想とは呼べません。心を11秒間固定させることができれば、それで十分です。けれども、皆さんはそれすら十分に行うことができません。皆さんの心は11秒の間に11のローカ (世界) を旅してしまいます。この11秒という短い時間でも、多くのことが成し遂げられます。サーダナの名の下に自分に過大な負担を強いる必要はありません。
皆さんは身体に過度の負担をかけ、さらに時間も無駄にしています。「時間の無駄は人生の無駄」―皆さんは、時間だけでなく、お金も無駄にしています。お金の無駄遣いは害悪です。ですから、お金と時間を無駄にしてはなりません。「時間は神、神は時間」——ですから、時間がある時はいつでもスワミを黙想しなさい。そうすれば、間違いなく皆さんは私のダルシャン (姿の拝見) を得るでしょう。ダルシャンだけでなく、サムバーシャン (会話) の機会も得られるでしょう。多くの帰依者から、「昨日スワミが現れて、私と話をしてくださいました」といった書き出しの手紙が私に届きます。皆さんも、そのようなスワミに対する揺るぎない信仰を育んで、彼らのようなサーダナを行うべきです。そうすれば間違いなく成功します。ここに来る人々は皆、自分のことを帰依者と呼んでいます。皆、確かにいくらかの信愛 (バクティ) を持ってはいますが、信愛の特質に気づいていません。まず、信愛の真の意味を理解すべきです。まず第1に、信仰心を育(はぐく)まなくてはなりません。
信仰あるところに、愛あり
愛あるところに、真理あり
真理あるところに、神あり
真理は神です。真理は神に他ならないと考えなさい。真理を知るために特別な努力をする必要はありません。11秒間、真理を黙想するだけで十分です。心を11秒間だけ真理に固定させなさい。そうすれば神のダルシャンを得ることができます。皆さんは何時間も座って不必要に自分の身体に負担をかけ、そのために足や背中の痛みに悩まされています。そのような関節の痛みが生じる機会を与えてはなりません。医者の多くは、そうした関節の痛みをリウマチの痛みと診断するかもしれません。けれども、それはリウマチ痛などではなく、誤ったサーダナによって引き起こされた痛みです。11秒という時間をしっかりと守るなら、何の痛みも起きないでしょう。
よい食習慣を育みなさい
加えて、規則正しく適時に食事をとるべきです。食事に関しては繊細な考慮すべき事項があります。肉や魚を食べてはなりません。けれども、外国人は非菜食の食事に耽溺(たんでき)しすぎています。ガンをはじめとする病気は、非菜食の食事をとることによって引き起こされます。ですから、非菜食の食事を完全にやめなさい。それだけではありません。外国人はチーズが大好きです。チーズを食べれば食べるほど、皆さんは弱くなります。牛乳も飲みすぎてはなりません。牛乳をとりすぎることもまた有害です。牛乳を飲むことに関しては一定の限度を守りなさい。牛乳に同量の水を加えて薄めなさい。カード (凝乳、液状ヨーグルト) に関しても同じルールを守らなくてはなりません。あまり濃すぎてはならず、水を混ぜて薄めるべきです。食前に神に祈ることもまた不可欠です。食事に関するこのような規律を守るなら、必ずや、すぐさま神のダルシャンが得られるでしょう。
多くの年月を費やして長期にわたるサーダナをする必要はありません。皆さんはいつも至福の状態でいることができます。神はまさに至福の権化そのものです。神は、ニッティヤーナンダム (永遠の至福)、パラマ スカダム(この上ない至福)、ケーヴァラム グニャーナムルッティム (究極の英知の権化)、ドゥワンドゥワーティータム (二元を超越しているもの)、ガガナ サドリシャム (空のように広大なるもの)、タットワマスィヤーディ ラクシャム (「汝(なんじ)はそれなり」という格言によって示される目的地)、エーカム (不二一元)、ニッティヤム (永遠なるもの)、ヴィマラム (純粋なるもの)、アチャラム (不変なるもの)、サルヴァディー サークシブータム (知性のあらゆる働きの目撃者)、バーヴァティータム (一切の心の状態)、トリグナラヒタム(浄性・激性・鈍性の3属性を超越するもの)です。
人々は「至福が欲しい」と言います。この至福はどこから来るのでしょうか? 市場の店で購入することができるでしょうか? あるいはホテルで食べることのできるものでしょうか? いいえ。至福は内から生じます。実際、皆さんは至福の化身そのものです。誕生した時、人は至福に満ちています。やがて世俗的な欲望に執着するようになると、苦しみ泣き始めます。それゆえ、世俗に対す執着を減らしなさい。「荷物は少ないほど快適になり、旅は楽しいものとなる」のです。ですから、不必要な執着を捨てなさい。執着を育むなら、皆さんは心配におぼれ、身体も衰弱して苦しむことになります。心配は健康によくありません。性急さと心配とカレー(脂っこい食べ物) は心臓を弱めます。ですから、性急さと心配とカレーをやめなさい。困難に遭遇したら、次のように考えるべきです。「これらの困難は、来た時のように、また過ぎ去ることだろう。私はこれらの困難と何の関係もない」来たものは何であれ、いつかは去っていく運命にあります。皆さんの身体もまた同じです。ですから、身体への執着は必要最小限にすべきです。皆さんは一定の限度を守るべきです。さもなければ、必要以上の執着は身体に悪い影響をもたらすでしょう。
愛は最も強力な薬
サーダナを行いながら、神を見たい、神と話したいと願っている人は、私のアドバイスに従って行動すべきです。そうすれば必ず、神を見ること、神と話すことができます。バクティ(信愛)は、プージャー(礼拝)やヴラタ(祈祷)、ジャパといったものに限りません。真の信愛とは、神に対する、揺るぎのない、断固とした愛です。神に対するそのような愛を育みなさい。それよりも偉大なことはありません。皆さんは肉体を捨てるかもしれませんが、この愛は決して捨ててはなりません。 愛は永遠不滅であり、無限です。注意深く愛を保持していなさい。そうすれば、必ずや神を得るでしょう。
世俗に執着するゆえ、人は悪魔のような性質を育んでいます。強欲と怒りは人間の最悪の敵です。皆さんはいつも顔に微笑みを浮かべて、愛に満ちているべきです。快活でいる時、愛が自然にわき上がります。けれども、いつもヒマシ油 (下剤に用いる油) を飲んだようなむっつりした顔をしている人がいます。いつも微笑んでいなさい。神はいつも微笑んでいます。神は一瞬たりとも、どんな心配や悲しみも抱くことはありません。
私はいつも微笑んでいます。私には一切苦しみはありません。私はある少年が犯した間違いのために怪我をしました。私の腰の骨は4つに割れました。医者たちがやって来て、とてもたくさんの包帯を巻きたがりました。私は医者たちに「だめだ」と言いました。私はバルコニーまで歩いて行き、帰依者たちにダルシャンを与えました。多くの医者がやって来て私を診察しました。ピレイ医師とその息子がシンガポールからやって来ました。アメリカや他のさまざまな場所から多くの専門医もやって来ました。医師たちは「スワミ! 5分だけください」と言いました。 私は「霊的な事柄のためなら5時間でもあげますが、この肉体のためには5分さえもあげることはできません」と医師たちに言いました。青年たちが私の手を取る時、私はいつも、手を取らないようにと言います。その日以来、私にはわずかな痛みや苦しみもありません。
私の中に弱気はまったくありません。私の体重は、以前いくらであったとしても、今日も同じです。私の体重は今も49キロほどです。以前も同じ体重でした。半ポンドでも増えたり減ったりしたことはありません。私はいつも健康です。私の健康について心配する必要はありません。私はいつも元気旺盛です。皆さんが私を見る時、私に痛みがあるように見えるかもしれませんが、一切痛みはありません! 皆さんの愛こそが私の痛みに効く薬です。
私は皆さんを見ると至福に満たされます。たとえ痛みがあったとしても、医者によってではなく、皆さんの愛によって痛みは消えてしまうでしょう。世界中のさまざまな場所から、大勢の皆さんがやって来ました。これは何を意味するのでしょうか? 大勢の皆さんが私を愛しているというまさにそのことを思うと、私は限りない至福で満たされます。ここにいる時だけでなく、どこにいる時にも幸せでいなさい。私はいつも幸せです。私は皆さん方を見るととても幸せになります。これは皆さんにとって非常に幸運なことです。ここに来た人たちは皆、愛(プレーマ)と信愛(バクティ)に満ちています。このことが私を大きな熱意で満たします。私は、歩いて皆さんにダルシャンを与えているような気分です。
愛よりもすぐれた薬はありません。皆さんの愛が私の薬です。これは最も強力な薬です。同様に、皆さんにとっては私の愛が最も強力な薬です。皆さんがいつも幸福で平安でありますように! 同じ家族の一員のように、幸せに、そして、団結して暮らしなさい。それだけでなく、小さな問題に打ちひしがれることのないようにしなさい。どんな心配にも侵入する余地を与えてはなりません。自分の子どもや妻が病気にかかっても心配してはなりません。すべてが良くなるということを信じなさい。それぞれの家に帰って、幸せで平安な生活を送りなさい。(バガヴァンは先に物質化されたリンガをお見せになりながら)皆さん、これを見ましたか? これはとても重いです。シヴァラートリーの日には、これよりも、もっと大きなリンガが私の身体から出てくるでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sanathana Sarathi October 2007